熊本佐賀福岡茶旅2021(3)合志から小天温泉へ

6月2日(水)熊本市内3

今朝も美味しいご飯を食べたので、散歩に出た。熊本学園大学まで歩くにはかなりの時間が掛かったが、案外足が軽い。この大学の創設にかかわったのが阿部野利恭。阿部野は可徳乾三がシベリアに設けた茶業事務所の責任者をしており、しかも日露戦争前に軍のために諜報活動も行っている。石光真清とも昵懇の間柄だ。更に熊本茶業組合長にも就任、茶業に縁のある人物だ。大学内はやはり静かだったが、ビルの中に阿部野の胸像が置かれており、学校は彼を忘れていないようだった。

それから水前寺公園の方へ向かう。夏目漱石は熊本で頻繁に引っ越したらしい。ここにも旧居があったが、やはり入れなかった。その近くには、明治初期熊本洋学校の教師をしていた、ジェーンズ邸(日本で最古の洋館)があったが、何と熊本地震で崩れており、移転工事が進められているとのことだった。熊本洋学校といえば熊本バンド、徳富蘇峰など同志社などにも繋がっていく。

宿に戻りつつ、小泉八雲の家の前を通ったが、閉まっていた。結構閑静な日本家屋のようだった。それから熊本城の横を通り、加藤清正の像を久しぶりに見た。城は地震で壊れたが、改修は進んでいる。ただコロナもあって入場は制限されているという。遠くから城を眺めた。それから蔚山町を通って帰る。ここは清正が朝鮮の役に出兵して見た蔚山から名前が付いたらしい。

合志から小天へ

宿で一休みしているとOさんがやってきた。車に乗ってここから茶旅が始まる。まずは以前も訪ねた三友堂さんへ向かう。2年ほど前、合志で可徳乾三についてお話しした時、直前に訪問した。ここは130年前可徳が作った茶舗で、可徳破綻後工藤家が引き継いで、今に至っている。

何の連絡もせずにいきなり訪ねたのだが、ご夫婦とも覚えていてくれた。Oさんも紹介で来た。何とも有難い。前回以降に書いた文章も渡した。すると工藤さんが『可徳の看板、見る?』と聞いてくれたので、思わずお願いしてしまう。近所に保管されているその重みのある看板を引っ張り出すだけでも大変だったが、実際にこれを見ると、歴史の重みと同時に、可徳が本当に生きていた証を見た実感が沸く。帰りに見性寺に寄って写真を撮る。ここは可徳の法要が行われたという寺だった。

それから合志へ向かう。Uさんと連絡が取れなかったので、自ら合志義塾跡を訪ねた。ここは2年前と変わっていない。工藤家もここに関わっている。そしてハバロフスクの可徳商店に派遣された若者もここの出身者だった。何とも教育の重要性を感じさせる場所だ。

合志の歴史を掘り起こしているUさんと何とか落ち合って、可徳の墓に向かう。前回も連れてきてもらったが、やはり場所は分からず、迷ってしまう。可徳の墓は2年前と変わりはなかったが、Oさん、そしてUさんの知り合いにとっては、やはりあれだけ可徳という名前が並ぶ墓は珍しかっただろう。

Uさんとはあっという間にお別れして、今日の宿泊先、小天温泉へ向かう。雨がかなり強くなっているが、なぜか車の中にいる時だけだった。宿に着くと、コロナのせいか今晩のお客は我々二人だけだった。個室温泉付きの広い部屋にアップグレードされて嬉しい。お茶を頂き、お菓子を食べると温泉気分になる。

ここは夏目漱石の『草枕』という小説の舞台になった場所であり、その中の煎茶道関連の記述に注目して、その現場にやってきたわけだ。実は漱石はお茶好き、それも煎茶派だった。だが舞台はこの宿の隣、今宿はない。ここではゆったり温泉に浸かり、美味しい、そしてヘルシーなご飯を食べてボーっとしていた。

6月3日(木)大牟田から山鹿へ

翌朝も雨が降っていた。雨音を聞きながら個室風呂に朝から浸かり、やはり美味しい和食を堪能する。実は昨晩から首と肩の痛みが再発していた。恐らくは畳生活が影響しているのだろう。温泉に浸かればよくなるだろうと思ったが、意外や上手くはいかない。あまり肩を気にすると腰も痛みだす。

傘をさしてお隣を見学する。旧前田家住宅。前田案山子という名前には聞き覚えがある。漱石も案山子がいたから、わざわざこの山深い温泉まで足を運んだのだろう。建屋の中に小さな温泉が残っており、外から見ることができた。ある意味、何もないところ、だからこそ漱石が愛したのかもしれない。

雨の中を出発する。今日の午前はお墓探しの旅である。台湾魚池で紅茶を作っていた持木壮造。彼のお墓が熊本玉名にあると聞き、これまで色々と調べてきたご縁も考えて、訪ねてみることにしたのだ。手掛かりはお寺の名前だけ。それでも行けば何とかなるというかなり甘い考えで進む。

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