奈良、吉野、熊野、堺茶旅2020(5)吉野からなぜか堺へ

2時間があっと今に過ぎてしまい、名残惜しかったがお暇した。先ずはご飯を食べようと、道路沿いを走り、みるりいな、というおしゃれなお店に入る。店の名前は二人の娘さんの名前だそうで、店内も如何にも子供が喜びそうな作りになっていて、遊び場まである。ここで熊野牛のランチを頂くべきところ、なぜか唐揚げを食する。十分満足なボリュームで満足。

午後は熊野本宮を参拝する。一度は熊野古道を歩いてみたいと思いながら、全く果たせていなかったので、1つでも行けたことはうれしい。さすがに古びた落ち着きのある神社だと思うが、何しろ階段が多くて非常にきつい。八咫烏があちこちにデザインされているのはやはり熊野だ。脇道を歩いて降りると、如何にも古道という雰囲気が漂い心地よい。

その後また十津川温泉に戻り、朝Uさんが情報収集した店を訪ねた。そこは村のコミュニティスペースのようで、地元の人が食べるパンなども売られ、外には足湯ができるスペースもある。お店の運営も村民が交代でおこなっているらしく、そこで飲み物を頂き、おやつを食べる。自家製?釜炒り茶も販売されているが、近年お茶を作る人も減ってきているようだ。

奈良に戻る途中、玉置神社に寄る。ここは山の上にあり、周囲がよく見えた。参拝客はほぼいないので、表示を頼りに行くが、意外と奥が深く、自然林に囲まれた山道をかなり歩く。ようやく神社を参拝したが、近くには夫婦杉という大木があるなど、さすが吉野、という山奥さがとても神秘的だった。神社というのはすぐ目の前に現れるものではないと実感する。帰りは夕日を浴びてまぶしい。

そこからYさんの家の方に戻るには相当の時間がかかった。夜もかなり遅くなったので、最寄り駅付近の中華レストランで夕飯を食べることになった。何だか中華盛り合わせのような定食、奈良では定番のチェーン店なのだというが、如何にも日本の中華という感じで、これはこれで美味しい。夜はまたYさんの家に泊めて頂き、既に慣れた寝床で、ゆっくりと寝る。

10月15日(木)堺へ

今回の茶旅はここまで。そして今朝は帰路に就くUさんの車に乗せてもらい、Yさん宅を離れ、堺へ向かった。先日水を汲みに行った井戸のあたりから大阪がよく見えたので、堺も近いと思ったのだが、ここには高速道路もなく、また電車路線も全てが大阪方面に向いているため、どこかの駅から電車に乗っても、必ず一度大阪方面へ出なければならないと知る。

1時間以上下道を走って、何とか天下茶屋という駅に着き、ここでUさんとお別れした。今回もUさんには大変お世話になったが、この車の中で、これまでちょっと疑問に思っていた方について、詳細が聞けたのは大きかった。既に亡くなってしまった方でも、やはりお茶のご縁というのは、どこにでも続いているようだ。

天下茶屋から堺までは関空行きに乗ればわずか6分で着いてしまった。堺は歴史上非常に重要な場所であるとは認識していたが、今まで一度も来たことがなかった。今回は関空から東京へ戻るので、ちょっと寄り道気分で降りてみた。宿も駅のすぐ横にあるチェーンホテルにしたので、荷物を預けて出掛ける。

さっきまで車に揺られることが多く、自分の足で都会を歩いてみると、日差しが強く感じられた。さて、どこへ行こうか。宿で堺の地図を貰い、何となく歩き出す。先ずは利休の足跡かと、利休屋敷跡を目指す。途中龍神橋町などという地名に遭遇すると、何とも言えずテンションが上がる。

利休屋敷跡に到着すると、そこは新しく定められた場所のように古さが感じられない。ガイドさんに呼び止められ、中を見学するが小さな庭と記念碑、そして井戸があるだけだった。堺の街というのは江戸初期の大坂の陣でほぼ焼け落ちてしまい、今に残る建物は殆どないのだとここで知る。ガイドさんに『ほかに利休に関する場所は?』と尋ねると、南宗寺に行くようにと言われる。

この界隈には戦国時代に堺の町衆として権勢を誇った大商人たちの屋敷が連なっていたに違いない。今井屋敷跡の看板が目に入る。今井宗久は織田信長との関係を深めて富を築いた商人であり、また茶人としても名が知られていた。その息子宗薫も秀吉、家康に仕えたが、後に内通の罪で家を没収されてしまったという。

武野紹鴎屋敷跡はもっと目立たない。だが彼こそは、今井宗久、津田宗及、千利休、三茶人の師匠に当たり、村田珠光の茶の湯を伝えた。今井宗久はその娘婿として茶道具などを譲り受けたともいう。このあたりの堺の人間関係なども含め、もう少しきちんと勉強してみる必要性を感じる。

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