さしま茶旅2021

《さしま茶旅2021》  2021年12月9日

一昨日浦賀に行ったのには訳があった。それは『日本茶を初めて輸出した男 中山元成』を調べる過程で、中山が何とペリーと幕府の交渉の場に同席し、その様子を絵に描いていたというのを知ったからだ。そして今日は、中山の故郷猿島に赴く。

12月9日(木)古河へ

平日の通勤時間帯に電車に乗るのは久しぶりだったが、昔に比べれば乗客はそれほど多くないという印象を持った。これもコロナ禍のお陰であろうか。古河駅に降りるのは6年ぶりだった。今回もまたYさんが駅まで迎えに来てくれる。何とも有難い。Yさんの家は江戸時代から続く茶農家であり、良質のさしま茶を作り続けている。JR東北本線の車窓から茶畑が見える。

何とも歴史を感じさせる、美味しいお茶が出来そうな茶工場はそのままの様子だが、茶葉を販売するショップはきれいになっていた。Yさんの作るお茶の進化も素晴らしく、日本茶アワードなど数々の賞を取っており、様々なお茶が並んでいた。

昔の写真を見せて頂いた。大正時代に茶摘みから茶作り、製茶競技会までを写真に収めているとは、それだけでも当時の茶業の財力が分かる実に貴重な写真だ。そしてYさんが何気なく言った『この茶畑の端に写っているのは、太田義十さん』というのに驚いた。太田義十と言えば、戦前は熊本や茨城、戦後は埼玉の試験場で活躍した人物であり、ちょうど先日、40年前の彼のインタビュー記事を話題にしていたところだったからだ。

これは茨城の試験場にいた時、こちらに立ち寄った写真だろうか。もっと驚いたのは『横にいる女性は、Y家の人(おじいさんの妹)で、義十さんと結婚したと聞いている』というのだ。このY家は当地では相当のお家であり、仕事で出入りしている内に、そこの娘を見染めたということだろう。この辺については、Yさんのお父さんが詳しいというので、次回はこの話を聞くために再訪することとして、Y家を離れた。

Yさんの車で向かった先は、坂東地域農業改良普及センター。ここに1941年に建てられた中山元成の胸像があった。以前は茶業試験場だったという。元成は1859年、横浜の外国商会にさしま茶売り込みを成功させ、アメリカに輸出された最初の日本茶、という栄誉に輝いた。だがそれだけではなく、明治初期のこの地の茶業に大きく貢献したのだという。

更に元成の故郷、辺田に建てられている大きな『茶顛中山元成翁製茶紀功碑』を見に行く。しかしなぜこんなに大きいのだろうか。後ろに回ると、一面に人の名前が刻まれていた。よく見ると明治の茶業界の錚々たるメンバーではないか。中山元成がどんな貢献を日本茶にしたのかは、このメンツを見ればよく分かる。この石碑は今でも中山家が管理しているという。

昼時となり、近所のお蕎麦屋さんでランチを頂く。鴨そばをつるつる、旨い。こちらが案内してもらっているのにYさんにご馳走になってしまった。申し訳ない。

午後はさしま茶協会のI会長を訪ねて、さしま茶の歴史を聞く。協会では市にも働きかけ、さしま茶の歴史を大学と連携して研究し、中山元成の功績も明らかにしてきたという。更に元成の息子のこと、中山家は外国との付き合いが多かったことなど、色々なサイド情報を収集する。尚先ほど見た『茶顛中山元成翁製茶紀功碑』の名簿の中には、私が調べた知られざる明治の茶業者(可徳乾三や平尾喜寿ら)が数名載っており、その資料をお礼にご提供した。

幕末から明治にかけては、静岡よりもむしろ関東の方が一大茶産地であったというは面白い。確かに輸出が横浜から行われているのだから、港に近い方が良いという道理となる。それが明治30年代に清水港が開かれ、茶貿易は静岡が中心となっていく。それは『徳川慶喜が許され、東京に戻った。それに付随して静岡に茶貿易の利権を移した』という話もあった。更にはさしまで紅茶が作られた歴史がないかなども調べる。

Yさんは用事があって途中で帰ってしまったが、その後もずっとI会長と話を続ける。息子さんがチャレンジしている烏龍茶なども面白い。最後は車でわざわざ駅まで送ってもらった。境町の最寄り駅は東武動物公園。実は妻の実家の墓がこの辺にあり、車でその脇を通った。利根川が蛇行していることは知っていたが、昔は茶が運ばれていたことを初めて知る。

東武線も久しぶりで懐かしい。帰りはなぜか北千住で降りた。特に当てもなかったが、若い頃、この駅を毎日通り過ぎていたことがあった。その辺の食堂に入ったが、コロナのせいかお客はあまりおらず、ホルモンやレバーを黙々と食べた。

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