茶旅 静岡を歩く2022(3 )高天神城と松本亀次郎

宿に戻って荷物を引き取り、駅へ向かう。駅前に餃子の自動販売機があったが、あれは美味しいのだろうか。そこから電車で掛川を目指す。45分ほどで掛川駅に着き、今日の宿まで歩く。そこは数年前に一度宿泊したことがあったので場所はすぐに分かった。元々天気予報は雨だったのに、陽が出ている。暑いぐらいだが、荷物を引いて駅から10分歩くとすれば、雨でないのは大変有難かった。

午後4時前にK先生がわざわざ宿に来てくださり、半年前の茶話の続きを伺った。色々と資料を探して頂き、コピーを頂戴した。森薗市二、有馬利治から讃井元など、今では語られなくなった茶業人の様々な昔話が飛び出し、話があちこちに乱れ飛び、収集はつかないながらも、非常に参考になった。気が付けば3時間近くも話し込んでいた。夜は風が吹き、少し寒さが感じられたので、何とも申しわけない思いだ。

夜7時になり、ランチすら食べていなかったので、急に腹が鳴る。風の中、急いで近所の定食屋へ行ってみる。狭い店内に常連さんと思われるお客が数人。何とか席を確保して、たれ焼きチキン定食を注文する。これが予想以上に美味で、マカロニサラダも付いて、コスパが良い。帰る時にはもう看板になっており、危うく食べそこなうところだった。地方都市の夜は早く、既に人通りもない。

3月16日(水)丸尾文六を追う

今朝も朝風呂からボリューム満点の朝食を取る。そしてすぐに宿を出て、バス停を探す。目指すは高天神城だ。バスは時間通りやってきて、駅の南側へ回り、どんどん進む。20分ぐらいで高天神城の表示が見え始めたが、Googleで検索したバス停はまだ出てこない。結局かなり通り過ぎたバス停で降りる。そこから歩いて2㎞と表示されたが、何とGoogleが示した道は山の中へ入っていき、行き止まりで引き返す羽目に。

何とか回り込んで城門跡に辿り着き、そこから登り始める。山城、何と坂がきついことか。ここを攻める軍勢は大変だっただろう。何とか本丸跡まで来た時には息絶え絶えの惨状だった。この城は戦国末期、武田勝頼に攻められ、激しい戦闘があったと書かれている。今回の目的地は、この戦闘で討死した本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清兄弟の墓を訪ねることにあった。

この兄弟がここで散ったことにより、丸尾家は浜岡の方へ逃げて身を隠し、その後帰農したとあり、江戸時代は庄屋にもなった家だった。その家から幕末に生まれ、あの牧之原開拓事業を行い、明治期の静岡茶業の功労者となった丸尾文六が出たという。丸尾の功績は相当大きかったはずだが、今はどれだけ知られているだろうか。

二の丸跡の後ろ側に、兄弟の墓所があった。きちんと表示もされており、向かい側には『天正二年戦死者の碑』もある。丸尾家などが関与して、歴史を後世に残しているのだろう。搦め手から城を下ると坂は更に急激だった。こちらからはとても攻められない。下には『赤堀磯平顕徳碑』が建っていた。戦前『小笠流手揉製茶法』を完成させた人物と書かれており、如何にも茶処らしい。

バスの時間を考えながら、先ほどのバス停より前の停留地を探していると、目の前に『松本亀次郎』の文字が目に入る。自然と足が松本生家の方へ向いた。戦前中国人留学生に日本語を教え、支援した有名人だった。教え子には周恩来、魯迅、秋瑾などがおり、中国では高く評価されている人だが、日本で知る人はほとんどいない。かく言う私も、日本の台湾統治初期の茶業組合の名簿に、同姓同名の人物の名があり、彼を調べるためにこの名に出会っただけだった。

中国風の吹き抜けの小さな六角堂が見える。中には松本の業績や中国人留学生について展示されていた。外には井上靖の石碑がある。『日中友好の架け橋』という言葉が躍る。彼は東京で、そして北京でも日本語を教えていたようだ。私も留学経験があるので何となくわかるが、厳しい環境の時に助けてもらえると、その恩は一生忘れないということだ。

一番近いバス停まで歩くとその直前に鷲山病院があった。そこに看板があり『吉岡弥生生家』と書かれていた。吉岡の旧姓は鷲山。さっきバスで『東京女子医大』を見かけて不思議に思っていたが、創設者の実家だから、ここにキャンパスがあったのだ。吉岡は津田梅子らと並ぶ日本女子教育の先駆者。そして松本の5歳年下で塾の後輩だった。

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