九州茶の歴史を訪ねて2018(3)セミナーで苦労する

6月10日(日)
セミナー1日目

夜中にかなり雨が降ったような音がした。日本には梅雨がある。雨が止んでいるのを確認して散歩に出たのは、午前9時半頃だった。特に当てもなく歩いていると、公園に出た。神野公園という名前だそうで、雰囲気がよさそうだったので入ってみた。少し行くと江藤新平の像が立っている。明治政府の司法卿だった江藤は、新政府に反旗を翻し、佐賀の乱で命を落とす。佐賀は、決して有名ではなく、また大きくもないが、薩長土肥の1つ、極めて重要な場所だったことを思い出す。

 

池のほとりには鍋島閑叟の茶室が再現されていた。鍋島閑叟は佐賀潘藩主として幕末を生き、多くの人材を育てた。そして島津と並ぶ、先進的な技術を持ち込み、維新を支えた。もし閑叟がもう少し生きていたら、世の中は変わっていたかもしれない。佐賀はもう少し脚光を浴びたのではないだろうか。

 

11時前にはホテルをチェックアウトして、駅へ向かう。セミナーでお茶いれをしてくれるYさんが福岡からやってくるのをOさんと出迎えた。取り敢えずランチを食べることになり、ご当地グルメを案内してもらう。あんかけ皿うどん、麺は細麺、太麺、蒸し麺の3つから選べる。前回はちゃんぽんを食べたが、この皿うどんもなかなかイケる。

 

それからセミナー会場であるOさんのお店へ行った。この付近はいつ来ても、昔の風情があってよい。今日は日曜日だから、観光客も歩いており、こんな日に私などがお話をするためにお店が休み、というのは何となく申し訳ないことだ。観光客の中にも、今日はなぜ休みなのかと、と覗き込んでいる人がいる。

 

会場の準備もOさんが一人でやっている。今や和紅茶界では有名人なのに、何でも自分でやるのだな、と感心した。PCのセッティングが終わり、私のUSBを差し込んだが、PPTは機能しなかった。これがないと、皆さんの写真を見てもらえないので困った、と思ったが、Oさんはすぐ検索をかけて解決策を見出し、映るようにしてしまった。

 

今回のセミナー、実に安易に引き受けてしまっていた。まあ紅茶屋さんのセミナーだから、紅茶の歴史の話をすればよい、紅茶については台湾と中国と2つ既にコンテンツがあり、問題ないと思っていたのだが、何とOさんから出されたお題、1つは『紅茶の話』だったが、もう一つは『世界でも珍しいお茶や茶文化について』というものだった。

 

本日は日曜日なので、一般向けにということで、考え抜いた末に、『アジアの珍しいお茶とその歴史』と題して、お話しすることにした。具体的には、茶の発祥地、中国雲南で作られる竹筒茶、茶のシルクロード万里茶路を辿る話ではカチンカチンの千両茶、台湾からは客家の酸柑茶、最後に日本の珍しいお茶として、土佐碁石茶などを紹介しながら、Yさんにお茶を淹れてもらった。

 

Yさんだってプロとはいえ、こんなに珍しい茶をいっぺんに淹れることなどこれまでなかったことだろう。会場のお客さんも珍しそうに飲んでくれ、また様々な質問が飛んできたのは良かった。お客さん、佐賀の方ばかりではなく、九州全土から、そして広島辺りからも来て頂いたようで、何とも恐縮。もう少し勉強して出直したいと思った。

 

ようやくセミナーが終わり、Oさんに駅まで送ってもらった。Yさんは福岡に帰り、私は駅前のホテルに移動した。やはり禁煙ルームの方が有り難い。こちらのホテルはこれまでも富山などで泊った事があるチェーン店で、好印象を持っていたのでよかった。夜は疲れてしまい、ちょっと出てラーメンを啜り、すぐに戻って寝た。

 

6月11日(月)
図書館と維新

翌日は残念ながら雨だった。今回のセミナーの最大の特徴は、2回開催だが、日曜日と火曜日に日が離れていることだった。普通なら効率悪いという話になるのだろうが、私の場合、旅がメインだから、これはこれで有り難い。これまで何度も佐賀に来ていたのに、一度も行ったことがない吉野ケ里遺跡、今日こそは、と思ったが、雨だと諦めるしかない。朝ご飯はホテルが無料で提供しているのでそれを食べる。

雨ならやはり図書館へ行こう。ちょうど台湾茶の歴史の中で、佐賀士族出身、日本統治初期に苗栗庁長兼農会会長だった家永泰吉郎の足跡が知りたかった。家永泰吉郎(1868-1915)は大分県尋常中学教諭から、1895 年に陸軍省雇員を命じられ、日本統治が始まってすぐの基隆に到着、1896 年台北支庁書記官、1901年に苗栗庁長にとなり、その後1909年より新竹庁長と要職を歴任し、1914 年に退官している。

 

佐賀市の図書館は月曜日が休館だったが、県立図書館は開いているというので小雨の中を出掛けた。ところが途中ですごい雨となり、ずぶ濡れとなってしまう。何とかたどり着いた図書館で尋ねてみたが、図書館書士の女性が親切に探してくれるも、家永に関する資料は殆どなかった。彼は佐賀と言っても唐津出身だったからだろうか。佐賀のお茶に関する資料も当たってみたが、なかなか適当な物がなく、ちょっと困る。

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