九州北部茶旅2020(2)グラバー園から唐寺へ

かなり上り、港の眺めも良いあたりへ来ると、道路脇から古い住居が見えた。ここがオルト住宅に違いないと思ったが、門に鍵が掛かっていて入ることができない。ご縁がなかったなと、そのまま上るとグラバー園の入り口に出た。念のため受付で聞いてみると、何とオルト住宅はグラバー園の中にあり、入場料を払えば見られるという。受付の人は『申し訳ありません、今グラバー住宅が改装中で・・』と恐縮していたが、オルト住宅を目的に来た人は初めてだったらしい。

中に入って一目散にオルト住宅を目指す。この庭園、かなり広い。少し下るとそれらしい建物があったので覗いてみると、そこはリンガー住宅と書かれており、別の建物だった。リンガーとは誰なのか。そこではなぜかグラバーの息子、倉場富三郎に関する展示が行われており、日本とイギリスの狭間で苦しんだ彼の姿が見られた。その横の建物がオルト住宅だったが、説明によればオルトが住んだのは3年程度で、後にリンガー家が住んでいたらしい。オルトの長崎滞在の歴史はかなり短く、茶貿易も少しだけだったが、後で調べてみるとむしろ茶で重要なのは、このリンガーであることが分かり、新たな発見があった。

そのまま園内を散策すると、三浦環の像がある。最近朝ドラエールで柴咲コウが演じて話題となったオペラ歌手だが、ここに彼女の像があるのは、代表作が『蝶々夫人』という繋がりだろうか。作曲者プッチーニの像も見える。その向かいには日本西洋料理の開拓者、草野丈吉の石碑もある。何となく長崎らしい。グラバー住宅は全面改修中で確かに何も見えなかった。だが歴史ドラマではここに坂本龍馬や岩崎弥太郎がやってきており、何となく馴染みがある。あの大浦お慶とも親交があったはずだ。

出口の前に博物館があり、長崎の歴史が展示されている。長崎くんちの大きな山車も飾られている。ここのショップでリンガー家に関する本を買い勉強した。何だか足が軽くなってきた。もらった観光地図を見るとやはり長崎には見るべきところが沢山ある。取り敢えずこのまま長崎に4つある黄檗宗の寺を回ってみる気になる。

ずっと歩いて行くとオランダ坂があり、長崎らしい古びた欧風住宅が残っているところが見える。さすがに坂もきつい。横には活水女学校が見える。孔子廟などもある。水分補給に自販機で飲み物を買うと、なぜか『グラバーとキリン』と書かれている。グラバーは明治に入り、炭鉱経営など多彩な事業に関り、また幕末の岩崎弥太郎との深い関係からか、事実上三菱グループの顧問も務めていた。キリンビールとも関連がある。

長崎は京都並みに、どこにでも歴史が転がっている。唐寺を目指して歩いて行くと、いつの間にか唐人屋敷跡に辿り着く。唐人屋敷跡だから中華街かと言えば、そうでもない。ただ昔風の家が狭い路地に並んでおり、天后廟や土神堂がある。福建会館などもあるが、今はどんな活動をしているか。

更に進むと丸山町に出た。ここはいわゆる色町、丸山遊郭があったところで、今でも一部にそのような佇まいの料亭などがある。カステラの福砂屋の本店もある。なぜか交番は洋風だ。幕末、志士たちがこのあたりで毎夜討幕を語っていたのだろうか。その先には思案橋という文字が見える。

長崎と言えば、古関裕治の、いや藤山一郎の『長崎の鐘』が一番有名かもしれない(他に『長崎は今日も雨だった』など)。だが私個人はあの青江三奈の『長崎ブルース』(『思案橋ブルース』は別物)が頭から離れない。『どうすりゃいいのか思案橋』は子供心にも響くものがあったな。青江三奈ほど独特な世界を持っていた歌手は少ない。その思案橋は既に暗渠となり、今は見られない。

ようやく崇福寺に着いた。山門は竜宮門とも呼ばれ、その形はどうみても中国様式だった。ただこの門は後に再建されたもので、大工は全て日本人だったらしい。かなり歩いて足が疲れていたが、更に急な階段を上って境内に進む。夕暮れも近く、人影は全くない。1629年創建、明より高僧超然を招いて建てられた黄檗の寺だった。階段を登りきると意外と狭い境内に、本堂がどっしりと見えた。夜が近づいている薄暗さが何となく良い。1794年に建造されたという媽祖堂が、如何にも福建を感じさせる。

そこから方向が分からなくなり、まごつきながら興福寺まで歩く。1620年創建のわが国最古の唐寺だという。2代目住職如定は、あの眼鏡橋を作った人物とも言われている。当時の黄檗文化のレベルの高さ、日本への影響の大きさを物語っている。隠元禅師も1654年この寺にやってきて、その後滞在した。日本の黄檗宗はこの寺から始まったともいえる。山門に『歓迎隠元禅師』の幕が掛かっているのが面白い。

奥へ入っていくと、境内はかなりゆったりしている。本堂の脇を行くと、『隠元禅師東度三百五十周年記念』の碑が見える。更に行くと『釜炒茶交流植樹』などという碑もあるが、いずれも新しい。ここでは隠元が持ち込んだ茶は、釜炒り茶だと断定しているようだが、どうだろうか。茶に関する資料は長崎には無いようだ。

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