青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021(6)雪の長岡で奇跡の遭遇

12月18日(土)長岡2日目

今日は雪の予報だったが、朝起きて外を見ると降ってはいなかった。取り敢えずゆっくり朝ご飯を食べて様子を見る。朝からへきそばからデザートまで食して大いに満足。そして急いで外へ出る。昨晩少し雪が降った跡があった。歩いて数分の昌福寺という寺へ行ってみたら、突然すごい勢いで雪が降り始めた。まさにあっという間に積りだして驚いた。屋根の下に逃げ込んだが、雪は降る降る。

これが雪国なのだろう。無理して道路を歩くと、路面から水のようなものが噴出しており、これが雪を凍結させないための知恵なのだとは分かったが、非常に歩きにくくて難儀した。それでも何とか河井継之助の墓がある栄凉寺に辿り着き、その墓に参った。ここが継之助の墓だという表示がわざわざ建っている。墓を作った当時、河井継之助という名前を彫ることが出来ず、戒名だけで表示したせいではないだろうか。その頃にはもう完全な雪景色になっており、墓石にも雪が積もる。

もう帰ろうかと思ったが、山本五十六の墓だけ参って行こうと線路を越えて更に歩く。それほど遠くないところに長興寺があった。まず目に入ったのは詩人堀口大学の墓。その近くに山本家の墓がいくつも並んでおり、五十六の墓が特に大きいわけではない。山本家は武田信玄の軍師、山本勘助の系統とあり、五十六は養子に入っている。

更に雪は強くなり、宿へ帰ろうとしたが、寒さのためか尿意に堪えられず(歳は取りたくないもの)、公園のトイレを借りた。出て来ると、目の前に立派な建物があり、そこが図書館だとわかった。どうせ宿に帰っても何もすることがないので、図書館で疑問について調べてみることにした。

この建物、1階に図書館があったが、郷土史関連は2階だと言われ、上がっていく。そこは互尊文庫という場所だった。学芸員の方がおり、私が知りたかった『梛野家』に関する資料を求めると、いくつもの本を出してきてくれた。実は台北に住む友人の先祖がこの一族らしいと聞いていたからだ。

更に河井継之助の妻が明治にどうなったか、も意外な展開(札幌農学校校長に付いて札幌に移住)があり、驚いてしまった。全てが茶の歴史調査に重なる部分なのである。私は何と図書館に4時間以上もいた。それほど興味深い歴史が見えたのだ。そして極めつけは最後に、『そういえば、長岡でも明治初期に紅茶を作っていた記録がある』と言われ、その現物を見て絶句した。これは大久保利通が命じた紅茶製造指示に呼応した結果だった。雪がもたらした恐ろしいほどのご縁である。

外へ出ると、何と晴れ間が見えていた。ここを訪ねたのは、やはりお茶の神様がくれた奇跡だったように思う。それから駅近くの、長岡城跡を巡り、駅でうどんを食べてから、ゆっくり宿に帰った。お城は今、イベント会場になっており、バスケットボールの試合が行われていたようだ。宿の風呂場、お湯が実に柔らかく心地よい。

12月19日(日)東京へ逃げかえる

本来であれば、今日こそは18きっぷを使って、山形方面へ向かう予定だった。しかし天気予報は雪、しかも荒れ模様とのこと。朝見た感じでは問題なさそうだったが、昨日の雪を見てもどう転ぶかわからない。しかも新潟から山形方面の在来線は、海沿いを走り、一旦荒れると運休もあり得ると駅で言われてしまった。ここはネタを取るためにも。敢えてチャレンジすべきだったが、車内に閉じ込められる恐怖に、どうにも気力が沸かず、何と東京に逃げ帰ることを決意する。

朝ご飯を食べてすぐに駅へ向かい、水上行きの電車に乗る。小千谷あたりで少し吹雪く。それでも電車は止まらない。その先の風景を見ると、家々に雪が覆いかぶさっており、相当に雪が降ったことが分かる。ところが途中山を越えると急に晴れ間が出て、2時間かかって何とか水上駅へ着いた。そこでは雪のため電車の遅れが発生しており、日曜日ということもあってか、多くの人がホームにいて驚いた。

新前橋で両毛線に乗り、高崎から湘南新宿ラインに乗る。高崎で降りて、ちょっと散歩でもしようかと考えていたが、そんな気力もなくなり、ただただ揺られていく。それにしても長岡からのあの寒空に比べて、埼玉の何と暖かい日差しだろうか。これが雪国と関東の違いだとしみじみ感じながら、心地よく転寝する。新宿に着くと、なぜか『豚肉と玉ねぎのカレーそば』が目に入り、それを啜って帰宅した。私の青春は敢え無く、いやあっけなく終了した。

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