九州北部茶旅2020(3)長崎 唐寺から稲佐のお栄へ

結局心配していた雨は降らなかったが、徐々に薄暗くなっている。今日はどこまで行こうか、もうこれでお終いにしようかと考えたが、明日は雨かもしれないと思うと、出来るだけたくさん行っておこうと欲張る気持ちが出てくる。これも最近旅ができていなかったことによる欲求だろうか。

長崎の唐寺4つの内、残りの2つは少し離れていたが、歩けない距離でもないので、更に進んでいく。途中に長崎会所跡、という碑があった。江戸時代、オランダ、中国との貿易業務を行っていた場所だが、その斜め向かいには大きな建物がある。長崎歴史文化博物館だったので、ちょっと勉強しようと入ってみたが、何ともうすぐ閉館ですと言われ、見学できなかった。

仕方なくそのままGoogle地図を見ながら歩くと、聖福寺に出くわした。ここも四寺の一つだったので入っていくと、何とも雰囲気の良い境内に出会った。この寺は隠元が亡くなった後に建てられたもので、これまでの2つの寺とは雰囲気が違っていた。本堂がいい感じに古びていたのだが、よく見ると改修費用が捻出できずに困っているとあり、何とも言えない気分になる。因みにこの寺は幕末のいろは丸事件の交渉舞台となったことでも有名である。竜馬ファンなどは寄付しないのだろうか?

最後に福済寺にたどり着く。本当に今日はよく歩いた。坂を上っていくと、不思議な門がある。そしてその奥を覗くと、何と大きな亀の堂の上に観音像が立っている。およそ古い禅寺の印象はない。案内板を見ると、ここは昭和20年、長崎の原爆投下で全てが吹き飛んでしまったという。そのため、人一倍平和への祈りが強い。幕末には勝海舟と坂本龍馬がこの寺に宿泊したと書かれているが、果たして史実はどうだろうか。

ホテルまで歩いて帰る。実は意外と距離があり、ふらふらになって戻る。途中に後藤象二郎の屋敷跡、という記念碑があった。土佐の重要人物であった後藤は長崎と縁があり、高島炭鉱の経営に手を出すが失敗。その後を岩崎弥太郎が引き継ぎでいる。明治6年の政変で、西郷、板垣、江藤らと共に下野したが、板垣と共に自由民権運動などに走っていく。

ようやくホテルに着いた時は、もうヘトヘトになっており、預けた荷物を部屋に運ぶのも難儀するほどだった。もう一度外出して夕飯を食べる気力がなく、近所の弁当屋で弁当を買い、部屋で食べた。そして風呂に入って早々に休んだ。旅が久しぶりだったので、完全に張り切りすぎた1日が終わった。

7月13日(月)稲佐のお栄と大浦お慶

翌朝は当然早く起きた。今日も雨は降っていない。そうであればと、8時前にはホテルを出て、歩き始めた。目指すは稲佐。そこがどこにあるかも知らずに探し出す。きっかけは稲佐のお栄だった。前日大浦お慶を調べていると、長崎幕末三女傑という項目に行き当たった。お慶とお稲(シーボルトの娘)、そして稲佐のお栄の名前があったが、お栄だけは全く知らない名前だった。そこに書かれていたのは、ロシア語が堪能とか、ウラジオストクに10年行っていたとか、ロシア皇太子の相手をしたとか、興味深いものばかりだったので、お栄に関したものが何か残っていないか、稲佐へ行ってみることにしたのだ。

だが稲佐は、大波止から湾を渡って反対側にあり、歩くと意外なほど時間がかかった。ちょうど通勤時間で、市役所などに出勤する人々や登校する学生に出会った。橋を渡って向こう側へ行くと、ほとんど人は歩いておらず、取りあえず外国人墓地があるという方へ向かってみる。だが如何にも長崎らしい、かなりの坂を上る羽目になり、昨日の疲れが朝から出て難儀する。

何とか稲佐の稲佐悟真寺国際墓地に着いた。ロシア人墓地はあったが、囲いがされており、門には鍵が掛かっていて入ることはできなかった。ただ中には墓碑が外国語で書かれた墓が並んでいる。稲佐が幕末から明治にかけていわゆるロシア租界と呼ばれた片りんを感じた。

実はロシア人以外にもオランダ人やポルトガル人など、長崎らしく多国籍の墓地になっていた。更には一般墓地には多くの中国人の墓があり、唐人屋敷との関連も見られた。墓地の横には古い寺があり、門は閉まっていたが、横から入って見学した。この悟真寺が墓地全体を管理しているようだ。

墓地から下っていくと、1つの看板が目に入る。ロシア海軍借地とお栄屋敷跡と書かれた地図が見える。この海辺の一体に稲佐のお栄の屋敷(宿?)があり、ロシア海軍が来ると遊んだ場所らしい。更に歩いていくと『ステッセル将軍一行上陸の地』という記念碑が見える。ステッセルとはあの日露戦争旅順で乃木将軍と戦った敵将だが、降伏後長崎に送られていたことを初めて知った。この辺りがロシアゆかりの地なのだろうが、今やほぼ何もない。

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