スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(6)チャイナタウンを探して

8月30日(金)
チャイナタウンを探して

翌朝もまずはスタバに行く。宿ではなぜか2人分の朝食券をくれるので、これでコーヒーとアイスティーを頼み、クロワッサンを2個ゲットできるので、ちょっと豪華な気分になる。これを部屋で食べてから、すぐに出掛ける。今日は昨日聞いたチャイナタウンの夜市を探しに行く。夜市だから夜行けばいいのだが、夜道を探す自信はないので、昼間に行く。

 

実は駅の横に大きな建物がある。そこは何とお寺だった。入って行こうとすると、数人が手を伸ばしてくる。ここに来る信心深い華人を当て込んだ物乞いだった。廟は真新しく、線香の煙がたなびく。マイノリティーである華人のプレゼンスの高まりにより、建てられたのかもしれない。

 

更に歩いて行くと、トイレに行きたくなり、繊維関係の店がたくさん入っているビルに紛れ込む。売り子はインドネシア人が殆どだが、オーナーに華人の顔が見られる。よくよく見ていると、漢字もチラホラみられる。華語を学ぶ学校の宣伝などもみられるのは、やはりニーズが出てきたからだろう。ドリンクスタンドでは抹茶飲料などが売られている。

 

2㎞以上歩くと、街から離れた感覚になる。するとその辺に漢字が増えてくる。個人の廟が出てきたり、最近できたと思われるお寺が出現したりする。恐らくは2000年以降、スハルトの呪縛が解かれた後に中国大陸辺りから進出してきた寺なのだろう。元々いる華人は嵐が過ぎ去ってもそのトラウマに苦しみ、簡単に看板を出したりしないように思われた。

 

ようやく夜市が開かれる場所まで到達する。勿論午前中なので、屋台は全て閉まっている。仕方なく、その横の食堂に入って、汁なし麺を頼んだ。この味は福建とあまり変わらない。飲み物として中国茶をオーダーしたが、ウエートレスにはそれが通じなかった。華語が話せない華人にも数人遭遇する。一方で、華語でカラオケを楽しむ老人たちも見た。華人も世代により分断されているという現実がここにある。この周辺、立派なマンションなども建っており、財力のある華人たちがいるのだろうと思わせる。

 

スラバヤで買ったシムカード、なぜかスマホの動きが鈍くなっている。もしここでスマホ地図が使えなくなると大変なので、急いで携帯ショップを探して、何とか補充を計る。その方法は分からなかったが、店に行くと若い店員が英語を普通に話し、3GBを4万ルピアで購入できた。どうやら地図を使い過ぎてしまったことが原因らしい。

 

宿に帰る時、さっきとは違う道を通ってみた。すると突然華人的雰囲気のある横道を見つけた。そこには古い観音廟があり、広福亭と書かれた同郷会館らしきものもあった。これぞ私が探していたものだったが、会館は閉まっており、情報を得ることは出来なかった。この付近がその昔、華人が多かった場所かもしれない。いや、今でもひっそりと住んでいるのだろう。

 

曇りだったとはいえ、往復6㎞以上を歩いたので、午後は完全に休息した。結局宿は臨時のつもりのステーションホテルに留まる。まあ住めば都、という感じだろうか。予約はネットがかなり安いのでそれで取ると、クレジットカード決済となり、手持ちのルピアを使機会はない。

 

夕方、また外をフラフラしている。既にほぼ今回の目的(取り敢えず雰囲気を味わう)は達成しており、一方それ以上の成果を得られる感触もないので、正直時間を持て余す。ただひたすら街を歩くのは深夜特急スタイルだろうか。すると、突然狭い横町に、華人食堂が並んでいるところに出た。

 

これまでこれほど纏まって中華食堂がある場所はなかった。こういうところをチャイナタウンと呼ぶのかもしれない。時刻は未だ5時前だったが、目に入った海南チキンライスの店に入る。ここの飯、チキンだけではなく、卵や豆腐なども付いており、かなり豪華な一品で満足だった。おばさんに聞いたら、客家だという。その昔からここで商売しているらしい。

 

この付近を歩いてみると、実は華人系の店ばかりだった。ここが昔からのチャイナタウン、午前中行ったのが、新興のチャイナタウンと言えるだろう。ここにもスラバヤ通という道があった。スラバヤに行く時、私もまず思い浮かべたのは、ユーミンの名曲、『スラバヤ通の妹へ』だった。だがあれはジャカルタにあるスラバヤ通が舞台で、スラバヤは関係ないと言われた。スラバヤにはスラバヤ通はないのだろう。インドネシアと日本の関係、これは簡単には理解できないほど複雑な過去がある。

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