九州北部茶旅2020(8)初めての唐津

唐津へ

佐賀駅まで送ってもらい、今度は唐津へ向かう。JR唐津線に乗れば1時間ちょっとで着いてしまう。今日は天気も良いので有難い。駅前の観光案内所に寄って、今日予約した宿の場所を確認して地図を貰った。唐津にはチェーンホテルはないようで、普通の宿を選んだが、駅から10分以上荷物を引きずって歩く。もうすぐそこにお城が見える。途中の商店街はコロナのせいか閑散としていた。

宿のチェックインは4時からしかできないと言われ、正直対応も今一つ、不満を覚える。預けた荷物もその辺に置き去りでちょっと心配だが、田舎では取られることはないのだろう。仕方なく外へ出た。ちょっと歩くと、イカの活き作り、の看板が目に飛び込む。私は一般的には豪華なご当地グルメとは無縁だが、イカは大好きなので、思わずその店に入ってしまった。驚いたことに外を歩く人はいないのに、店内は満員盛況だ。確かにイカは新鮮で食べ応えがあった。思わぬ散財だったが、気分は頗るよい。

これで元気が出た上、天気も良いので、唐津を歩き回ることにした。先ずは資料探しに唐津市近代図書館へ向かった。実に立派な建物だ。コロナ禍にも拘らず、係員に丁寧に対応してもらった。だが唐津出身の家永泰吉郎(台湾の日本統治初期の新竹県長)に関する資料は何も出なかった。何故だろうか。家永は日本統治初期の台湾で地方官僚として活躍した人物だが、その実像は掴めないままだ(後に家永は鍋島家の家臣筋だと判明)。

だが唐津には辰野金吾をはじめとして、多くの人材を輩出したことなど興味深い歴史が沢山詰まっていることが分かった。歩いているとその辰野金吾生誕の地があった。東京駅や日銀本店を設計した男はここで生まれたのだ。更に立派な建物があり、その重厚な構造に昔の銀行ビルだとわかる。旧唐津銀行であり、現在は辰野金吾記念館になっている。設計は金吾の弟子だという。中に入ると1階は広井銀行ロビーであり、2階に金吾関連の展示物がある。

唐津にはあの高橋是清の足跡もあった。唐津藩英学校(耐恒寮)で英語を教えていた。その生徒に金吾はじめ、その後の唐津を支えた有名人が出たというから驚きだ。因みに私は全く理解していなかったが、幕末の唐津藩は同じ佐賀県内ながら肥前とは異なり、幕府側に付いた負け組であったのだ。この逆境が辰野金吾などを生み出したとも言えるかもしれない。

それから唐津神社を見つける。その近くには唐津くんちの曳山展示場などもあった。お囃子のテープが流れていたが、何となく寂しく、そのまま通り過ぎてしまった。そこからずっと歩き出した。本当は秀吉の朝鮮出兵の基地、肥前名護屋城跡へ行きたかったが、バスに乗ることもできず、歩くには遠すぎた。

3㎞ぐらい歩いてようやく海に出た。往時の唐津港、そこには古めかしい建物が残されていた。明治末年に建てられた木造だが洋館風、旧三菱合資会社唐津支店本館で現在は唐津市歴史民俗資料館と書かれていたが、休館中で中を見ることはできなかった。その昔ここは石炭積出港として栄え、三菱が事務所を設置、三菱御殿と呼ばれていたとか。この建物の設計は三菱建築で、顧問は曽根辰蔵博士。彼もまた唐津出身で辰野金吾と共に高橋是清に学び、東京ではジョサイア・コンドルに建築を学んだ男だった。

帰りもトボトボと歩き、途中で古い大きな屋敷を通った。この町は予想以上に石炭で栄えていたに違いない。ようやく宿へ行き、チェックインを済ませたが、まだ外は明るかったので、再度外へ出て近くの唐津城に行く。かなりきついのぼり階段のところへ行くと、地元の高校生が何と階段ダッシュをやっており、私は登るのを止めた。とても若者に敵う体力はない。

だがそのまま帰るのも癪だったので、橋を渡り、虹の松原と書かれた方へ向かう。少し風が出てきたが、海を見るにはよさそうだ。だが海の近くは林に囲まれ、海辺には近づけない。何とか虹の松原の碑を見つけたが、林の中に埋もれている。疲れたので、帰ることにしたが、同じ道はつまらないと思い、橋を渡り、別の方向へ。

結局川の反対側をずっと歩いて、唐津駅まで戻ってしまった。疲れ果てた目の前に、『ラーメンランキング 佐賀県2位』の表示を見て、思わず入ってしまう。ラーメンは確かにうまく、そしてチャーハンもいい感じだった。街中で入れる店を探すよりも正解だったかなと思う。宿に帰る頃にはすっかり暗くなり、唐津の旅は終了となった。宿は古びたビジネスホテルで客もあまりなく、ひっそりと寝入った。

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