羽生茶旅2021

《羽生茶旅2021》  2021年5月6日

大河ドラマ『青天を衝け』を楽しみに見ている。渋沢栄一の生まれ故郷、埼玉県深谷市は盛り上がっているだろう。栄一は徳川昭武のお供でパリ万博に行っているが、その時の経験がその後の実業家を作ったとも言われている。この万博、色々と興味深い点があるのだが、日本の物品の中に茶はなかったのか、という観点で見てみた(茶は展示されたが、市主要産品ではなかった)。

その過程で、この展示品を運んだ、そして販売したのは誰だったのかに興味が出てきて、清水卯三郎という名前に行き当たる。卯三郎の墓が自宅のすぐ近くにあるというので行ってみたが、見付からない。もう一度検索すると、何と生まれ故郷の埼玉県羽生市に移されていると知り、訪ねてみることにした。

5月6日(木)羽生

盛り上がらないゴールデンウイークが過ぎた。原稿の締め切りもあったので、思い切って電車に乗った。羽生という場所は子供の頃からよく聞いていたが、行ったことはない。『久喜、加須、羽生、舘林・・』という東武線の放送が懐かしい。東武動物公園も昔は杉戸という駅名だった。現在羽生といえば、フィギャ―スケートの羽生選手ぐらいしか思い浮かばない人も多いだろうか。

北千住から久喜へ行き、伊勢崎線の館林行きに乗れば、羽生に着く。駅前からちょっと歩くと、市民プラザ前に清水卯三郎の胸像が建っていた。1829年この地に生まれた卯三郎は、江戸へ出て貿易商のような仕事をしながら語学を学び、薩英戦争後の交渉では大久保利通らの要請で通訳を務め、何とあの五代友厚を救出したという。大河ドラマで五代が熊谷宿で将棋を指すシーンがあったが、あれは救出した五代が逆に薩摩から追われていたので、この付近に匿ったという話から来ている。

更には1867年のパリ万博では商人代表として、物品を運び、会場に日本茶屋を設え、柳橋芸者を3人連れて行くという前代未聞の荒業をして、好評を博した。ナポレオン3世から勲章ももらったらしい。因みにその芸者たちが日本人で初めてヨーロッパに渡った日本女性らしい。御維新と共に浅草に瑞穂屋を開き、出版業や歯科医療機械の輸入などを行い、1910年に没した。あの勝海舟とも深い親交があったというから、何とも興味深い人物ではないだろうか。

もう少し歩くと、清水卯三郎生誕地という看板がある。今も酒屋か何かを営んでいそうな雰囲気のある家が建っている。卯三郎の時代はどのような暮らしをしていたのか、よく分からないが、酒造業であろう。とにかく羽生は北関東によく見られる、落ち着いた静かな町だった。

少し郊外まで歩いて行くと、正光寺という寺がある。そこに卯三郎の墓があった。これは1999年に東京世田谷烏山の乗満寺から移されたものだった。墓の継ぎ手がおらず、卯三郎顕彰会が尽力して清水家の菩提寺に移したらしい。比較的大きな墓石にはひらがなで『しみづうさぶらうのはか』と書かれている。これはかな文字論者であった卯三郎直筆とも言われており、誰でも文字が読めるようにという彼の志の表れだった。

この寺には歴代清水家の墓もある。『清水哲信墓碑』というものがあり、それによると清水家は小田原北条家に仕えていたが、江戸初期に羽生に移り、酒造業を行い、代々名主の家柄だったという。哲信とは卯三郎の祖父に当たる人物。卯三郎も実家が造り酒屋であれば、商売のことは小さい時からよく知っていたのだろう。

一旦駅付近に戻り、ランチにありつく。何だか久しぶりに外食してちょっと緊張する。居酒屋も今は酒が出せず、ランチに精を出しているようで、思いの外お客がいた。それから図書館へ回ってみた。結構歩いて辿り着いたのだが、何と今日は休館日だった。木曜日に休館はないだろうと思ったが、祝日の翌日休みでは仕方がない。それよりここには歴史館が併設されていたようだが、こちらが見られなかったのは何とも残念だった。

帰りに老舗和菓子屋に寄り、まんじゅうを買ってみる。元治元年1864年創業と書いてあったが、聞いてみるとここは支店で本店は熊谷であった。いずれにしてもこの頃、卯三郎と五代がこの辺を駆け回って(逃げ回って)いたと思うと、何ともおかしい。今回折角だから渋沢栄一の故郷深谷にも足を延ばそうかと思ったが、羽生から深谷は距離的には近いが、鉄道路線がなく、大回りなるので止めた。渋沢と卯三郎はどんな交わりがあったのだろうか。ちょっと気になるところだ。

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