山口歴史旅2022(2)山口散策

いよいよ市内中心部に到着。約3㎞歩いた。藩庁門跡の向こうには大きな県庁が聳え立っている。どこの県庁も立派過ぎるとは思うのだが、ここは一段をその感を強める。その横の県政会館も素晴らしい。これぞ山口、長州藩といった雰囲気が漂う。県政会館は自由に見学でき、歴代県長の2代目に関口隆吉(明治初期、静岡牧之原開拓に尽力)の名を発見。山口の特産物コーナーには小野茶があった。

その裏を歩いて行くと洞春寺があった。山門に『菩提樹開花中』と書かれており、花が咲いていた。初めて見たかもしれない。奥の方の墓地へ行くと、井上薫、武子分霊の墓などがある。井上聞太も湯田温泉の出身だった。隣の香山公園には毛利家歴代の墓があり、国宝瑠璃光寺の五重塔がいい雰囲気で午後の光の中に建っている。人が少なくてとても気持ちの良い夕暮れを迎える。

公園内には枕流亭(幕末薩長連合推進のため薩摩藩小松帯刀、西郷隆盛らとの会見場)や露山堂(敬親の茶室で討幕密議の場)など、幕末関連の建物が移築されており、一部展示などでその様子が分かる。釜揚げ蕎麦という珍しい店があったが、何と5時閉店で食えず。トボトボと歩いて宿の方へ向かう。

途中に高い塔が見えたので寄っていくとザビエル教会があった。フランシスコザビエルは1550年に山口経由で京に上り、翌年戦乱の京から山口に戻り、布教を開始。この教会は真新しく、往時をしのぶものはないが、ザビエル像が建っている。もう日暮れが近いので教会には入れずに去る。

帰り道、瓦蕎麦を謳った居酒屋があり入ってみる。『酒は飲まない、瓦蕎麦が食べたいだけ』と言ったのに、何の説明もなく、お通し代500円を請求され、驚いてしまい、そばの味はよく覚えていない。やはり居酒屋は怖いから行かないことにしよう。

まだ陽があったので、宿の裏の井上公園にも寄る。高校生が野球するほど広かった。幕末の七卿落ち石碑や井上像がある。ここが先ほどの井上薫の生誕地で家も復元されていた。ここにも中原中也の石碑が見られる。更になぜか山口にも外郎屋さんがあったので、入ってみる。山口にも外郎渡来説があるらしい。夕方で普通の外郎は売り切れており、ラムレーズン外郎を買って帰る。宿は近代的な建物だが、大浴場は2か所あり、さすがに温泉宿だ。屋上の露天風呂でゆったりする。実に広々としていてよい。 

6月9日(木)山口散策

朝入る露天風呂はやはり極楽。地下一階にも大浴場があると聞いてはいたが、やはり明るい日差しの中で入りたい。朝飯はビュッフェだが、かまぼこ、はんぺん、肉じゃがなどが並んでおり、お粥と食べるととても健康的な気分になる。

朝から日差しは厳しかったが、歩いて井上薫遭難の碑を探す。井上は幕末、藩の政策を巡って対立した藩士に襲われ、瀕死の重傷を負っている。その石碑は大きい。井上を救った医師、所郁太郎の像は昨日井上公園にあった。地元のヒーローを救ったヒーローといった感じ。ずっと歩いていくと商店街アーケードへでた。朝方のせいか、とても静か。この付近は江戸時代には人の往来が多く、幕末の志士たちも駆け回っていたらしい。

アーケードを突き抜け、少し北へ向かうと十朋亭維新館という建物が見えた。元々大店の醤油屋さんらしいが、どうもきれい過ぎて歴史感覚がなく、入る気が起こらなかった。むしろその先の龍福禅寺に興味を持ち、入っていく。なぜかこの寺の入り口付近に、西田幾多郎の旧宅があった。西田は山口高校の教員で、教え子に鮎川義介がいたと書かれている。ここで『禅の研究』をしたのだろうか。

この寺は大内氏の菩提寺で境内には資料館もあった。陶晴賢の反乱により大内義隆は死に、事実上大内氏は滅亡した。荒廃したこの寺を再建したのは毛利家だったと書かれており、大内義隆の供養塔もあった。そしてこの地は大内館跡でもある。ボランティアの男性が懸命に除草剤を撒いている姿がなぜか印象に残る。

そこからまた歩いてザビエル記念公園に向かった。この地は1551年大内義隆から布教の許可を得たザビエルが住んだ大道寺跡らしい。明治になってビリヨンという神父がこの地を発見し、ザビエル碑が建てられると共に、ビリヨン胸像も建っている。その横は今、自衛隊駐屯地になっている。

どんどん歩いて行くと、歴史ある八幡宮や神社が出て来る。その先には菜香亭という建物が青空の雲の中に見える。この付近は幕末の混乱時に藩主であった毛利敬親の隠居所だったらしい。そして明治維新もここで論議されたとか。更に行くと雪舟のアトリエ?があった雲谷庵が復元されている。誰もいない室内、外に猫が一匹眠っている。雪舟も色々と興味深いが今日はやめておこう。

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