日高・川越日帰り茶旅2022(2)高林謙三と川越

川越で

高麗川駅に戻り、JRで川越を目指した。何とも言えないのどかな電車旅だ。川越は半年前にも何気なく散歩した街だが、今回ははっきりとした目的があり、駅を降りてまっすぐにそこに向かっていく。だが川越が侮れない歴史の町。突然『あんたがた何処さ』という動揺は、幕末討幕軍がここに駐屯した際、近所の子供とのやり取りが歌になったという看板を見る。この地を仙波山という。

そこに中院という立派な寺があり、入ってみると庭がきれいだった。どうも由緒正しい。説明を読んで驚く。『830年伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が一寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を(天皇より)賜る。この星野山無量寿寺仏地院が中院』とある。更にその横には仙波東照宮という名前も出て来る。なぜこんなんところに東照宮があるのだろうか。徳川家康の遺骨を久能山から日光へ移す際、ここに数日逗留したといい、これを記念して、あの天海僧正が建立したという。中に入っていくと急な階段があり、そこを登ると葵のご門が見える。

東照宮の横に、ようやく目的地、喜多院を見出す。敷地が相当に広い。ここは平安時代に開かれた寺で、先ほど登場した天海僧正も住職をしていたといい、天海像もある。それで家康が庇護した。天海が家康の信頼が厚かったことが分かる。天海は108歳で亡くなったらしいが、その長寿ゆえに時代劇などでは政局を動かす悪役扱いを受けている。五百羅漢などもあり、実に立派な寺である。

だが私がここへ来たのは、高林謙三の記念碑があると聞いたからだ。ところが記念碑はいくつもあるが、文字が消えてよく読めないものがあり、見付けることが出来ない。社務所に確認してようやく場所を突き止めたが、何が書いてあるのかは分からない。隣には川越鉄道関連の石碑が建っており、僅かに読めた文字の中に増田忠順の名前を見つけて満足する。写真は逆光でうまく撮れない。いずれにしても高林がここ川越で顕彰されていることは分かった。

社務所に寄ったのは大正解だった。ついでに高林の墓の場所も教えてもらった。墓は喜多院から数百メートル離れた墓地にあったので、聞いていなければ辿り着けなかっただろう。高林夫妻の墓はそれほど大きくはないが、ちゃんと説明書きが建っており、すぐにわかる。ここでも高林の顕彰が進んでいる様子が窺える。

更に歩いていくと、住居表示が小仙波町となる。ここは高林が茶園を開いた場所らしいが、勿論今やその面影は全くない。日高生まれの高林だが、佐倉順天堂で医学を学んだ後、この地で医業を開業し、藩主の御殿医にもなったのに、茶業者に転換した。何とも劇的な人生ではないか。

川越市博物館に高林の展示があると聞き、川越城本丸跡の横に美術館と共にある博物館を訪ねてみた。受付で『高林謙三』というと係の人が展示場所まで案内してくれ、展示は少ししかないと言いながら、以前開催した特別展示のパンフレットまでくれた。実に親切な対応だった。

高林の紹介は勿論、蒸し器や粗揉機など彼が発明して特許を取得した製茶機械の展示もあり、また河越茶の歴史、川越鉄道に関しての説明もあった。焼き芋屋の屋台の展示など、いかにも川越らしい。昔芋ほりといえば川越だった、川越に来たこともあったはずだと急に思い出す。更に歴史が知りたくなり、図書館にも寄って、資料を探した。時間はどんどん過ぎて行ったが、狭山茶を含めて資料もそれなりに集まり、充実した1日となった。

帰りはJRではなく、本川越駅の方が近かったので、そこから電車に乗る。こちらは西武新宿線。私には地理感覚がなく、頭がごちゃごちゃになったが、これに乗って行けば、新宿まで運ばれていくので安心しながら寝入る。さすがに今日も疲れた。西武新宿から乗り換える際、ついでに蕎麦屋に行き、カレーとそばを食べて締めくくった。

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