茶旅 静岡を歩く2022(1)静岡市 茶歴史を巡る

《茶旅 静岡を歩く2022》  2022年3月14-18日

1₋2月はコロナ禍でもあり、また寒いので外出を控えていたが、いよいよ我慢の限界がやってきて、静岡を目指す。今回は昨年から続いている調査に、更にご縁が重なり、とても興味深い歴史旅になった。そして何よりも歩いた。歩き疲れるまで歩いたが、それは何とも気持ちの良いものだった。原点回帰。

3月14日(月)静岡市内を歩く

久々の旅に出る日。興奮していたのか午前5時前には起きてしまい、そのまま家を出た。昨年末に青春18きっぷで旅した時と同じような時間に行動を開始。既に路線にも慣れているので、何事もなく新宿、品川、小田原、熱海と来て、何と10時前には静岡駅に着いてしまった。今日もまた天気が良く、富士山もきっくり見えた。ああ、やっぱり新幹線に乗らない旅の方が良い。

今日の宿は駅前から少し離れているが、歩いて行ける範囲。いつもの宿泊場所とちょっと違うので、駅前の慣れない道を行く。すると幼い徳川家康と今川義元が二人でいる像を見つける。二人の有名人という意味で並べたらしいが、どう見ても子供をいじめる大人の構図に見えてしまう。歴史的な意図がある像なのだろうか。

きれいなお宿に荷物を預けて、飛び出していく。駿府城公園に杉山彦三郎の胸像があるというので行ってみたが、広い公園内のどこにあるのか一向にわからない。徳川家康の像だけが、案内板に出ている。しかも月曜日は入場券が必要な見学場所は全て休みとなっており、聞くこともできなかった。お茶室もあるというので、行ってみるもその付近にも胸像は見当たらず、すごすご引き上げた。

15分ほど歩いて浅間神社へ向かう。ここは平安時代から続く由緒ある神社であり、社殿も非常にユニークな二重構造になっていた。歴史的にも、徳川家康が武田との合戦の際に焼き払ったと書かれており、武田が陣を敷いた背後の賎機山には古墳もあるというから見どころ満載である。

だが私がここに来た目的は神社ではなかった。きれいな池の近くに建つ石碑を見るため、というと怒られるだろうか。『丸尾翁頌徳碑』は明治初期に牧之原を開拓した丸尾文六。その牧之原開拓にも尽力し、旧幕臣から県知事となった関口隆吉の『従三位関口君之碑』。『阪本藤吉製茶之碑』は幕末に宇治茶製法を招聘した伊久美の阪本藤吉。茶業関係の古い石碑が3つも並んでいるのは、実に珍しいがいかにも静岡らしい。個々の人物の業績や生涯については、これから折に触れてみていくことになる。

神社はほぼ見ずに次に歩き出す。道なりに歩いていくと、富春院の前で足が止まる。そこに建つ石碑の中の『中村敬宇 西国立志伝』という文字に目が留まった。幕府の儒者、中村がイギリスに留学して書いたもので、明治初期の若者に愛読された。あの渋沢栄一も大河ドラマの中で読んでいたように思う。その中村はここの出身だったのだ。そしてこの富春院、昔はここに寺があり、今川義元の墓所であったらしい。

その義元の墓がある臨済寺もすぐ近くにある。すごく静かな禅寺であり、義元の知恵袋であった雪斉が開山。竹千代(家康)も人質時代、雪斉の教えを請うていたからこの寺にもよく来たであろう。またここには聖一国師の茶祖堂もあるとのことだったが、一般公開日以外は修行の妨げになるとして、堂に近づくこともできず、引き揚げる。

近所の公園の中に市立図書館を見つけたので寄ってみたが、残念ながら休館日だった。仕方なくとぼとぼ歩いていくと、結構暑くなり、また朝早く起きて腹が減ってきた。ちょうど目の前に蕎麦屋が現れたので、そこで親子丼とそばを食す。年配の女性たちが忙しそうに、しかし楽しそうに働いていてよい。

食後結構歩いて清水山公園に到着。公園入口に大谷嘉兵衛像がはっきり見えた。なぜここにこの像があるのだろうか。資料によれ戦前の1917年に大茶商を顕彰するためこの地に建てられた像は第二次大戦中供出されてしまい、戦後の1965年茶業の復興と共に、行政と有志により再建されたらしい。大谷が静岡茶に果たした役割も、今後じっくり見ていきたいところだ。

静岡には何度も来ているが、しずてつ(静岡鉄道)に乗ったことがなかったので、清水公園の最寄り駅、音羽町から乗ってみた。しずてつは戦前創業で、一時は東急の傘下に入り、あの五島慶太が会長をしていたらしい。台湾で茶業をしていた頃だが、何らかの繋がりがあるのだろうか。まるちゃん列車に乗り、数駅行って、県立美術館前駅で降りた。Suicaが使えるので快適だったが、降りる時、『入場』にタッチしてしまい、Suicaが作動せず焦る?ボケは確実に進行している。

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