北京及び遼寧茶旅2019(9)瀋陽故宮と張氏師府

12月20日(金)
瀋陽で

翌朝部屋から外を見ると快晴だった。それで暖かいのかとちょっと外へ出てみたら、ものすごく寒かった。気温は午前8時で零下15度。ほぼ想定したマックスの寒さだった。疲れもあるのでどうしようかと思ったが、ご飯を食べたら気合が入ったので、予定通り出掛けることにした。

 

今日は王道の故宮と張氏師府に行くことにした。ここは10年前には行ったと思うが、やはり歴史を見る上では外すことはできない。今は地下鉄もあるので、外が寒くても、道が凍結していても行くことはできる。中街という駅で降りる。道を間違えて反対に歩くとすぐに立派な建物を見る。1905年に設立された東北三省官銀号、当時東北最大の銀行だったという。だが1931年に日本軍がここも占拠し、資金を持ち去り、営業停止に追い込まれた、とプレートにはある。

 

やはり道は歩きにくかった。雪が残っているところは凍結していて危険だった。それでも何とか10分歩いて瀋陽故宮まで来た。入場料は50元にもなっている。中に入っていくつかの宮殿を見たが、特に日蔭は凍り付いており、危なくてオチオチ見学もしていられない。北京の故宮の小型版とはいっても、それなりの規模なので、途中で投げ出し、無念のリタイア、外へ出た。

 

数分歩くと瀋陽故宮博物院という文字が見えた。ここにも博物院があるようだが、一般公開はされていない。その横に見慣れた立派な建物が見えてきた。張氏師府、東北軍閥の首領、張作霖、張学良親子の官邸及び私邸だった場所だ。中国的な部分と西洋的な部分が入り混じった独特の建物だ。

 

1914年に作られた大青楼が中心の建物で、会議室では軍閥、日本軍など様々な人々が出入りしたとある。彼らの執務室や寝室もここにあった。また趙四小姐楼は側室の建物で、爆破された作霖はここに運び込まれて息絶えたという。尚張学良の弟たちは共産党に入党して新中国を生きた。更には1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した劉長春の写真がある。彼は中国初のオリンピック選手(陸上100m、200m)だが、張学良の支援があったと書かれているなど、知らないことも多く掲示されている。建物の門の前には張学良の像がスッとが建っている。

 

張氏師府を横に歩くと、辺業銀行という名のかつての銀行の建物が出てくる。今は金融博物館となっており、合わせてここも見学する。中は迷路のようになっており、思ったよりははるかに大きい。ここも清末から民国時代、そして満州事変での影響などの歴史が綴られている。

 

瀋陽にも立派な天主堂があると聞き、そこも訪ねてみた。1878年に作られた建物は大規模で荘厳。1900年の義和団事件、1960年代の文革では相当の被害を受けたようだが、今も立派にそびえている。現在信徒はどれほどいるのだろうか。教会の横にはなぜか瀋陽で一番きれいな公衆トイレがあった。

 

天気は良いのだが、昼間でも気温は氷点下。かなり疲れてきたので、宿へ戻る。そして宿の前にあった韓国料理屋で昼ご飯を取る。まあこれも東北らしくて良いかと思ったが、ボリュームはすごいのだが、料理の質はイマイチだった。中国では全体の物価も上がっているが、良いものとそうでないものの価格差がかなり開いていることを実感する。

 

ちょっと休んだだけで、また外へ出ていく。ラストスパートと言ってよいかもしれない。バスで旧日本領事館を探しに行く。結局今は瀋陽迎賓館になっており、建物も建て替えられてしまっていた。その横にはそれらしい建物があったが、こちらはどこぞの公館跡だった。

 

そこからフラフラ歩いて、中山広場の方へ向かう。途中から古い建物がチラホラ出てくる。更に行くと欧風街などと書かれている。皆大体1920年代に建てられているらしい。ということは、瀋陽の街が整備されたのはその頃だったのではないか。かなり歩いて瀋陽駅の近くまで来ると、ここは保存地区なのか、その100年前の建物がズラッと並んでいる。往時は日本人も沢山住んでいたのだろう。郵便局の中の展示室があったりもする。

 

夜はまた面倒になり、宿の近くの店に入った。何となく見覚えのあるメニューで、水餃子を頼んだのだが、何と営口で行った餃子屋と同じチェーンだった。そして同じメニュー、同じ味なのに、餃子が2元高かった。この辺りが中国の地方格差を表しているようにも思う。

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