福建茶旅2018(3)包種茶って、結局なんだろう?

4月17日(火)
包種茶の定義を知る

翌朝も又元泰のオフィスへ行く。今日は魏さんが出張から戻っているというので出掛けた。だが鄭さんより朝9時に陳さんという専門家に来て頂いたと言われ、まずは陳さんと会う。彼はすでに引退しているが、福建省茶葉公司で長年勤務し、この業界では相当に有名な方だった。福建の茶については、その歴史を含めて非常に詳しいが、実に気さくな人だった。

 

私から包種茶について質問すると、『それは昔福建の北では奇種、南で色種、台湾では包種と呼んでおり、三兄弟の関係さ。水仙や鉄観音などの品種茶以外の茶葉を交ぜて作った茶の総称だ』との説明を受け、何だかスッキリしてしまった。今でこそ、品種が主流だが、その昔大量の作られる茶は大雑把に刈り取られ、作られて行ったことだろう。今ほど品種が主体でもなく、自然交配などで雑種になっていったものが多かったのではないだろうか。

 

確かに台湾でも老舗の茶荘には、『武夷奇種』などと書かれた茶缶が置かれていることがある。大稲埕の有記銘茶には『奇種』と名付けた包種茶も売られていた。香港でも包種茶というお茶は見たことがなかったが、奇種、色種なら、何となく見たことがあったと思う。ようは福建を出た奇種が台湾では包種となり(または台湾から送られてきた四角く紙に包まれた茶葉を福建人が包種と呼び)、香港などに流れた茶は、そのまま奇種と呼ばれていたのかもしれない。何となく謎が解けた気分になり、陳さんには大いに感謝した。

 

またこの話を台湾人にしたところ、『包種茶はいかにも台湾らしい』と説明する。台湾は昔から中国大陸の産物を多く取り込み、そしてよいように改良してきた歴史がある。呼び名がなんというかは別にして、自然の花香をうまく出して、同時に花料代を節約したお茶、それが台湾包種茶ではないのか、と言われれば、そうかもしれない、と思ってしまう。小回りに利く台湾、現代でも電子部品産業などにその力を大いに発揮している。

 

陳さんが帰った頃に魏さんが現れ、久しぶりの再会。以前は彼が主催する紅茶の旅に何度か同行したので頻繁に会っていたが、その連載が終了したので、用事が無くなっていた。この1年で元泰にも大きな変化があり、単に茶葉を売るというビジネスモデルは難しくなってきたという。茶文化を如何に売っていくか、そしてそれを如何に広げていくか、これが一つの課題だ。喫茶部や土産物を売る店舗の閉鎖はその表れだ。やはり決断は早い。

 

昨日使わせてもらった図書室では何人もの社員が来て、準備が始まっている。数日後にこの図書室のお披露目式が開かれるというので、残念ながら式典に出られない私も人民中国や月刊茶など、執筆した雑誌を寄贈して飾ってもらった。因みに日本語の本も結構ある(例えば紅茶の磯淵先生は魏さんのお友達である)。

 

魏さんは出張明けで忙しそうだったので、皆さんで飲茶ランチをしたところで早々に失礼した。午後は部屋で勉強して、夜叉合流して、また四川料理屋で食事をした。余程手軽で人気なのだろう。もしこの店が日本にあれば味付けと言い、サービスと言い、日本で流行るかもしれない。

 

それからお茶を飲みに行く。昨年も訪ねた茶芸師林さんのお店。林さんが丁寧に淹れてくれるお茶は美味しく、心地よい。この空間は落ち着きがあって素晴らしく、また来たいお店の一つだ。だが彼女から『実はあなたがこの店に来るのは最後です』と言われてしまう。今月末でここから引っ越すのだとか。その理由を聞くと『このビルの持ち主、軍なんで』というではないか。

 

何と中央の指示で、今解放軍関連のサイドビジネス?は厳しく規制され、貸しビル業もご法度となったらしい。軍の腐敗に対する締め付けだ。しかも当局の指示だから、借り手の契約期限も守られず、違約金も払われない。何と理不尽なとは思うが、それについて異を唱える中国人は一人としていない。何かを訴えても無駄なことは誰にも分っており、そんな暇があったら、次に物件を探し、前を向いて進んでいく。こんなところに中国人の強さの一端を見る。

 

6年前に福州で一度会ったアメリカ人の夏先生ともここで再会する。彼はずっと福州におり、お茶の道を究めていき??最近では中国各地から老師としてお声がかかる存在になっている。魏さんの元泰でも顧問の一人となっている。楽しく、お茶を飲んで、茶談義をして夜が更けた。

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