奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(7)堺 河口慧海と与謝野晶子

10月16日(金)堺を歩く2

翌朝はすっきりと目覚め、朝食を取り、宿を出た。夕方関空から東京へ戻るまでまだだいぶ時間があるので、引き続き堺を歩いてみることにした。先ずは昨日訪ねた利休屋敷跡の横にあった、さかい利晶の杜へ。昨日は通り過ぎてしまったが、利休と与謝野晶子関連を同時に見られるというので、行って見ることにした。ここには利休の茶室が再現されなどしていたものの、興味をそそる展示物は多くはなかった。そして資料館はコロナで閉鎖されていた。

そこから開口神社へ行く。ここに与謝野晶子の歌碑があった。近く歩くと大通り沿いに与謝野晶子生家跡の看板もあった。晶子も堺の生まれで、菓子屋の娘だったという。あの情熱的な歌はここから生まれたのだろうか。そのまま歩くとザビエル公園もある。1550年来日していたザビエルは京に上るため、堺にやってきた。この地は彼を手厚くもてなしたと言われる日比屋了慶の屋敷跡だという。キリシタンと堺、これはとても大きなテーマなので、時間ができた時、もう少し眺めてみたい。

その後、寺が集まる地区を散策し、それから商人の町の跡も歩いてみた。堺らしく鉄砲鍛冶屋敷跡などもある。やはり堺に莫大な富をもたらしたのは鉄砲であったのは間違いがない。古めかしい建物を通り抜けていると、清学院という建物に紛れ込む。ここは江戸後期から明治初期、寺子屋が営まれていたところで、画期的な男女共学だったという。そしてここで学んだ中に、あの河口慧海がいた。

慧海は100年以上前にチベットに単独潜入して仏教を学んだ僧侶で、大冒険家。私も『チベット旅行記』は何度か読んでおり、今も家に本がある。係りの人にその話をすると、いろいろと慧海について説明してくれた。その中に『慧海は東京で亡くなったが、最後は姪の恵美さんが世話をしていた。彼女の旦那はあの宮田輝だよ』という言葉が引っ掛かった。後日青山墓地にその墓を訪ねると、宮田輝の横に慧海が眠っていた。彼が堺出身だと初めて知った。

近所に慧海生誕の地があるというので訪ねてみたが、何と住宅街の家と家の隙間に記念碑が埋め込まれるようにあった。これでは通りすがりの人は全く気が付かないだろう。きっと複雑な事情はあるのだろうが、現在の堺での慧海の位置が分かるような気がして少し寂しくなる。それでも近くにある七道駅の前には、慧海の像が建っている。写真を撮っていると、客待ちのタクシー運転手が『何を撮っているんだ』という顔でこちらを見ていた。

ここから堺の昔の掘割をなぞった小川の横を歩いて宿に帰る。堺駅まで来ると与謝野晶子像が建っており、そこから堺の港の方へも行って見る。意外と小さな港に小舟が停まっている。ルソン助左衛門の像を発見してテンションが上がる。この像は1978年の大河ドラマ『黄金の日々』の放映を記念して作られたという。若き日の市川染五郎(松たか子のパパ)が主演して、昨日見てきた千利休、今井宗久などが出てくる大河。よく覚えている。私の堺のイメージもそこから来ているのかもしれない(2021年4月よりNHKBSで再放送始まる)。

港の周囲を歩いてみた。海に近づくあたりに可愛らしい灯台が見えた。1877年に作られた旧堺灯台。現存する灯台の中でもかなり古い物らしいが、既に50年前にその役目を終え、今は保存建築物として残っている。堺の繁栄は、やはり戦国時代が中心であり、その後は大阪などの陰に隠れてしまっていた。

時間が来たので、関空に向かう。コロナ禍で貯めていたマイレージを使う機会もなかったので、今回はそれで東京行きのフライトを予約してみた。国内線は必要マイレージ数も少なく、また燃油サーチャージも徴収されないので、使い勝手は良い。そして予約も簡単に取れてしまった。

堺駅から30分ちょっと乗れば関空に着いてしまうのだから、今後も堺に寄る機会もあるだろう。そもそも電車に乗客があまりおらず、関空に到着すると、空港内は更に人が見られない。国際線はほぼ止まっているのだろうが、ボードを見ると、国内線もキャンセルの表示が多く、あの忙しかった空港の面影は全くない。空港内のお店も閉まっているところが多く、豚まんを買うこともできなかった。まるでゴーストタウンのようだった。

仕方なく早めに荷物検査を通ったが、本当に人気がなく、怖くなってしまった。ポケットにGoToクーポンが1枚入っているのを思い出したが、使える店はあるのかと思ってしまうほどだ。開いているショップを何とか見つけ、土産を買いながら店員に聞いてみると『ここのところずっとこの調子なんですよ』と諦めたような力ない答え。機内に入っても乗客は少なく、安全ではあるが、とても寂しいフライトとなってしまった。

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