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ミャンマー紀行2005(21)ヤンゴン 旧市街散歩

ロンジー屋にも行く。何しろ過去2回、未だにロンジーを穿きこなせない。業を煮やした?TTMは私にシャン州のロンジーを買う様に勧める。それは何故か??シャン州のロンジーはズボン、難しいことは何もない。実際買ったものはシャン州の王子様が着る物だそうで、白の上下で格好は良い。これならズボンが落ちてしまう事もない。因みに東京のお茶会で着たら、すぐに汚してしまったが。

 

たまには子供たちにもお土産を買うことに。木彫りの店で蛙を買う。この蛙、腹に棒が刺さっていて、その棒を取り出し、背中を擦ると音がする。その音が蛙の泣き声に似ているというのだが、慣れない私はなかなかいい音が出せない。後にバンコックに行った時に見かけた蛙は品質が良く誰が擦ってもいい泣き声がした。私の技術ではなく、品質の問題だったか。

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市場の外に出て歩く。散歩は楽しい。色々なものが見られる。ちょっと洒落たフレンチレストランがあった。入ってみたいような外装だったが、TTMによれば先日ここで爆破騒ぎがあったそうだ。確かに店の一部が壊れていた。これが日本の新聞にも大げさに掲載された爆弾騒ぎの現場だろうか?規模はやけに小さい。やはり日本の報道は実際の現場を見ずに、読者の気を引きように、伝聞で書いている。周りに用のない人々が何となくいることが事件現場を思わせる。

 

100年前の鉄道省?の建物はイギリス風の立派な建物。がっしりとした風貌で今も生き続けている。3階建ての、コの字型。その重量感には圧倒される。イギリス統治時代の建物はどこの国に行っても100年単位で残っている。日本の建物は10年単位だから、歴史が違う。どうしても残らない。

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一方隣には真新しい建物が。サービスアパートだという。白い壁の10階建て。外国人用に建てられており、日本人も住んでいるという。こんな所に住んでいればミャンマーではないし、ミャンマーのことは分からない。しかしよく考えてみれば、私自身はアジア各地で駐在員として、かなり良い生活をしてきている。周りから見ればこの白壁に住んでいたのと同じだろう。

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サクラタワーという名前の建物もある。日系企業が入っていたオフィスビルである。いや今もたくさんの日系企業の名前がある。しかし実際には日本人は既に撤退しており、現地ローカルのみが事務所を守っていたりする。90年代の一時期、ミャンマーにも投資ブームが起こった。しかし直ぐにアジア経済危機が襲ってきて倒壊した。鴻池組が建てたというこのタワーはその残骸?だろうか。1階にはタイ航空のオフィスもあり、外国人が多く歩いている。

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向かい側にはトレーダーズホテルがある。シャングリラグループで格が一つ下のホテルであるが、ヤンゴンでは最高級ホテルの一つとなっている。中に入るとやはり別世界である。きれいなロビーの先には竪琴という名の日本料理屋も見える。以前泊まった日航ホテルより少し高く、50ドルぐらいらしい。ケーキを売っていたので、SSへの土産にパウンドケーキを買う。

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真っ直ぐ南に歩いて行くと、スーレーパゴダに着く。ダウンタウンの中心に位置するパゴダである。ここの市街地はスーレーパゴダを軸に四方に道路が設計されている。高さ46m、均整がとれ、黄金に輝いている。午後のひと時、買い物籠を下げたおばさんが入って行く。女子学生も入って行く。誰もが通りすがりに気楽に入っていく、そんな非常に庶民的なパゴダである。

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ロータリーの真ん中にパゴダはある。中に入ると白い服を着た僧侶が歩いていく。我々も彼の後ろを歩いていく。TTMは決められた自分のお祈り場所の前で止まり、そして当然のように座る。そして長い長い祈りの時間となる。この時間、空間がたまらなくミャンマーである。

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更に南に向かう。どこへ行くのだろうか?暑さはそれほど感じなくなっている。もう直ぐ川という辺りには、相当に古い建物が並んでいる。ここにイギリスが上陸し、占領し、そして建物を建てた場所なのだろう。銀行がある。1914年と大きく書かれている。非常にきれいな黄色味を帯びた外壁、左の上にはモスクのような丸いものがついている。税関と書かれた重厚な建物もある。真ん中の上には塔が建っている。そしてあのストラッドホテル。ペニンシュラーの兄貴分。1900年建造。中はヤンゴンとは思えない豪華さ。とてもミャンマーとは思えない極めて破格な料金。外壁はきれいに塗り替えられており、古さは感じられない。

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ミャンマー紀行2005(20)ヤンゴン ネットカフェとマーケット

このビルの1階にはネットカフェがある。私は突然TTMを誘った。そうだ、私のホームページを彼女に見せてみようと思い立つ。それは素晴らしいアイデアのように思えた。行ってみるとここもかなり暗い。中にはPCが10台ほどズラッと並んでいたが、お客は誰もいなかった。確かに平日の午後、お金持ちでも外国人でも来る時間帯ではないのかもしれない。いや、何よりインターネットが普及していない。係の人に使い方を教わり、いざPCを立ち上げる。

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スピードはかなり遅いが、何とか私のHPにアクセス出来た。ミャンマーでは初めてのことだ。事務所でも画像は難しい。見慣れた画面が浮かび上がる。そしてミャンマーのページをクリックするとTTMが驚きの声を上げる。その最初の辺りのページに彼女とSSの顔が掲載されていたのである。正直TTMにはインターネットやホームページの意味がよく分かっていなかったと思う。だから私が何かしようとしていても、それは自分には関係ないものと考えていた。ところがPCに自分の顔が出て来るとなると意味合いは大いに異なってくる。

 

彼女は日本語を話せるが、読む方は得意ではない。しかし一生懸命画面を追い始めた。そしてTAMが登場するとまた歓声を上げる。インレー湖の鮮やかな色彩、マンダレーの夕陽、ヤンゴン郊外の自宅、など彼女の世界の中にある風景がHP上に出てくることはどんな気分なのだろう。

 

ネットカフェの使用料は1時間800k。TTMが気楽に使える金額ではないかもしれないが、今度SSも連れて是非見に来て欲しい。自宅ではE-Mailだけは使えるが、ネットには接続できない。何だか不合理な気もするが、そこが如何にもミャンマーの管理社会であるといえる。

 

(4)日本大使館

TTMが突然行きましょう、と言う。これまでの経験からこういう時は必ず面白いことが起こる。タクシーを停める。古いカローラだ。ヤンゴンに来てもタクシーに乗ることは稀である。今日はいつもの運転手さんが午後休みらしい。これもまたよい経験である。ヤンゴンのタクシーにはメーターがないものが多く、料金は基本的に交渉である。TTMが何か言っているが、すぐ収まる。近くなので適当なところで妥協したのだろう。最近のガソリン代高騰でタクシーの営業も難しくなっているかもしれない。

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10分で大使館前に到着。初めてやって来た。普通見知らぬ国に来たら必ず日本大使館の場所は確認するものだが、ここヤンゴンではこれまでそれは必要がなかった。S氏がいてくれたし、TTM、SSもいた。大使館は無用の存在であった。見るとなかなか立派な建物である。門は閉じられていた。TTMは慣れており、脇の入り口から入って行く。私も慌てて着いて行く。直ぐに通過できた。なんと私はパスポートのチェックもなかった。日本人に見えたからか?それともTTMの絶大なる信用のせいか?

 

中もきれいであった。1階の待合室で待っているとTTMの知り合いと言うミャンマー人女性がやって来て親しく話している。どうやらTTMの知り合いのビザ申請の相談のようだ。さすが旅行会社。大使館のミャンマー人女性は日本語が流暢だった。以前は別の所で働いていたが、最近大使館に採用されたらしい。ミャンマーにも人材はかなりいることが分かる。

 

私はトイレに行きたくなった。彼女は親切にも私を待合室から中に入れてくれた。トイレは非常にきれいであった。ここがミャンマーかと思うほどである。ここで働くミャンマー人はこの環境を快適だと感じるのだろうか?それともミャンマー伝統のトイレを快適と感じるのだろうか?

 

短時間の滞在であったが、治外法権である大使館は本当に別世界であった。ところでバックパッカーの間では、ヤンゴンの日本大使館でパスポートの更新することが流行っていたらしい。費用が極端に安かったのだ。ミャンマーチャットの公定レートは1ドル、6k。闇レートは1ドル、800k。大使館は公共機関であるから、公定レートを使う。中には200円でパスポートを作ったと言うような話になる。現在はミャンマー在住者に限っているらしいが、確認はしなかった。

 

(5)市内散歩

大使館からまたタクシーに乗る。今度はかなり汚い車だったが、非常に近い所に行くため、乗り込んだ。数分でボージョー市場の裏口に停まる。回り込むと料金が上がるらしい。しかしこの裏口がまた何とも風情がある。場外といった感じの露天がたくさん出ている。そして何と電車の線路を越えるために陸橋を渡る。橋の両側にも果物や野菜を売る人々が座り込んでいる。午後の日差しが強い中、辛抱強くお客を待っているのはきついだろう。上から覗くと線路はあるが、列車が通る様子は全くない。一日に一体何本走っているのだろうか?

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橋を渡ると市場の大きな建物が見える。ここには毎回来ているのでお馴染みである。そしてお馴染みのタッティングを買いに行く。お土産である。これは女性陣にとても喜ばれる。TTM行き付けの店には夫婦がいた。1回目に訪れた時には妊婦であった奥さんが無事に赤ちゃんを産み、元気に復帰していた。1年半とはそういった時間なのである。数枚のタッティングを選ぶ。黒色に人気があるので探すが、なかなか見つからない。黒を織るには目が良くなければならない。そして織り手の高齢化により目が弱っている。結果品物が薄くなる。

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ミャンマー紀行2005(19)ヤンゴンで疲れをいやす

9.ヤンゴン2

(1)空港

飛行機から降りると荷物が気になった。考えてみれば荷物を預ける習慣がなかったので何と帰国のエアーチケットなど大切なものを入れたままにしてしまったのだ。もしこれがなくなれば、香港に戻れなくなってしまう。しかも毎回御馴染み、国内線の荷物は乱暴に扱われた上、放り出されると同時に皆が群がる。荷物運びを雇って運ばせるので、間違いも当然起こる。果たして大丈夫か?SSは懸命に交渉して、運び人を捕まえた。しかし私の荷物は認識できずに放置されていた。何とか自分で運び出す。

 

外ではTTMが本当に心配そうに待っていた。出て来ると荷物を奪うように持ち去り、車へ向かう。後から誰かが着いてくる。誰だ?車に乗り込むと皆乗ってくる。私が前に座ると後ろに4人。TTM、SSとTTMの妹が2人だそうだ。何で来たんだ?後ろでは実に賑やかに話が弾んでいた。意味は全く分からないが、SSに旅の話をさせている。時々大声で笑っているのは失敗談だろうか?兎に角狭い車内で恐ろしくけたたましい。今日はこれからどうなるのだろうか?ちょっと不安になる。

 

ところが少し行くと2人は降りてしまう。『さようなら』だけが日本語であった。どうなっているのか?後で聞けば、初めて親以外と旅行したSSのことを心配したのと、その旅行の相手を見に来たらしい。要するに私に会いに来たのであった。それならそうと言ってくれれば?

 

(2)昼食

長い旅からようやく戻った。TTM家は既に私には自宅に思えた。ましてや初の大役を果たしたSSにとっては夢にまで見たスイートホームであっただろう。見るとSSは伸びをしたり、笑顔になったり。いくら強心臓の彼女でも今回は堪えただろう。よく頑張ったと言ってやりたい。

 

2階に上がり、ベッドに横になる。外は暑いが中は心地よい。心地よい疲れである。下からTTMの声がする。昼飯が出来たようだ。何だか凄く懐かしい気分になる。子供の頃おばあちゃんが食事を知らせてくれた時のことを思い出した。下にはTTMのもう一人の妹(TTMは全部で4人姉妹、今日はこれで全ての妹に会ったことになる)が作ってくれた食事が用意されていた。TTM妹は娘と共にやって来ていた。二人とも顔にしっかりとタナカを塗っていた。何となくユーモラスで可愛らしい。

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SSは一人貪るように食べていた。空腹と安堵感から食欲が出たようだ。またどうやらシャン州の料理は彼女には味が薄すぎ、食欲も沸かなかったらしい。私が食べてみると逆に、この料理の方が味が濃く感じられる。スープも濃い。これはこれで温かみがあって美味しいのだが、日本人的にはシャン料理の方が口に合う。

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しかし何より丸テーブルで開放感一杯に食べる食事は美味しい。私は今回の旅でミャンマー旅行の辛さを初めて味わった。充電が満足に出来ず、昼飯の時も充電しているデジカメを常に気にしていた。1日10時間も車に揺られ、そして熱いシャワーを探すのにも苦労した。そんなことを思い出すと、意味もなく泣けてくるのである。

 

熱いミャンマー茶を飲みながら、午後は休息に当てようかなどと甘い考えを起し始めた頃、TTMが『長い旅で疲れたでしょう。マッサージへ行きましょう』と誘う。疲れた体にマッサージ、何と心地よい響き。是非!!でもヤンゴンにそんな快適なマッサージがあるのだろうか。

 

(3)マッサージ店とネットカフェ

それはビルの2階にあった。韓国人が経営しているというその店の前にはハングル語で体のツボが書かれている。一見ヘアーサロンのようでもある。中に入ると水槽に金魚が飼われている。このあたりは中国系の風水のようにも見える。何とも不思議な空間に来てしまった。

 

中はやはりヘアーサロンを改造、というより髪の手入れも出来るサロンであった。主に女性が利用するようになっている。ここも昼間は電気を節約して消しているがそれが返って落ち着きを出している。簡易ベッドに横になると女性がマッサージを始める。横ではTTMもマッサージを受けている。彼女は当初日本人のお客さんを連れてきただけだったが、その内マッサージの気持ちよさに目覚めてしまったという。

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涼しい部屋の中で、40分ほど首から全身を揉み解してもらった。体が軽く感じられる。マッサージ師はミャンマー人だが、誰が教えたのか、皆それなりに訓練を受けているようで、かなり上手い。娯楽の少ないヤンゴンでは、観光や仕事で訪れた人には実に有り難い場所である。

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TTMによると日本人の出張者で時間が出来ると常にここに来る人がいるという。何しろ1回のマッサージが8000k。日本なら10分、1000円が相場だから、40分800円ならかなり安いわけだ。脚マッサージも受けられる。しかもヤンゴンの喧騒の中、これほど静かで、クーラーが効いている場所は少ない。貴重である。このビジネスは伸びそうだ。次回もまた来よう。

 

ミャンマー紀行2005(18)マンダレー また会いましょうおじさん

1月20日(木)

(4)朝

朝は5時台に起きる。今日はヤンゴンに戻る。飛行機の時間は9時半。既に辺りは明るくなっていたので、ちょっと散歩。SSも何とか起きて一緒に来てくれる。何しろ彼女は今回私のガイドである。そして今日はTAMが早くにタウンジーへ戻ってしまうので、責任重大なのである。

 

ホテルの近くにも古い建物がいくつか残っていた。しかし正直言ってあまり見るべきものはない。ここマンダレーは文化都市というより商業都市なのである。どうしても街が平面的になる。モスクが見える。朝から祈りを捧げている人々がいる。6時過ぎには食堂で朝食。食堂は電気が点いていないので暗い。そして誰もいない。TAMが別れを告げに来る。今回は3回目のミャンマーで初めて日程に文句を言った。あまりにも車に乗っている時間が多くて、私の旅が出来なかったからだが、その事はTAMをかなり傷つけたはずだ。

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TAMはこれに懲りずまた是非来て欲しい、と言っていた。余程気にしているらしい。しかし私は英語で上手く気持ちを伝えられなかった。悔いが残った。彼女は常に精一杯やってくれていた。それなのにこんな別れ方はない。しかし彼女と運転手は行ってしまった。次回再訪する以外このわだかまりを払拭する方法はない。トーストと目玉焼き、紅茶という定番朝食を食べて、急いで荷物を纏めてチェックアウト。ガイドSSが懸命にその役をこなしていた。

 

(5)空港で

前回は雨季で空港までの道が洪水で一部不通になっていて、かなり焦ったことを思い出す。今回は乾季ではあるが、タクシーを頼んで早めに出発する。何の混乱もなく、道も空いていてかなり早く到着してしまう。SSがチェックインカウンターに向かう。すると驚いたことに昨日オフィスにいた例の『また会いましょう』おじさんが制服を着て手続きをしているではないか。何と彼は空港のカウンター係も請け負っていたのだ。

 

おじさんは流暢な口調で『おはようございます』と言った。うーん、彼は日本語が分かっていたのだ。彼は翌日空港でまた会うことも分かっていたのでまた会いましょう、と言ってという訳だ。なるほど。

 

空港は広い。荷物を運ぶコンベアーもかなり遠くまで続いている。私はおじさんに釣られてつい荷物を預けてしまった。自分の荷物が運ばれていく、と思っていると突然電気が落ちる。停電となる。さすがミャンマー。ここからは急に手動となるが、日本の空港なら大騒ぎだろうが、ここでは皆慣れており、何の問題もない。

 

おじさんに手を振りながら『さようなら』と言うと何と彼は『また会いましょう』を繰り返した。どうなっているんだ?いつかまた出会えると言う意味か?仏教は一期一会ではないのか?ターミナルですることもなく過ごす。飛行機は定刻に呼び出しがあった。国内線で遅れないのは珍しい。ラッキー、と思って飛行機に近づくと、何とジェット機である。ミャンマーの国内線では初めて乗る。

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そしてラストサプライズ。あろうことか、例のあのおじさんが飛行機の横に立っていたのである。そしてあの笑顔で『また会いましたね』と言う。うーん、おじさんは荷物の積み込みもしていたのである。タラップの前でSSと記念写真を撮る。そして、そして飛行機に乗り込む我々に向かって『また会いましょう』である。

 

機内でSSと『彼は飛行機に乗っていてヤンゴンであのフレーズを言うのではないか?』と期待を込めて話していたが、流石にそれはなかった。しかしエアーバガンのCAは美人である。全員背が高く、モデルのようだ。カメラを向けると嫌がる様子もなく、にっこり。写真にも慣れている。

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いよいよ離陸である。あのふわっとした感覚がないのでいい、と思ったのだが、SSはそうではなかった。いきなり上空へ飛び上がったため、驚きのあまり体がかなり浮き、こちらに倒れそうになった。確かにそうなのだ。私でさえ、プロペラに慣れた為、そのスピードにはちょっと驚いたのだ。SSにとってはまさにジェットコースターに乗った気分であっただろう。

 

このフライトもヘーホー経由であった。しかし速い。10分ぐらいで着陸してしまった。そしてまた直ぐに飛び上がり、40分ほどでヤンゴンに到着。まさにあっと言う間。軽食が出たが、食べている暇がない。しかしこれが我々には普通だったはずである。慣れというものは恐ろしい。

ミャンマー紀行2005(17)マンダレー 日本人慰霊碑とレストラン

何とその場所は別の階段を下りたところにあった。その階段は正面から登っている人々のためにある。当然参道には両側びっしりと土産物屋が並ぶ。しかしお客がそれ程いないこともあり、皆寝転んでいる。階段を下りるのは結構きつい。途中で右に入る。すると外の一角に碑が見えた。我々が近寄っていくと、いきなり子どもが出てきた。急いで掃除を始める。また女性がやってきて花が渡される。また線香も出てくる。一体これは何だ?何かのショーを見ているようだ。

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どうやらこれは一家で墓守をしているらしい。ちょっとワザとらしくて残念ではあるが、墓を守ってくれるのは日本人としては有り難い。日本人がお参りに来て、彼らに寸志をあげ、彼らはそれで墓を守る。そんな循環が出来上がっている。何だか古代日本のようで、面白い。

 

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正面に『緬甸方面被我戦没諸精霊』と書かれた白い碑の前で少年が裸足で箒を使っている。掃除が終わると花が捧げられ、線香が焚かれる。準備が整うと、『どうぞ』といった感じで私が招かれる。確かに主人公は私である。日本式に立ったまま深々とお辞儀をした。横には『ミャンマーで戦没された日本・ミャンマー・英国全ての人々が安らかに・・・』と書かれている。南太平洋友好協会という団体の名前が入っている。どうやら日本人のためだけではない慰霊碑であるらしい。配慮が伺える。碑の近くには古びた良い形の木が植えられている。向こうには白いパゴダが見える。雰囲気の良い一角である。清清しい風が吹き抜けた。

 

再び階段を下る。直ぐ下に有名なポインティングブッダがあった。前回は時間が無くて見ることが出来なかったが、高さ8m、全身金箔でかなり大きい。弟子のアーナンダが横向きで傍にいる。ミャンマーの仏像は優しい顔をしているものが多いが、このブッダは厳しく一点を指差している。予言を与えるのに相応しい威厳がある。

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階段を上がり、夕陽を見に行く。結構足がきつくなっている。TAMは難なく歩いて行く。SSはちょっと遅れ気味。三者三様である。仏の道に通じるものがある?頂上に到着すると既に陽が落ち始めていた。前回は雨季であり、周囲が水で覆われていたのを思い出す。今回は乾季、遠くまで村が続いている。エヤワーディ川に大きな夕陽が落ちる。素晴らしい光景だ。ただジッーと眺める。下にはマンダレーヒルの象徴である2匹の白いライオン像が見える。

 

この瞬間はいつも時間が止まっている。皆が息を呑む。騒がしさが全く消えてなくなる。ある意味で宗教的な静寂が周囲を包む。徐々に陽が傾く。そして山の稜線に消えて行く。忙しい日本人の団体が何となく動き出す。辺りの雰囲気が一気に崩れる。皆が我に帰る。私は遠い目が続く。

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(3)ホームパーティー

そのまま余韻に浸りながら、夕食へ。前回も訪ねた日本料理屋、ホームパーティーへ行く。前回食べたカツどんはミャンマーとしてはなかなかのものであった。今回店に行ってみると丁度日本のオーナーI氏がいた。前回は日本でアルバイトして資金を稼いでいて会えなかったが、戻ってきていた。

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I氏は日本の学校を卒業後、台湾で日本語を教えていた。その後縁あってここマンダレーでも日本語を教えた。マンダレーが気に入ってしまった彼はその時の教え子であるアウンウイン氏と共同でこの店を始めたという。ヤンゴンならもう少し商売になるのかもしれないが、彼はマンダレーが好きなので他で商売をする気はない。しかしここには日本人は数えるほどしかいない。台湾系の人が来てくれるようだが、兎に角経営は大変である。正直いつまで続けられるか分からないと言う。それでも懸命に店を支えている。このパワーは何処から来るのだろうか?

 

SSはオムライス、私とTAMはハンバーグを食べた。量が多いので売り上げに貢献しようとしてもたくさんは食べられない。高くても1200k程度。この値段でこの味を出すのは大変な努力ではなかろうか?I氏は滞在ビザを更新なければならない。その場合、ヤンゴンまで出向かなければならないらしい。TTMが色々とサポートしているようだが、こちらも大変なことだ。バスで10数時間揺られていく。信念がないととても出来ない。

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そういえばメイミョウのK氏もビザの更新でヤンゴンに行く時はバスだと聞いた。慣れれば問題ないのかもしれないが、あのお歳ではきついはずだ。私は今回ミャンマーに深くかかわりを持つ貴重な日本人に2人も会ったことになる。私が将来ミャンマーに住むことがあったとして、果たして何処まで出来るのだろうか?やはり無理だということであろうか?

 

ホテルに戻り、湯船にゆっくり浸かり、静かに考える。ミャンマーは私にとって一体何なのであろうか?住んだこともなく、仕事でも関係がない、そんな国が私の心の中を占めていく。何とも不思議な感覚である。疲れは段々取れてきている。明日はヤンゴンに戻れそうだ。

ミャンマー紀行2005(16)マンダレー 新航空会社

(4)メイミョウの街

車でメイミョウの街に向かう。先程頂いたクッキーが美味しかったので買うために、タイガーストアーという店に行く。行って見ると中は暗いが、確かに色々なものが置いてある。化粧品、電気製品、日用品など外国産もかなりあるのでメイミョウ在住の外国人がよく来ると店だと思われる。クッキーはインド製であろうか?丸くて大きく、そしてやや甘い。私の好きなイギリス風だろうか。ついでに歯磨き粉も買う。コルゲートである。SSはお土産だと言って何やら大量に買い込んでいる。

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街の中には教会が見える。やはりメイミョウはイギリスが開発した街だ。ロケットのように尖った建物。そして立派な校舎。ここはセミナリオ。1914年に設立された由緒正しいものである。歩いて入って行くと、建物の2階から修道女がこちらを見ている。どうみても怪しい侵入者を牽制している。しかし度胸満点のTAMは全く動じる気配もない。目の前を平然と通り過ぎると、教会内に入る。きれいなステンドグラスが嵌められている。誰ひとりいない教会で静かに席に落ち着く。目を瞑ると中世のヨーロッパにいる気分に浸れる。いい。

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昼ごはんはマレーシア料理。何とチキンライスである。私の好物。果たしてミャンマーのマレーシア料理とはどんなものだろう?出てきたのは、日本で言えばオムライスの中に入っているチキンライスである。これにケチャップをかけると美味しい。またフライドチキンとライスという組み合わせも出てくる。こちらもチキンが新鮮で美味しい。何だかとても満足。

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早めにマンダレーへ移動。メイミョウの街の入口でパーセルタワーの写真を撮る。これは1936年にビクトリア女王によって贈られた時計台。確かネルアダムスの本の中にも出てきた由緒正しいものだが、外壁はきれいに塗り替えられており、とても古い建物には見えない。

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横の映画館を見ると、料金は100-250k。インド映画のポスターがたくさん貼られていた。ミャンマーではインド映画に人気があるのだろうか?それともここメイミョウにはインド系が多いのか?そういえば先程馬車を見かけたが、御者はインド系の若者であった。イギリス時代のグルカ兵の末裔との話もあったが、本当だろうか。車は坂を下り、マンダレーに向かう。これは前回も辿った道で相当のカーブがあるが、既に慣れてしまい、安心して眠れる。さて、マンダレーでは何が起こるか?今日は車に乗る時間が少ないため、元気である。

 

8.マンダレー

(1)航空会社オフィス

2時間半でマンダレーに着いた。メイミョウから下りて来るとマンダレーの暑さは実に堪える。イギリス人のお金持ちがメイミョウに別荘を構えた意味が良く分かる。メイミョウは本当の避暑地なのである。マンダレーで最初に訪れたのは、エアーバガンのオフィス。予定を変更して明日マンダレーからヤンゴンに帰るフライトのコンファームである。国内線の飛行機の予約変更が難しいこの国で、旅行会社をやっているTTMが力を発揮して、押さえてくれたフライトである。私の我侭の産物でもある。

 

オフィスは大きな通りにあった。綺麗なオフィスである。何しろエアーバガンは昨年10月に開業したばかり。エアコンが効いている。中には2人の女性が椅子に座っていた。ミャンマー人の女性にSSが話し掛ける。予約の確認である。彼女は電話の鍵を開けて、受話器を取り上げた。ここでも長距離電話が掛けられるらしい。いや、ヤンゴンに電話でリコンファームしている。もう一人の女性は顔がインド系。名前はリダ。彼女は英語を話す。エアーバガンは本当に新しいエアラインでサービスも良いという。ミャンマーも新時代がやってきた予感がする。リダを見ているとそんな気がした。

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そこへおじさんが入ってきた。柔らかい笑顔で我々の方にやってくる。私を日本人と認めると更に満面の笑顔となる。英語も達者である。色々と私達に聞いてくる。彼は昨年まで貿易商だったようで、海外経験もあるようだ。そこで新設されたエアーバガンに見初められ、代理店を経営することとなった。そして手続きが終わると笑顔で『また会いましょう』と日本語で言って我々を送り出す。車に乗ってからSSと2人、何故あのおじさんはまた会いましょうと言ったのか不思議に思う。日本語を間違えたのか?

 

(2)マンダレーヒル再び

ユニティーホテルにチェックイン。前回と同じだ。出来れば違うホテルに泊まり、ホテル間の格差チェックをしたかったが、何しろ急遽予定を変更したのだから仕方がない。全ては私の我侭。しかしこのホテルは安定感がある。決して高くはないが、清潔感があり、バスタブもある。日本人バックパッカーなどはなかなか部屋が取れないと言っていたが、これもTTMの力だろうか?因みにSSは全てTTMの指示で動いている。車には弱いが研修の成果が出始めている。

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午後4時頃マンダレーヒルに向かう。今朝メイミョウでK氏が『マンダレーヒルには日本人慰霊碑がある』と教えてくれた。教えられると直ぐに行くのが私の性格。TAMも直ぐに反応するタイプ。これがよい。マンダレーヒル、半年前にはTTM、SSと3人でやってきた。その時見たマンダレーの夕陽は今も印象に残っている。今回も夕陽を見よう。車で丘を登り、階段を上がると一番上に出る。しかしまだ夕陽には早過ぎる。SSが日本人慰霊碑の場所を確認している。

 

ミャンマー紀行2005(15)メイミョウ 日本人の建てた家

TAMは私の心を見通していた。この話をすると直ぐにルート変更をOKした。そして善後策を練り始めた。今日はマンダレーに行き、明日のフライトでヤンゴンに戻る。その為にはヤンゴンのTTMにマンダレー→ヤンゴンのフライトを抑えさせる必要がある。SSは直ぐに連絡に走り回る。今ならネット予約さえ可能なミャンマーだが、この時点では、フライトを変更すること、突然新しくチケットを購入することはかなり労力のかかる作業であった。

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突然慌しい朝になる。しかし誰も文句を言わない。本当に申し訳ない気持ちになる。TAMなどは、我々とマンダレーで別れてからも、タウンジーまで乗ってきた車で戻らなければならない。今回はこちらが何も希望を述べず、全てTAMが計画を書いてくれたが、その通りことが運ばなかった。全くこちらの責任であるが、ガイドであるTAMは淡々と業務をこなしている。

 

そしてSSに呼ばれて行ってみると彼女は旧式の電話機に向かっていた。その電話機は何と箱に入って鍵がかかっていた。勝手に使われないようにしている。この時代、それ程電話を掛けるということは地元では貴重なことなのである。その貴重な電話を使って私のために皆が色々と面倒な作業をしている。本当に申し訳ない。

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SSはガローのウラミット氏に電話を掛けた。なかなか繋がらない。ようやく本人が電話に出た。私は申し訳ない気持ちで一杯になりながら、訪問出来ないことを伝えた。残念そうな声で、最近身体の調子が悪いことを氏は口にした。まさかもう会えないなどということはないと思うが、次回はいつになるのだろうか?

 

ウラミット氏は私がミャンマーを最初に訪れた際、日本とミャンマーの歴史を、第二次大戦の話を実話で教えてくれた恩人である。その貴重な話を聞く機会を逸したことにかなり狼狽しながら、計画を元に戻そうかと思った瞬間、何故か電話が切れてしまった。そしてSSの努力も空しく、その電話はもう2度と繋がらなかった。今回の旅がここで終わったような気がした。

 

(3)K氏宅訪問

9時になり、昨夜訪問できなかったK氏宅を訪問した。K氏は大阪出身の建築士。奥さんがミャンマーから日本に留学し、知り合ったという。年齢はかなり離れているが、仲の良いお似合いの夫婦である。K氏は数年前にここメイミョウにやってきた。ここにはイギリス時代の年代物の建物がたくさん存在しており、勉強になるという。建築士の仕事は何処でも出来るのでこちらに居を移し、Faxでのやり取りで、日本の仕事をこなしているらしい。

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既に還暦を過ぎたK氏であるが、今日訪ねた家は自ら設計し、自ら指揮を執って建築した。しかしここはミャンマー、いくら指示しても、なかなか思うように行かず、何回もやり直した。ミャンマー人を使って建築するのは相当の忍耐が要るし、第一に自分が欲しい資材一つ揃えるのも並大抵の苦労ではないという。

 

現地政府の役人と親しくすると色々と便宜が図られるが、それまでは大変だったようだ。この家が完成すると近所からこの家のような家を設計して欲しいと言う依頼がいくつか来た。向かいの家もK氏の設計だ。ミャンマーでも良いものは良い、ということであろう。しかし実際に家が建てられるのは、特権階級だけ。

 

最近はここメイミョウに中国系が多数現れ、不動産を買い漁っている。100年前のイギリス風の家が、それほど高くない値段で買える、それは彼らには魅力的だろう。だが古いだけに住むとなると、冬は寒いし、不便なことも多く、その環境は決して良いとは言えないそうだ。

 

その内K氏宅を見て、こんな家が欲しいと言い出す中国人も出てくるかもしれない。K氏の家はコテージ風。2階には小窓が3つ付いている。庭にはきれいな花が咲く花壇がある。3段になっている浄化槽も設置されており、自ら汚水処理をしている。家の中も暖炉のあるリビングがあり、ダイニングがあり、快適なキッチンも見え、戸外に竈がある。見ると外には地下水くみ上げ用の井戸もある。地下室もあり、自家発電機の横には梅干が漬けられている。

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家具もかなり凝っているが、全て材料を集め、地元の職人に作らせた。勿論最初はとんでもないしろ物?を作ってきたというが、粘り強く何度も教え、やり直しをさせて完成させた。やはり建築士であるK氏ならでは、である。職人のスキルも上がる、これは地元にとっても悪い話ではない。

 

K氏はメイミョウ唯一の登録した日本人。他に数人の日本人が滞在しているらしいが詳しくは分からない。中には戦後日本に戻らなかった元日本兵もいるかもしれないが?マンダレーでも日本人は少ない。日本食は手に入らないが、野菜は新鮮だし、奥さんも日本の味付けが出来るのでそれ程苦労はない。出されたクッキーが美味しい。メイミョウにはこういう洋風の菓子もあるという。

 

K夫人はヤンゴン生まれ、大阪に留学してK氏と知り合った。前回のミャンマー訪問時には、ヤンゴンで一緒の火鍋を食べた。非常にハキハキして活発な女性。この家の2階には瞑想部屋が作られている。殆ど日本人にしか見えないK夫人もやはりミャンマー人。瞑想は何より重要だという。1時間半ほどで失礼する。何だか不思議な気分。日本人にも色々な人がいるものである。

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ミャンマー紀行2005(14)メイミョウの朝

街外れの方に歩いて行くと、日本的に言えば長屋と思われる建物がいくつか見える。ミャンマーでも長屋生活があるのだろう。きっと昔の日本のような助け合う生活が繰り広げられているのだろう。ヤンゴンでもTTMの場合は、十分に昔の長屋のおかみさんをやっていたのだから。工場がある。TAMの友人はずかずかと入っていく。ここは一体なんだ?大きな壷が沢山置かれている。隣の工場内には入ると女性たちが何かを選り分けている。見ると大きな梅の実である。ということはあの壷の中は、梅干?チャウメイのウメは梅だったの?

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聞けば、この工場はチャウメイ一の生産量を誇り、全ミャンマーに出荷している。更には半完成品の状態で日本にも輸出されていると言う。半完成品を輸出するというのは関税の関係だろうか。そうか、日本の梅干は実はこんなところから来ていたのか。壷の列を前にて暫し考え込む。ミャンマーと日本の関係は途切れているようで、実は色々とあるものである。

 

夕陽が工場に映える。きれいな陽である。しかしこの強烈な西日が我々にチャウメイを離れるようにと告げている。本当に名残惜しいが車に乗り込む。TAMの友人のお陰で短時間に色々と見ることが出来た。感謝してもし切れない。と同時に突然の訪問にも拘らずきっちりと対処してくれたTAMには脱帽である。次回は最低1泊してじっくりとこの街を眺め、あわよくばバロン族の住む山中に分け入り、茶園と茶作りを見てみたいと思う。

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7.メイミョウ

(1)夕飯

それから2時間半、またもや車に揺られる。昨日来た道をひたすら戻るのみである。そして坂道を登る。既に夜の闇である。ようやくホテルに入る。前回TAM、SSと3人で来た時と同じ場所である。SSは早々にK氏宅に電話を入れている。K夫人がやってくるという。確かに我々は夕飯を食べていない。この街で夜8時というのはかなり遅い時間の範疇に入るらしい。そういえば前回街で食事をした後、馬車でホテルに戻った時に闇が暗かったこと。シャーロックホームズのドラマを思い出した。

 

K夫人が知り合いのレストランに連れて行くという。到着するとTAMは運転手とどこかへ消えてしまう。日本語の出来ない彼女にとって、日本語の会話の場所は遠慮するらしい。レストランは中華系の割には油が少なく、あっさりして美味しかった。日本人で年配のK氏に合わせたあっさりした料理をお願いしているからだそうだ。確かに普通のミャンマー料理、カレーなどを食べると油がかなり浮いていることがある。私はTAMやTTMの配慮で油の多い料理を食べることはあまりない。生活していく上では非常に重要なことであろう。

 

薄暗いレストランで夕食を取り、話をしていたが、TAMがなかなか現れない。最初は気を利かせたのかと思っていたが、どうも遅すぎる。やっと帰ってきた時には大分時間が過ぎていた。暗くて迷ったと言う。確かによく知らない街で夜間車を運転するのはかなり太変なことであろう。それに私も疲れた、を連発しているが、一番疲れているのは勿論運転手だろう。ホテルに戻ってゆっくりデジカメの充電して、深い眠りに着く。

 

1月19日(水)

(2)朝の散歩

翌朝は気分良く起きる。朝5時過ぎか。さすがに早過ぎると思ったが、体はもう起き上がっている。昨日も車に一日揺られ続けたが、ここメイミョウの涼しさが眠りを深いものにしたようだ。少し明るくなっていたので外に出て見る。高原の朝は実に爽やか。恐る恐るではあるが、道を下って行く。やがて高原の道から畑の道へ。そして小高い丘へ。朝日が昇る方向に一本道が続く。どこかの犬が私を導く。不思議な雰囲気の中で、丘に登ると神々しい朝日が一筋の光明のように光を放つ。

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ただただ見とれる。ジーっと立ち竦む。犬は横で寝転んで尻尾を振る。永遠に時が止まりそうな朝であった。直ぐ下にメイミョウの街が見えている。来た道を振り返ると、日の出とともに農民が鍬や鋤を担いで、農地に赴く。まさに原始的な風景である。彼らとすれ違い、そして彼らが来た方へ行く。小さな村がある。決して豊かとは言えないが、静かな暮らしがそこにある。彼らの営みは我々が今本当に必要としているものにも思われるが、それは。

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帰りに大きな庭を有するホテルを見学する。前回も気になっていたが、今回は一人なので思い切って広い庭に踏み込んでみる。1903年に建てられたこのホテルはなかなか雰囲気が良い。如何にも避暑地のコロニアル風ホテルといった趣が心地よい。次回はここに泊めて貰いたい。

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ホテルに戻るとTAMとSSが朝食を食べていた。もうそんな時間か?パンと目玉焼き。前に買ったアボガドをTAMが切っていた。ゆったりした朝食である。しかしこの時点で私達は重要な決断をしていた。それは今日の、いや今後の日程を全面的に変更すること。既に疲れ果てていた私にはこれから8時間掛けてガローまで行く元気はない。ガローでは2年前にお会いしたウラミットさんが待っていることを知りながら、どうしても車に揺られる気力が出ない。

 

ミャンマー紀行2005(13)チャウメイは茶の集積地

それからまた少し行くと突然TAMが車を降りる。木造の家が数軒あるだけの寂しい所であるが何故?車の周りには近所の子供達が珍しそうにやって来る。SSが話し掛けるがミャンマー語が通じないのか、首を振る。道の脇には畑が広がり、その向こうには鉄道の鉄橋が見える。丁度汽車が通過している。何とも長閑な風景である。

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子供達は元気だ。10歳を越えた子から2歳ぐらいの子供まで一緒になって遊んでいる。これも昔の風景だ。今や日本では子供は外では遊ばない。ましてや10歳も歳が離れた子供同士が遊ぶことなどない。帽子を被っている子が多く、ロンジーを履いている子はいない。子供はロンジーを履かないと聞いた。

 

TAMはどこへ行ったのか?真っ直ぐに一つの家に入っていく。そして子供と一緒に出てきた。何をしているのか?こちらへ来いと合図がある。少し先の家に子供と一緒に突然上がりこむ。高床式なので2階へ。いいのだろうか?きっといいのだろう。中から女性が出てきた。この家の奥さんだろう。TAMは何か頼んだ。奥さんは中から持ち出してくる。それはシャンペーパーであった。この道端の集落では伝統的に紙を漉いていたのだ。何でそんなことを知っていたのか、経験か?しかしTAM恐るべし。SSはまたまたお土産を買い込む。

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私は茶碗に注がれたお茶を飲みながら、ベランダから外を眺めていた。これは1-2日なら理想的な住処かもしれない。暖かい午後の日差し、静かな環境、外の緑。心地良さそうな椅子がある。思わず借りて眠りたい衝動が襲う。いや、今日はメイミョーに行かなくては?そんなことはどうでも良いのでは?心の中に葛藤が生まれる。結局はそこを辞して、車へ。直ぐに畑と線路が交わる所に来る。写真を撮っていると、向こうにきれいな段々畑が見える。日本の原風景が又現れる。この線路はどこに繋がっているのだろうか?未来だろうか、過去だろうか。

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6.チャウメイ

(1)プロのガイドTAM

私の突然のリクエストでチャウメイにやって来た。しかも時間は午後4時に近い。1時間ぐらいでサッと見ないとメイミョー到着が遅くなる。しかし特にアイデアはない。街に入る。車もあまり通っていない。ここに一体何があるのか?TAMは車を飛び降りると電話を探す。どこかへ連絡している。戻ってくると街の真ん中付近で車を停めて、歩き始める。道端にある商店に入る。お茶を探した。麻袋に入ったお茶が出てきた。あまり保存状態が良くないように見えるが、何しろ暗い。この店は直ぐに退散した。

 

道が交差する角に素晴らしい木造の伝統建築が見える。あそこへ行って見たい、そう思っているとTAMはちゃんとそちらに歩き出す。いいぞ!その建物は1階が商店、2階は住居、そしてきれいなベランダが付いている。何とお茶を売っているらしい。思わず中に入ると、やはりお茶の袋が。土産物用にパッケージされた箱に入っている。女性の写真が箱に付いていたが、何とそれは売り子さん本人であった。ビックリ。チャウメイの郊外の山中でバロン族がお茶を作っていると言う。

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そこへ誰かが入ってきた。TAMと懐かしそうに話をしている。何と彼女の友人だという。この女性はチャウメイ在住。TAMは彼女に急遽ガイドを頼んだのだ。すごい。しかも彼女はこの店の人と知り合いだった。店側も非常に親切になる。店の奥でお茶作りをしていると言うので見学させてもらった。裏は天井が高い。倉庫になっていた。お茶が入った麻袋が沢山積んである。更に奥では緑の茶葉が山をなしており、ラペトゥを作っている。茶葉の香りがムンムンする。久しぶりに嗅ぐ匂いである。ここでいくつかお茶を買う。帰国してから飲んでみるつもりで、試飲もしなかった。何と言うことか、このお茶をSSに預けてヤンゴンに戻り、そのまま受け取らずに香港に戻ってしまった。私にとってチャウメイの緑茶は幻のお茶となっている。

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因みに私がこの街にどうしても行ってみたいと思った理由は2つ。一つは伊藤京子さんの著書『ミャンマー 東西南北・辺境の旅』の中にチャウメイが食べるお茶と飲むお茶の一大集散地であると書かれていたこと、もう一つは『チャウメイ』という地名から『茶』が『美味い』という言葉を連想した為である。但し本来のチャウメイの意味は何と『黒い石』であるとTAMから聞いてがっかり?した。

 

この家は80年ぐらい前に建てられた非常にバランスの良い設計。ミャンマーの伝統的な建築物なのであろうか。ここチャウメイには古きよき建物が随所に残されている。日本軍の侵攻やイギリス軍の空爆も無かったのであろう。お茶屋を離れて街を歩く。するとかなり古い感じの建物がある。

 

コロニアル風の建築はイギリス時代のものであろうか?ハノイで見たフランス植民地の建物のように肌色の概観。1階が店になっており、2階が住居。窓枠がお洒落。眺めていると向かいから英語で『日本人か?』と声が掛る。驚いて振り返ると髪を短く刈り込んだおじさんがニコニコして立っていた。

 

彼は昔英語を習った事があり、何とつい先日外国人向けにゲストハウスをオープンしたのだと言う。言われるままにそのゲストハウスを見学。歴史的な建物の後方に建つハウスはこぎれいになっており、ちょっとコロニアルな雰囲気が感じられる。外国人なら喜んで泊るかもしれない。実は私はこのチャウメイと言う街がかなり気に入ってきており、出来れば今夜はここに泊りたいと思ったほどだ。TAMはその辺を敏感に感じて、今夜はここに泊るかと聞く。メイミョウのKさんのことがなければ、多分泊ったであろう。残念ながらここを後にする。

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ミャンマー紀行2005(12)ラショーの温泉

(2)温泉

ラショーの郊外に温泉があることはガイドブックに載っている。既に昼時ではあったが、午後はメイミョーに戻る為、無理に連れて行ってもらう。前回インレー湖付近の温泉を訪れ、なかなか面白い体験が出来たので、是非行ってみようということになった。将来のロングスティに備える意味合いもある?温泉は必須アイテムか?

 

車で15分ほど北に行くと、囲われた敷地がある。入り口には警備員がおり、車の通行をチェックしている。どうやらお金持ちが来るところのようだ。ここが温泉?前回と違って仰々しい。中にはいくつも建物がある。TAMは私の為に手配をしてくれる。係の女性が浴室を見せてくれる。ここは皆個室のようで、中には浴槽があり、お湯が溜められる。外国人用とミャンマー人用は分かれている。外国人用はコテージのような概観でお洒落。ミャンマー人用は長屋風。お湯もホースで引き込んでいる。そこの1つに入る。真昼間からこんな所に入って良いのだろうか、少し罪悪感があるほど外は明るい。露天風呂があればいいのに??

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お湯はゆっくり溜まり、足を伸ばして入る。これまで色々と疲れることがあったが、いっぺんに吹き飛んだ。開放感はないが、車の狭い空間から脱出し、一人で考え事が出来る環境は何とも有難い。お湯は無色透明。何に効くのか聞いてもらったが、分からないようだ。この辺りの人は日本人の様に何でも効能だ、何湯だ、と細かいことには拘らない。そこが良い。

 

風呂から出てトイレに行こうとすると鍵が掛っている。係の女性もランチか、昼寝か見つからない。何でトイレに鍵が?5分ほどして別の従業員からようやく鍵を借りる。英語が出来るので聞いてみると勝手に入って汚されない為だという。しかしこの温泉、従業員が英語を話すということは、外国人が来ることを想定しているのであろうか?尚料金はUS$3であったと思う。

 

奥の方へ行く。裏側にプールのような場所があり、吊橋や小屋が見える。ここは一般の人が服のまま入っている。子供が裸で走り回る。女性が洗濯している。何だか原始時代というはこんな風景ではなかったかと思ってしまう。それ程自然で、のどかな、それ程時間がゆっくり流れている。

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レストランがあり、TAMとSSが待っていた。昼ごはんである。ここで朝出来なかった充電を頼む。ティボーでの朝の揉め事など遥か昔のことのように思える。何だか今回の旅は電気を求めて歩く旅となってしまった。このレストラン(木造の小屋)の場合も電源は会計の横にしかなかったので、会計の見える場所に座り、カメラを見張りながらの食事となる。地鶏焼や野菜炒め。中に鹿の肉の干したものがあったが、総じて普通の食べ物だった。腹が減っていたので一杯食べてしまう。鹿肉は塩気があって食べやすかった。

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SSに温泉の感想を聞くと、何と入らなかったという。料金が高過ぎる、1000kもするといっていたが、これから添乗員、それも日本人を案内する立場であれば必ず入っておくべきだと叱ってしまった。よく考えて見ればこちらの配慮が足りなかったのだが。帰りにもう一度料金を確認させるとミャンマー人は実は300kであったことがわかり、2人とも非常に残念がっていた。言ってくれればよかったのに?後の祭り。

 

(3)チャウメイまで

今夜はメイミョーに行く。前回会えなかった日本人Kさんを訪れる予定なのだ。それには間に合わないといけないと思いながらも、私はどうしてもチャウメイという街に惹かれていた。何しろ名前が『チャ(茶)ウメイ(美味い)』と言う名前なのだから、きっと何かあるだろう?

 

昨夜泊ったティボーまで2時間走り、更に戻っていくことは退屈に思われたが、そこはプロのガイドTAM、何かやってくれる。先ずは道端の小屋の前で停まる。みかんを作っている。本当に日本のみかんのような大きさで皮が硬い。見ると漢字で農園名が書いてある。どうやら中国系が投資している農園らしい。横の方には金柑の鉢が沢山置かれている。これは中国人が旧正月に飾るものであろう。この辺りにも大量の中国人が既にいるのであろうか?

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みかんを食べてみると実に甘い。ミャンマーの果物は総じて自然である。自然と言うことは極端に甘いということはない。しかしここのみかんは極端に甘い。SSなどはTTMへのお土産として買い込んでいる。甘いことは喜ぶべきことではあるが、何だか不自然なものの侵略、中国の侵略、悪しき文明の侵略と感じてしまう。この広大な、そして安価な労働力を持つミャンマーに、日本が中国に教えたであろう技術を持ち込んで金を稼ごうとしている。地元の人も潤うのであればそれは良いことだが、そんな簡単な話ではないのであろう。

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