鹿児島茶旅2020(3)指宿から枕崎へ

今日の活動はここまでとして、宿泊先へ向かう。知覧にはあまり泊まるところがないとのことで、今晩は指宿泊となった。予約したホテルに行くと、海に面した広い部屋に通された。やはりコロナの影響でお客は減っているのだろう。広い海に落ちていく大きな夕日を眺められ、疲れも癒えた。そして誰もいない大浴場に浸かり、かなり休まる。夕飯はまたラーメンを食べた。その名も『勝武士ラーメン』。指宿名物と書かれており、昼の茶ぶしに続いて、カツ節が使われているのだった。さらって食べられて美味しい。

10月26日(月)指宿から枕崎へ

朝は早く目が覚めて、海を眺めていたら、朝日が昇って行った。散歩したくなる。指宿といえば、砂むし風呂が有名なところだが、残念ながらコロナの影響で休止中のようだった。指宿には町という感じのところはなかった。フラフラしていると、橋牟礼川遺跡という表示があったので、そちらに向かう。その名前は何となく北海道のアイヌ語を思い出す。遺跡は竪穴式住居などがあり、700年頃の古代隼人の生活、と書かれていた。まあ指宿だって、なぜ『いぶすき』と読むのか分からない。この辺りには昔はかなりの往来があり、現在の日本とは違う形があるのではないだろうか。

宿をチェックアウトして、車で枕崎へ向かう。40分ぐらいで到着したが、枕崎がよく分からないので、先ずは観光案内所を探した。この街には枕崎駅があり、それは日本最南端の駅だという。鉄道ファンなら一度は来てみたいところだろうが、私にとっては意外な感じしかない。沖縄に鉄道がないからだろうか。JRは北海道の稚内と枕崎の間、約3100㎞を結んでいるらしい。その横に案内所があり、そこで地図を貰い、枕崎のあらかたを掴む。

アッサム種の母樹が植えられているという神社を目指した。ところがその神社、妙見神社と聞いていたのだがなかなか見つからず、案内所で聞いてようやくたどり着いた。鳥居の横に母樹園と書かれた一帯があり、そこには古い茶樹がかなりある。ここは1931年、日本で初めてインドのアッサムより導入されたアッサム種の茶樹が残されていた。

これは台湾に導入された時期より少し遅い。キャン種という名称も見られるが、これは台湾で言うところのシャン種なのだろうか(後日別物であることを確認した)。ここの茶樹より品種改良が行われ、紅茶用品種が作られて行った。アッサム種は気候的に日本では育たないと言われているが、ここ枕崎は例外ということだろうか。それにしても歴史的な茶樹をまじかで見ると、やはりワクワク感があり、国産紅茶の歴史に近づいた気分になる。

折角なので、神社を参拝して、裏山を上ってみる。登りきると枕崎の街が一望出来て眺めがよい。そこから港が見えたので、そちらへ向かってみた。ほぼ人影はなかったが、土産物を売る店が開いており、鰹節など海産物が沢山売られていた。そして昨日知覧で食べた(飲んだ?)茶ぶしもパックで売られており、これは土産物品として扱われていることも分かった。

そこから枕崎の試験場を訪ねていく。少し時間があったので、海を見下ろす周辺の茶畑を眺める。ここは戦後台湾から引き揚げた三井の人々が立ち上げた日東茶業で、日東紅茶が作られた枕崎工場のあたりとなる。工場もそのまま残っていたが、現在は他企業がオフィスとして使っているとのことで、中を見学することは叶わなかった。それでもなんだかいい風が吹いてきて、往時を偲ぶことはできる。

試験場へ行くと会議を終えたNさんが来てくれた。Nさんも長くこちらにお勤めの専門家だった。ちょうど昼時となり、取り敢えず街中の食堂へ行き、枕崎試験場の成り立ちから、枕崎紅茶や日東紅茶の歴史などについても、色々とお話を聞いた。ここ枕崎の気候が日本で唯一アッサム種に向いていること、そして紅茶生産にも適していることなどが分かってくる。

ランチのお弁当以外に名物としてカツオのたたきが登場した。鰹節と言い、たたきと言い、高知と名物が同じであり、その共通性に思いが至る。この2つの地域は、気候や風土も似ているのかもしれない。ある意味では、ここは日本ではない、ともいえるのかなと思ってしまう。それにしても高知から鹿児島を続けて旅する人などいないだろうが、紅茶繋がりという、その奇縁にも驚かされる。この地域性もやはり茶の歴史に繋がる話だろうか。

午後はNさんのご紹介でKさんの所へ伺う。Kさんは昭和30年代、まだあった日東茶業で5年ほど勤務した経験があるという貴重な人物だった。Kさんからは、何人もの、当時の日東、いや三井農林の人々の名前が飛び出し、後で調べてみると、日東紅茶の戦後史の一端が浮かび上がってきた。

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