鹿児島茶旅2020(2)鹿児島市内から知覧へ

10月25日(日)鹿児島散歩

今日はOさんと合流して知覧へ行くことになっていたが、それは午後の予定だったので、昨日に引き続き、市内散歩を続けた。何しろ初めての鹿児島であり、鹿児島といえば幕末維新から明治期を中心に多くの歴史上の人物を輩出しているので、見に行くべきところは沢山あると思っていた。しかし現実には、鹿児島は第二次大戦の空襲などでその大半が焼けており、実際には古い建物などはあまり残ってはいないと分かる。

黒木為禎、東郷平八郎、山本権兵衛、黒田清隆らの生家、邸宅跡に碑が建っていた。周囲数百メートルとかなり狭い地域に密集して生活していたことが分かる。明治維新はある意味、隣組の力で成り立っていったのかもしれない。一方篠原国幹、村田新八など西郷と共に生きた(死んだ)人々の家もこの付近にあった。西南戦争とはまさに同士討ち。それは悲惨な歴史であり、その影響(禍根)は今なお続いているようにも思えた。

その中でちょっと異彩を放つ石碑があった。大山巌の記念碑だった。大山といえば西郷のいとこであり、戊辰戦争を共に戦ったが、西南戦争で袂を分かった。後に日露戦争で、陸軍の総司令官として活躍、海軍の東郷平八郎と並んで英雄になった男だ。しかし西郷のこともあり、西南戦争後鹿児島に戻ることはなかったと聞く。その胸中は非常に複雑なものがあったのだろう。また会津藩士の娘、山川捨松(津田梅子と共にアメリカの留学)を嫁にもらうなど、極めて先進的なところもあり、興味深い。もう少し彼の人生を眺めてみたい気がした。

そして西郷隆盛生誕地に至る。ここはかなり大きな敷地である。別途弟西郷従道の碑もある。西郷生誕地と大久保利通生い立ち地の記念碑というものも建っている。これは1889年に両家及び友人たちにより建てられたもので、西南戦争による遺恨を払おうとしたものらしい。だがここ鹿児島を歩いてみると、明らかに西郷びいきであり、大久保が亡くなって140年経った今でも、受け入れがたいものがあるように感じられるのは気のせいだろうか。

折角なので、川沿いを歩いて行き、大久保利通生誕地にも行って見た。簡単な碑がひっそり建っているだけだった。周辺には伊地知正治や牧野伸顕(大久保次男)などに関する碑も見られた。最後に宿の向かい側に大きな樺山資紀邸跡の碑を発見した。樺山といえば、初代台湾総督であり、ちょっと感心した。

知覧へ

11時頃、ホテルをチェックアウトして鹿児島中央駅までOさんを出迎えた。そこからレンタカーを借りて、Oさんの運転で一路知覧を目指した。知覧といえば私が思い浮かぶのは特攻隊ぐらいだが、先ずはその特攻隊記念館に到着した。だがこの旅は観光地を歩くものではない。特攻隊はまたの機会にして、その隣の資料館へ向かった。ところが日曜日のせいか閉まっており、資料を探すことはできなかった。

お昼ご飯を食べようとOさんが調べた郷土料理屋へ行って見たが、千客万来で入れなかった。この付近は武家屋敷と呼ばれているが、なぜか近くのおしゃれなハンバーガー屋に入る。そこは知覧茶を練りこんだバンズを使ったバーガーを出していた。ランチプレートに乗ってやってきたバーガーは小柄なものが2つ。ジューシーなハンバーグと合っていて美味しい。ティーペアリングのプロであるOさんはデザートも注文し、色々と試行している。

しかもこれで終わりではなかった。先ほどの郷土料理屋へ戻る。さすがにお客も減っており、座敷に上がり、縁側へ。そこで茶ぶしというものを注文した。これは自家製味噌と鰹節に知覧茶を掛けて食べるものだが、メニューにはドリンクの欄に記載されていた。確かにこれはこれで美味しい。こういう飲み方はいつから行われているのか知りたかったが、それを知る資料はなかった。JAに寄ってみたが、ペットボトルのお茶は買えたが、茶ぶしも知覧茶の歴史も分からなかった。

図書館にも行って見る。鹿児島県の茶業史関連の資料が何冊かあり、コピーを取ろうとしたところ、全て職員がやってくれるとのことで1時間ほど待った。かなりの量があったので大変だったと思う。何とも有難い。その資料を見ていると、手蓑山というところに『知覧茶発祥の地』という碑があることが分かり、知覧茶の歴史に迫れるかと訪ねてみた。

その付近に行って見ると確かに僅かな茶畑があり、お茶屋さんもあったが石碑は見つからない。お茶屋さんで聞いてみると、昔はあったが台風で倒れてしまったという。よく探してみると新しい石碑が隅っこにあったが、何とも残念な感じだった。古びた石碑を近くで発見したが、それは明治期にこの辺りを開拓した人を記念していた。

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