厦門で歴史茶旅2018(1)心地よいお茶工作室

《厦門で歴史茶旅2018》  2018年11月20-24日

台湾滞在中に海外へ行く。以前バンコック滞在中はしょっちゅう出掛けていたが、台湾では東京との往復がもっぱら。ただ以前一度福建に入っており、今回も金門経由で厦門へ行くことにした。厦門行きの目的は、先日バンコック及びヤンゴンで見つけた茶商の末裔関連を調べること。そして懸案となっている鉄観音茶の歴史を大陸側でも掘り越すことだ。ちょっと大掛かりになってしまったが、さてどうなるのだろうか。

 

11月20日(火)
厦門まで

前回台北から厦門へ行った時、帰りに厦門のフェリーターミナルで『一条龍服務にしたら』と言われたことを思い出し、今回はそれを予約することにした。一条龍とは、ワンセットサービスのこと。台北-金門の往復航空券、金門内の移動及び荷物のトランスファー、そして金門-厦門の往復フェリーチケットが全て込みの料金でチケットが買える。いわゆる2001年に始まった小三通での特殊サービスだ。航空会社は立栄と遠東の2社。遠東の方が安いし、全く乗ったことがないので、遠東を選択する。

 

台北松山空港までは宿泊先から僅か5駅ですぐに着く。預け荷物は搭乗1時間前からしか受け付けないのでじっと待つ。10㎏までなので、かなりギリギリだが、何とかクリアーした。荷物検査を通ると後は搭乗するだけ。のはずだったが、なぜか搭乗口を間違えており、あわや乗り損なうところだった。最近のボケ具合は半端ない。

 

小型飛行機で1時間、金門に着く。遠東航空の乗り心地もサービスも分らないうちに到着だ。金門空港で指定カウンターへ行き、パスポートを預けて他の乗客を待つ。そして外に待つ専用バスに乗り込む。まずまずスムーズだ。しかしバスは真っすぐフェリーターミナルに向かわず、何と途中で停まる。

 

そこは金門名物の麺などを売る土産物店。遠東が提携しているのだろう。小さなお椀一杯の麺が無料で試食できたが、特に購入する人はいなかった。バスは物産セールスを行い時間調整したのだ。ターミナルにはフェリーが出る40分ぐらい前に着き、預けたパスポートで買われたフェリーチケットと弁当を受け取り、イミグレを抜けて、フェリーを待つ。その間にもらった弁当をかき込む。まさかここで弁当を食えるなんて、すごい流れ作業だ。

 

フェリーに乗れば30分で厦門に着く。着けばイミグレは簡単ですぐに入国できる。素晴らしいスピード。11時に台北を離陸して午後2時には厦門のターミナルを出る。これならダイレクトフライトを使わない訳だ。ただここから厦門の街に出る公共交通手段がないのは困ったものだ。

 

仕方なくタクシーに乗る。運ちゃんと話すと、今日はもう200㎞以上走ったのでこれで帰宅するという。決して景気が良い訳ではないが、ここには確実なタクシー需要がある。途中で渋滞に嵌るも、40分ぐらいで予約してもらったホテルに着いた。実は前回泊まったホテルがとても良かったのでまたお願いしたが、何と満員で別のホテルとなっていた。

 

工作室へ
早速厦門での行動を開始する。まずは先日ホーチミンで張さんに紹介してもらった王さんを訪ねることにした。住所を聞いたが、どうやら地下鉄などもなく、バスも難しそうなので、またタクシーに乗る。運ちゃんに住所を見せるも、住所ではよく分からないと言われ、取り敢えず近くまで行って見ることにした。

 

その通りまでは行けるのだが、番地は複雑で分かり難い。だが何とか探し当て、ビルに入り、その階に行って見たが誰もおらず鍵がかかっている。連絡してみるともうすぐ仲間が行くから、と言われ、ちょっと待っていると若者がやってきて中に入る。中はお茶の倉庫兼研究室のようで、本棚にはお茶関連の本がかなり置かれている。私が見たい内容の本が沢山あり、嬉しくなって思わず手に取る。

 

そこへ王さんと2-3人の仲間が入ってきて、賑やかになる。王さんは元新聞記者で数年前にそれを辞めて、今は茶文化の研究をしながら、執筆などを行っているという。その取材力があり、筆も確かで、お茶の歴史についても既に多くの関係者と会っており、その内容は微信で公開されていた。これを読めば私の今回の目的もある程度達成できそうな感じだ。

 

ただかなり忙しく、夜は予定があると言って別れた。この工作室、お茶好きが集まり、持ち寄った茶葉を試したり、お互いの知識を共有したりと、他日1日ここで勉強したいほど充実していた。若者たちが夕飯に連れて行ってくれ、一緒に食べた。それから仲間がやっているというオフィスへ向かう。

 

かなり新しい感じのビルで、その中に茶葉の包装などを作る会社があった。勿論お茶以外にも様々な包装が飾られていて面白い。これまで若者はIT企業に向かっていたが、ITビジネスも一段落。これからはこんなビジネスが流行るのだろうか。因みにここを起業した若者の参考書は日本で出版されたデザイン本だった。彼らはどんどん日本を吸収していく。

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