万里茶路を行く~北京から武漢まで(6)歴史的茶産地 咸寧

5.
忙しい茶業者

 

咸寧北駅に着くと、迎えが待っていた。その車は少し離れた辺鄙なところへ行く。工業団地のようにも見えたが、その中にかなりの規模で建設中の工場があった。そこが今回訪問する生牲川茶業の新工場であり、その中で陣頭指揮を執っていたのが、鄧先生に紹介された董事長の何春雷氏であった。まだ若い経営者だが、12代目の伝承者ということだった。万里茶路の歴史の中に出てくる自らの祖先の茶業を研究して発表しているという。

 

だが当日の彼は実に忙しいそうで、ゆっくり話を聞くような雰囲気ではなかった。こちらもちょっと話を聞いて、古い工場を見学させてもらえばそれで帰るつもりだったのだが、次に連れていかれたところは、自然環境の中にあるレストラン。そこで彼らの生産している黒茶を飲む。野生紅茶と書かれた袋も見えた。だが、彼はずっとバタバタしており、ここでも話にならない。

 

店を見まわしていると、1冊の本が目に入る。万里茶路関連だと分かって手に取って見ていると、『ああ、その研究者が数日前に来てその本を置いて行ったよ。もし本が欲しいなら武漢に戻って彼に会うとよい』と言い、すぐに電話をしてくれた。その著者、劉さんも私の訪問を歓迎するというので、明日行ってみることになる。この辺は如何にも茶旅であり、茶縁である。

 

そこへ偉そうな人を中心に数人がどかどかと入って来た。何と湖北省の農業局長だというではないか。周囲を囲んでいるのは、この街の政府関係者らしい。そうか、この重要な接待を待っていて、イライラしていたのか。すぐに食事が始まる。何故か私も末席に連なる。局長は凄い勢いで食べながら、これまたすごい勢いで話し、指示を出す。何人かが陳情すると、即座に判断して回答する。これぞ電光石火。ちょっと田舎のおじさんという風貌だが、農業のことはよくわかっている。

 

そしてあっと言う間に食べ終わり、周囲の人間を排除して秘書と二人で車に乗り、どこかへ行ってしまった。昨今の腐敗汚職関連か、不要な接触を避けているようにも見えた。皆取り残され、脱力した。これで私の相手をしてくれるかと思ったが、そうはいかなかった。『今日はここに泊まっていけ』と言われたが、古い工場さえ見せてくれれば帰るというと、弟のところへ行け、と言われる。

 

街中にある販売オフィスに連れていかれる。そこには古い茶餅や川の字の磚茶が展示されていた。ここの茶は400年の歴史があると書かれているが、磚茶はどれほど古いのだろうか。ここが1861年漢口の開港以降、一大茶産地になったことは別の資料で読んではいる。明治8年、日本紅茶の祖とも言われる多田元吉が最初に訪ねたのはインドではなく中国だった。しかも行った場所は福建などではなく、湖北省。咸寧が視察先に入ってい事を見ても、その勢いは分る。

 

ただ1900年代に入るとずっと低迷していた、生産が止まってしまっていたのかと思っていたが、国営工場としてはあったようだ。文革中も生産していたらしいが、その産量はどれほどだっただろうか。改革開放後は競争力がなく、難しい時代が続いたはずだが、そのような歴史はどこにも書かれない。

 

何さんの弟が出先から帰ってきたが、なぜかひどく酔っぱらっていた。知り合いの結婚式に出席し、昼から大量のアルコールを飲んだらしい。それでも私を案内してくれようとはしたが、古い工場まではここから30㎞以上の山道ということで、今日は無理だと分かる。『今日はここに泊まって明日行こう』と言われたが、明日まで待つのも大変なので、ここまでにして、武漢に帰ることにし、駅まで送ってもらい、また高鉄に乗った。

 

6. 武漢2

漢口に帰ってホテルで休む。今日の訪問は一体何だったんだろうか、と考えたが、まあそういう日もあるよね、ということで済ませる。夜はKさんに店に行く。Kさんが日本料理屋をやっていることは何となくFBで見ていたが、意外なほど立派な店なので驚いた。まあちゃんとしたホテルの1階にあるのだから当たり前か。料理も何品か頂いたが、味も良い。お客さんの多くは中国人だ。武漢には日本食のニーズもかなりありそうだ。

 

もう何年会っていなかったのだろうか。奥さんが子供を連れてやってきた。確か深圳で最後に会った時は奥さんのお腹が大きかったから、3年ぐらい会っていなかったのだろう。他人の子供というのは、実に早く育つものだ。そして実に可愛い。ただ中国の教育には不安があるので、いずれかの時点で日本へ移って教育を受けさせるという。中国と日本、どちらの環境がよいのかとは思ってしまうが、現時点でみれば、中国の教育に不安を覚えるのも無理はないと思う。

 

623日(木)
漢口租界巡り

 

翌日はゆっくり起きて朝食を食べてから、漢口の街を歩くことにした。Kさんに教えてもらった道を歩いて行く。なぜか私はこの街に関しては方向感覚がまるで逆になっており、戸惑う。江漢路を歩いて行くと、1920-30年代の建物がいくつも出てくる。当時の漢口の繁栄の様子が見て取れる。

 

漢口の代表的な建物と言えば、江関楼だろうか。今も税関が使っているようだ。その脇には博物館があり、そこで涼む。6月の漢口は当然ながら滅茶苦茶暑い。冷房の効いている館内で、茶葉貿易の歴史を勉強でき、更には入場料無料だから、ここは入るしかない。特にロシア商人の進出と交易の様子などが展示されており、興味深い。漢口とロシア、一見関係などないようだが、その繋がりは相当に深い。

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