鹿児島茶旅2020(5)鹿児島市内を歩き尽くす

歩き疲れて外へ出た。だが隣に尚古集成館があったので、ついそちらにも寄ってしまう。ここは島津斉彬が富国強兵のため、産業振興を図った場所と聞いている。造船・造砲・ガラス製造・紡績・写真・電信など多岐にわたる事業を展開、薩摩ガラスや反射炉の工場を建てている。内部では鎌倉時代以降の島津家に関する展示などもあり、興味深い。島津と茶については、今後もう少し勉強してみたい。あの家老、調所広郷の息子が明治に入って北海道開拓に尽くし、後に男爵となったというのが目を惹いた。有名人も多い薩摩出身者だが、それ以外の人々の明治というのも、一度調べてみたいテーマではある。

天気が良いので何となくここから歩きたい気分になる。ちょっと行くとすぐに明治時代に建てられた、感じの良い洋風の金鉱事務所が移築されていた。湾沿いにずっと歩いて行くと、琉球船の目印松などがあり、格好の良い桜島を見ながら薩摩-琉球の繋がりに思いがいく。琉球にとっての薩摩とは、何ともやるせない存在だろう。

更にザビエル上陸記念碑までかなりの距離を風に吹かれて歩いて行ってしまった。ザビエルが最初薩摩に上陸したのは、案内役のヤジローの故郷だったからだろうか。そこに見た風景とは一体どんなものだっただろうか。薩摩では仏教徒の反対に遭い、すぐに引き上げたらしい。

進んでいくと、砲台跡の碑があった。ここが幕末の薩英戦争の舞台であろうか。薩摩がイギリス艦隊の力を思い知り、明治維新に至った、ある意味歴史的場所ではないだろうか。この付近は公園になっており、西南戦争の官軍戦没者慰霊碑もあった。この戦いでは西郷軍だけではなく、官軍側にも多くの死者が出ており、その慰霊碑だったが、心はどちらも薩摩人、という思いもあっただろうか。薩英戦争と西南戦争、鹿児島を変えた二つの戦い、地元ではあまり触れたくない歴史かもしれないが、もう少し注目してもよいのではないだろうか。

そこから小高い丘に登る。多賀山公園は、島津氏の昔の山城の跡らしい。だがここの主役は何といっても日露戦争の英雄、東郷平八郎だろう。その墓にはきれいな花が供えられており、更に上ったところ、桜島を一望できる場所に銅像まで建っている。鹿児島で今まで見た中で一番優遇?されているのは、東郷さんではなかろうか。

ここで銅像と桜島を一緒に写真に収めようとしたが、何とこの狭い場所を占拠し、Youtubeの動画をずっと撮っている女性たちがおり、声をかけても『夕日が落ちてしまうので』と言って、とうとうどいてくれなかったのには、おおいに驚いた。これからはYoutube命、という人が増えるのだろうか。何とも迷惑な話だ。こういう人たち、どこかに通報すれば排除してくれるのだろうか。

夕方になり、あまりに長い時間歩いて疲れてしまったので、ここからバスで帰ることにした。何とかバスに乗り込んだが、料金を払うための券を取ると、何と文字や数字がほぼ見えずに、いくら支払ったらよいのか分からず困った。機械のインクが切れていたのだろうか。宿より少し前で下車するが、運転手に声をかけても気にする様子はない。Suicaも使えなかった。

午後5時前だが、昼ご飯を食べておらずかなり腹が減る。こんな時間に開いている店などあるのだろうか。すると目の前にレストランが見え、何と開店していたので、たった一人で思わずステーキセットを頬張って喜んでしまった。今日はあんなに歩いたのに、腹が一杯になると、ちょっと散歩したくなるから何とも不思議だ。

中央駅前まで行き、ライトアップされた立派な薩摩留学生像の写真を撮ってみる。既に暗くなっており、うまく撮れないが、五代友厚が率いたこの留学生たちも、日本の近代化に活躍したのだろう(個人の紹介も書かれているようだが、暗くてよく見えない)。そしてこの留学費用捻出のために五代が藩に建白した『五代才助上申書』の中に、なぜか紅茶製法が書かれており、非常に興味を惹き、調べてみることになった。五代に紅茶を教えたのは長崎のグラバーだろうか。

10月28日(水)知覧へ

翌朝Kさんが車で迎えに来てくれた。知覧方面に向かったのだが、先ずは途中にある鹿児島県茶業会議所に立ち寄る。Kさんはわざわざ電話で資料の有無を確認してくれ、その貸し出しを得るためにここにやってきたのだ(資料は車中で拝見する)。この周囲には茶市場があり、茶業関係の会社が軒を並べている。ここが今や日本一の生産量となる鹿児島茶の中心だと思われたが、今は季節ではないので、人影もなくかなり静かな朝だった。

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