スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(3)チャイナタウンに突撃

8月27日(火)
再び安渓会館、そしてチャイナタウンへ

翌日もう一度安渓会館を訪ねるべく、昨日と同じ道を歩く。道が分かっていればかなり早く着ける。この会館の向かいは墓地だった。きれいに墓石が並んでいる。昨日と違い、門は開いていたので、中に入って華語で呼びかけた。すると華語で返事があったので、それだけでもうホッとする。

 

ここの世話人さんが、相手をしてくれた。ただこの会館も20年ほど前にできた(その昔は別にあったかもしれないが)ということで、その歴史は古くはない。そして予想した通り、会員に茶を商っている人はいない、との答えが返ってきた。元々スラバヤは華人比率が低く、茶荘は成り立たなかったのではともいう。老人に聞いてみれば、もう少し昔のことが分かるかもしれない。日曜日の午前中に集まりがあるので参加してみれば、と言われたが、私にはその時間はなかった。

 

もう一度福建会館の場所を聞くも、昨日と同じ場所を言われたので、諦めた。これまでシンガポールやマレーシア、タイなどでは、同郷会館に行けば、なにがしかの情報は得られたのだが、ここインドネシアは様子が全く違うことを改めて思い知り、私の挑戦は終了した。

 

これまで聞いた限りにおいては、やはりスハルト時代の影響が大きく、華語禁止などにより昔の資料は何も残っておらず、華人自身も華人の歴史に関心を持つことはなかったと言ってよい。その中で120年前の華人茶商の足跡を追うことは、研究者などがいない限り困難だとはっきり言える。

 

昨晩、パサールアトム辺りがいわゆるチャイナタウンだ、と教えられたので、そこまで歩いてみる。ホテルからはどんどん離れていく。その市場、前面は古い感じで、後ろは新しく付け足されたモールのようだった。特に華人色が強いとは感じられない。昨日教えてもらった地元料理、食堂で名前を言い食べて見るとどれもおいしい。侮れない、インドネシア。

 

別の道をトボトボ歩く。どこかからバスで帰れないか探したが、どれに乗れば良いか全くわからない。運転手に聞いてみても、私が行きたい場所が通じない。ふらふら歩いて行くと、昨日と同じような路地があり、そこはなぜかオアシスのように心地良い。本当に不思議な空間だ。

 

更には鉄道の線路も見えてきた。駅があるだろう方向に歩き出すと、線路沿いは低所得者が住むバラックのような家が多かった。庶民の暮らしといっても、この国には信じられないほどの格差があるのだろう。駅が見えてきたが、列車に乗るわけでもないので、また宿の方向に歩き出す。何とカメラのカードが満杯になり、写真も撮れなくなる。

 

かなりの疲れを覚えながら帰路に就いたが、途中で疲れがピークに達する。そこにリキシャーの運転手が声を掛けてきたので、遂に乗り物に乗ってみることにした。ホテル名は分かったようなのであとは料金交渉だ。向こうが指を3本出したので、こちらは1本だし、最後は2本で折り合った。これが高いのか安いのか分からないが、乗ってみるといい風が顔に当たり快適で、もう歩く気がしない。

 

午後気を取り直して出掛ける。ネットで検索したところ、チャイナタウンはあの市場の更に向こうにあることが分かり、リキシャーに乗ればさほどの労力もいらないことを知ったので、再チャレンジに出た。リキシャーがなかなかいなくて、少し歩いて拾う。やはりかなり遠い。

 

ようやく川を渡り、それらしい感じが出てくる。橋の所で車を降りた。赤い橋、ジュンバタン・メラ。確かインドネシア独立戦争の火ぶたが切られた歴史的な場所だ。その向こうには門が見え、ここがチャイナタウンだと分かる。古い建物が続き、港が近いためか、商店や倉庫が立ち並び、かなり活気がある。これぞ私が求めていた場所だった。

 

更に歩いて行くと、いつの間にか雰囲気がかなり変わり、アラブ人街に入っていた。狭い路地に店がひしめき、人の往来も多い。通りに車が列をなし、歩く人々も滞る。まるで映画のワンシーンのような光景だった。ここスラバヤが往時、貿易で栄えたと実感できる雰囲気がここにはある。

 

そこから大人しくリキシャーを探して帰ればよかったのだが、またフラフラ歩き出してしまう。かなり長い距離をひたすら歩いた。途中に沢山モスクがあり、英雄記念塔などもあった。何だか楽しくなり歩いてしまったのだが、かなりのダメージだった。最後はホテルマジャパヒまで歩きつく。日本軍占領時代の旧大和ホテル。歴史的な雰囲気はあり、かなり格調高くて、きれい。次回はここに泊まりたい。夜はフードコートで地元料理を満喫。疲れたのですぐに寝る。

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