天津・大連・北京周遊茶旅2018(2)オールド天津を散策

12月16日(日)
オールド天津を散策

翌朝起きてみると天気は良いがガスが掛かっていた。氷点下6度、寒い。だが外へ出てみると、それほど寒いとは感じられない。朝ご飯を探して、集合住宅を歩いてみると、煎餅の屋台があった。大きな餅に卵を入れている。美味しそうで思わず購入。食べる所がないので後ろを見ると、何だかスープのようなものを売っていたので、それも買って、その店の席で座って食べた。それはスープではなく、豆腐脳だった。柔らかい豆腐と何とも言えないタレが絶妙に絡み合い、絶品。これは毎日食べたい。合計僅か7元の幸せ。

 

 

10時前に薛さんと奥さんが車で迎えに来てくれた。奥さんとは数年前長崎で会って以来、久しぶりだった。まずは薛さんが現在勤める南開大学のキャンパスを見学する。中国ではどこでもそうだが、ここも非常に広く、歩くのは大変だ。周恩来など幾多の人材を輩出した名門は、来年100周年を迎える。それ時代の建物や100年近い食堂など、歴史的な建物も多くあり、興味深い。普通は毛沢東像がある場所に周恩来がいるのが珍しい。

 

それから旧市街地に向かう。日曜日だから交通量はそれほどでもなかったが、駐車場がなかなか見付からない。こういう時、車は不便だ。何回も同じような場所を巡って探すことになる。最後は駐車場の係員の好意で、特別に停めさせてもらって、何とか先に進むことができた。この辺の薛さんの交渉力は凄い。

 

今回は先日台湾で出会った王さん(1947年頃天津に1年住んでいた)の記憶をもとに、その話に沿って歩いてみる。先ず訪ねたのは針市街。ここは70年前、大きな市場があった場所だというが、今回行って見ると、ほぼ閉鎖されていた。聞けば、新中国後に一度再開発され、今回もう一度開発すべく、店舗なども全て追い出したらしい。だが資金難なのか、工事は進んでいない。この区画の中に80年前の建物が一部残っているとの話もあったが、確認する術はなかった。

 

その向かい側に唯一残っていたのが、鍋店街。こちらは古い商店街のようになっており、衣料品店などが多かった。中には国営と書かれた葬儀服専門店もあり、ちょっとビックリ。そしてある建物には山東の茶行の文字が見え、昔は茶も売られていたことが分かる。角の一軒は史跡指定を受けており、ここは残るかもしれない。

 

続いて勧業場に向かう。車を動かしたくないので、観光用のオート三輪をチャーターして向かう。運ちゃんがガイドも兼ね、20分ばかり走り、色々と案内してくれる。正直半分程度しか聞き取れないが、何となく面白い。80年前日本人が沢山住んでいた場所なども通り過ぎ、歴史的な建物も残っていることが分かる。本当は降りて歩いて見たかったが、まずは目的地優先、後日時間があれば来てみよう。

 

勧業場は、1930年代、斬新な百貨店だったらしく、王さんもよく覚えていた。その建物は90年を経てそのまま残っていた。中身も百貨店のままだった。勧業場の後ろ側は、おしゃれなストリートになっているが、反対側、向かいには天津ダックの老舗があり、横には天津名物、麻花という菓子の老舗もあり、昔の風情を少し残している。薛さんがその横で天津甘栗を買ってくれたが、これは日本からの逆輸入だろうか。

 

そこから少し歩くと、あの天津名物、狗不理包子がある。私は2000年頃ここに来て食べた記憶があるが、従業員の態度は最悪で、肉まんも特にうまいとも感じず、散々だった思い出がある。今日行って見ると、店内はとてもきれいになっており、従業員の対応も悪くはなかった。肉まんも美味しく頂き、その変化には驚く。勿論料金は数倍になっている。

 

そして今日のクライマックス、王さんが72年前に住んでいたという場所を探す。住所は分かっていたが、まさか今もその道があるとは。しかも王さんの記憶の通り、勧業場のすぐ近くにその道は存在した。だがその番地の場所は既に建て替えられ、集合住宅に変貌していた。昔の痕跡は何もない。少し歩くと、如何にも昔の風情を備えた路地があり、往時はこんな感じだったに違いないと思いながら、帰途に就く。

 

この付近から先ほどの車を停めた場所まで行く交通手段が意外と難しい。地下鉄でも乗り換えないといけないし、駅までも時間が掛かる。場所的には近いのに困った。タクシーを待つがなかなか捕まらない。最後は配車アプリで何とか乗車して戻る。やはり天津も忙しい社会になっている。

 

夕方、南開大学で薛さんの教え子との懇談会に出席した。私の方から簡単にお茶の旅と歴史について話しをした。学生は中国全土から来ており、中国各地のお茶についても言及した。ここに集った学生は基本的に院生であり、極めて優秀な人々であることがすぐに分かった。中には世界数学コンテストで入賞した人までおり、やはり中国の人材の厚みを感じざるを得ない。お茶は薛夫人が淹れてくれた。2時間以上の時間があっという間に過ぎてしまい、皆忙しいので記念写真すら撮らずに別れた。残念。

 

 

夜は大学内のレストランで食事をした。レストランの入り口に英語表記があり、ここは昔外国人専家と呼ばれた人々が食事をした場所であろうと想像した。1980年代は様々な分野の専門家が招聘され、日本人も多かっただろう。現在では専門家はおろか日本人留学生すら、数えるほどしかいないという現実がある。

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