天津・大連・北京周遊茶旅2018(6)中山広場から小崗子

12月20日(木)
大連散策

大連は天津よりは暖かかった。それでも朝は氷点下。外に出て大連駅を横切ると天津街に出る。天津から来て天津街か、と思ったが、ここは日本時代の繁華街。今はきれいな店が並んでいるが、日本の雰囲気は全く見られない。連鎖街とはかなりの違いだ。近くには古いホテルなどが並木に隠れて風情がある。

 

そのまま歩いて行くと中山広場に出る。この広場は全て日本時代に建てられた歴史的建造物に囲まれている。現在中国銀行が使っている建物が一番格好良いと思う。元は横浜正金銀行大連支店だ。色が明るく、頭はロシアっぽい。旧大連市役所も重厚な作りでよい。旧中国銀行は今何に使われているのだろう。

 

そしてお目当ては旧大和ホテルの大連賓館。こちらは10年以上前に泊まったことがあったが、老朽化で昨年営業を停止。警備員に聞くと『改修中だが、ホテルを再開するとは聞いていない』とのことで、もうここに泊まることは出来ないようだ。こういうホテルにはファンが多いので、観光業的には痛手だと思うが、どうだろうか。

 

魯迅路という道の名前が良いので歩き始める。ちょっと雰囲気のある建物があったので見てみると、旧満鉄図書館とある。思わず何も考えずに入っていくと、警備員のおじさんが『何の用か』と聞いてきたので、しどろもどろで中国語を使うと余計に怪しまれ、カウンターに連れていかれる。そこで係員から『何の本を探しているのか』という当たり前の質問を受けたので、適当に答えると、その資料の問い合わせをしてくれ、本館へ行くようと言われる。

 

本館はバスで30分もかかる郊外の丘の上にあった。ここには10年前に来たことがある。旧知のTさんが明治時代に大連で発行された新聞に興味があり、代わりに私が探しに来たことがあったのだ。新聞の本紙は残っているが現物はボロボロで見られない。今電子化を進めている、とだけ聞いて帰った記憶がある。

 

4階の地方文献室に行くと、係員が既に資料を整えて待っていた。何だか分からない日本人のために、こんなことをしてくれるとは感激だ。大連の行政サービス、すごい。更には調べ物にも協力してくれ、一気に懸案が片付いた。こんなこと、中国では想像すらしなかったので、本当に驚く。これは特別なケースだったのかもしれないが、いずれにしてもこんな親切を大連で受けたことには間違いがない。

 

図書館で教えてもらった古い建物が残る地区は、坂を一気に下ったあたりにあった。高児基道、ここはかなり長くて広い道だった。その更に下、鳳鳴街は、ほぼ日本時代の戸建て、新中国以降直ぐに作られた団地の建物が残されている。既に青いフェンスが置かれ、保存地区であることを示しているように見える。また新華街にも戸建て住宅が残り、今も人々が住んでいる。

 

更に進んでいくと人民広場に出る。寒いが快晴の空が明るい。そこからバスで宿の方に戻ろうとしたが、途中に森ビルが見えた。この付近は日本企業のオフィスがあり、10年前の出張時にも来たので、懐かしい。ついつい降りて付近を散策した。ちょうど昼時を過ぎ、腹も減ったのできれいな日本料理屋に入って見る。

 

その店には一人の客もいなかった。半年前に開店したばかりだという。息子が板さん、お母さんが給仕なのだろうか。お母さんは話好きで、店のお客には日本食好きの台湾人がいるとか、大連の景気は良くないとか、色々と説明してくれる。料理はちょっと辛くて、優しい日本食ではなかった。朝鮮系なのかな。

 

地図を見てみると、何とそこからすぐのところに、王さんが通った小学校があることが分かり、向かってみる。日本飲食文化街などと言う通りもあったが、半数以上はスナックだったから、笑ってしまった。少し上り坂を登ると、そこに小学校が見えた。校庭はかなりの広さがある。

 

ここが日本時代の伏見台国民小学校、現在の大連市実験小学校だった。校舎は建て替えられており趣はなかったが、周囲には日本時代の古い建物がいくつか残っていた。実験小学校だから、現在は大連の優勝な小学生が通う、優良校なのだろう。日本時代はほぼ日本人が通っていたと言い、台湾人は数人、地元の子はいなかったと王さんは言っていた。

 

ここからまた一気に坂を下っていく。これも王さんの説明通りだった。下りきったあたりには、古い建物が集中的に残っていたが、全て囲われており、中に入ることはできなかった。ここは小崗子と呼ばれた場所で、王さんが住んでいたという恵比寿町の中心だったらしい。恵比寿町は相当広い範囲の町名で、王さんが住んでいた場所を確認する術はなかった。

 

こんな広い場所を保存できるのか、一等地なのだから再開発されて消えてしまうのではないかと危惧してしまう。僅かに入れた場所は西崗市場と書かれたところ。この雰囲気だけが昔を忍ばせる。この地区は中国人が住んでおり、日本人はいなかった。王さんたちはお茶を買う客が中国人だったから、ここに住んでいたのだろう。帰りは路面電車を横目に見ながら、歩いてホテルへ。

 

午後はホテルにコインランドリーがあったので、溜まった洗濯物を処理した。乾燥機もついていたが、2時間やっても乾かなくて難儀する。夜は近所のレストランに入り、木須肉飯を食べたが、如何にも駅前の美味しくない代物だった。

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