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インドムナールお茶散歩2014(10)コーチン ビジネスクラスはステータス

ビザトラブル

食事中からまたラトールさんの携帯が鳴り出し、彼は食事もとらずに対応に追われていた。昨日の入試問題がまだ片付かないのかと思っていたら、今日はまた別の問題だった。実はラトールさんの奥さんビバさんと娘ナイニーカは5月に日本旅行を計画していた。これはナイニーカの中学卒業祝いであり、本人の強い希望でもあった。ラトールさんも行けばよいのだが、なぜか2人だけ行かせることになっている。ラトールさんは過去何回か日本へ行っており、今回は行ったことがない2人で、ということらしい。

ところでビザの件である。日本はビザの発給が遅いとか厳しいとかいうことをよくアジアの国で聞く。具体的にどのようなことが起こっているのかは定かではないが、政府が『ビジットジャパン』などというキャンペーンをやっている割には、この辺がお粗末なのかもしれない。

ただ今回のナイニーカの件は、これとは違っている。彼女のパスポートはあと3-4か月で切れるため、ムンバイの領事館がビザを発給しないのではないか、と代行業者が言っているらしい。これは大抵の国の規定に書いてある。『ビザ発給要件:パスポートの残存期間が6か月以上あること』と。しかしなぜそのような規定がそもそもあるのかはよく分からない。パスポートの有効期限内でビザを発給すればよいではないか?

結局ラトールさんが知り合いの領事館員に聞いたところ、ビザは出る、という回答で決着した。まあ逃亡の恐れもない母親付の15歳の少女だ。問題はない。しかしやはり解せない。『余白は2ページ以上あること』はビザを押すためのスペースの問題だから理解できるが。ラトールさんは2日続けててんてこ舞いになっている。

因みにこの2人の日本の旅行、どこへ誰が連れて行くかで、その後も大変だった。正直ただの外国人ではない。肉を一切食べない、日本語がほぼ出来ないインド人母子。食事一つとっても簡単ではない。ビジットジャパンは、このような旅行者にどう対応するのだろうか?

午後はムナールのお茶の歴史に関する資料を探す。だがこの街には本屋がなかった。新聞などを売る店が片隅に本を置いていたり、学校で使う教科書のような物を置いている店はあったが、普通の本屋、というものは存在しない。

仕方なく、一番大きなティーショップへ出向き、聞いてみる。だが『歴史に関するものなど何もない、博物館にあるだろう』と素っ気ない。確かにお茶を買う人がお茶の歴史に関心を持つかと言えばそうでもない。博物館以上の歴史はどこにもないのかもしれない。

カタカリ

夕方車で出掛けた。ラトールさんが『折角ここまで来たのだから、カタカリを見ましょう』という。何だそれ?『日本でいえば歌舞伎に似ている』と言われると、一応見ておこうということになる。街の郊外にある劇場に着くと、既に開演の5時は過ぎていたが、チケットを買って中に入るとちょうど始まった。

確かに顔のメークなどはどことなく歌舞伎に似ていなくもない。上半身裸の男たちが楽器を打ち鳴らし、男女が出てきて掛け合いのようなことをする。かなりユーモラスな所もあり、笑える。お客さんを舞台にあげて、笑いを取るようなこともする。これは劇というより、一種のショーだ。1時間があっという間に過ぎた。

すると別の場所でもう1つの出し物が始まるというので移動した。こちらは格闘技系。券を使ったり、肉体を使い、戦いを再現する。火輪を潜るなどかなりアクロバティックな運動が入っている。男子だけではなく、女子もある。これだけの運動能力をもし他の競技に使えば、オリンピックでメダルが取れるかもしれない、と誰かが言ったのを思い出す。

4月26日(土)涼しさよさようなら

ムナール最後の日の朝を迎えた。何だか警備が厳重で、庭やホテルロビーにもちらほら。聞けばケララ州の首席秘書官が泊まっているらしい。そういうステータスのホテルに4泊も泊まれたことは、私のこれまでの旅にはなかったこと。ラトールさんに感謝しよう。

朝食を食べて、ネットをチェックして、チェックアウト。8時にはホテルを出た。今日はコーチンに戻り、そのまま飛行機でムンバイまで行くため、早めに動き出した。インドでは何が起こるか分からない。

段々山を下って行くと、暑くなってきた。1600mの高地、ムナールが如何に快適な場所であったかが身に染みる。汗が出る。もう止まらない。どうしよう、水を飲むと余計に汗が出た。道の両側にヤシの木が見える。ケララとは元々椰子の木という意味らしい。実に南国らしい木だ。この木を見ていると少し涼しさを感じる?

道は空いており、相当早くコーチン空港の近くまで来た。早めのランチを取る。道端のチャイは美味い、ということを知っているので、敢えて小さなレストランに入った。ホテルで飲むチャイより、こういう店の方が美味い。更には道端の出店の方がもっと美味い。それはなぜなのか、きっと使っている原料が違うのだろう。ホテルは上品すぎるのだ。それではチャイの良さが出ない。

食事はカレーしかないというので、ご飯と共に食べる。これもまたムナールのホテルと違って上品さはないが、あっさりしていて美味い。私は高級料理は口に合わなくなっているのだろうか。それは決して悪いことではない。

ビジネスクラスはステータス

空港に早く着いた。ラトールさんのプネー行きが先に出る。何と私のフライトは早過ぎてチェックインすら1時間先しかできない。空港は小さく、時間を持て余す。土産物屋を見ると、バナナチップを売っている。お茶会用に購入。

実は今回帰りのチケットを間違えてビジネスクラスで買ってしまっていた。あり得ないミスだが、タイバーツとインドルピーの通貨表示を見誤り、安いと思って購入したら、実は結構な額でビジネスだったというオチ。それでも折角買ってしまったのだが、インドのビジネスクラスを楽しもうと思い、チェックインカウンターへ。

普通はビジネスクラスのチェックインの方が速いと思いきや、そこはインド。ビジネス客の方が注文も多く、また捌きが遅いため、エコノミー客がどんどんチェックインしているのに、進まない。イライラ、ところが私の後ろの人々は悠々と並んで待っている。そうか、ここに並んでいるのは速いからではなく、ステータスなのだ。地位のある人は騒がず悠然と待つ。イギリス式だな。私には耐えられない。

更にラウンジは何とチェックイン後に出入り口の方へ戻る。如何にも小さな空港で仕方がない。ラウンジ内も簡単な飲み物があるだけ。実に殺風景だった。WIFIも繋がらず、ラウンジにいる意味をあまり感じない。ボーイも暇そうにボーっとしている。ボーディングの合図もない。そんなコーチン空港を定刻に飛行機は出発した。南インドの茶旅は終わった。

インドムナールお茶散歩2014(9)ムナール 中国人が植えた茶園

4月25日(金)中国人が植えた茶園

昨日博物館のスニール氏に『どこか工場は見られないか』と聞いたところ、タタ財閥と関係ない茶園を紹介してくれた。今日はそこへ行ってみる。昨日はストライキで人影がなかった街、今日は何事もなかったように人で溢れている。本当に分からない。街道沿いの茶畑でも茶摘みをする男性が見られた。ここでは茶摘みを男性がしているのか?確かに斜面では男性の方が摘んだ後の茶葉を運ぶなどに適してはいる。鮮やかに摘まれた茶葉が布袋に入っている。とてもきれいだ。

タラヤル茶園に着くと、早々にしっかりと閉まった門を通り、工場へ入る。そして担当者から『茶摘みから製茶の一部まで1日で体験できる』との説明を受ける。ここには観光茶園としての機能がある。我々はそこまでする必要はないので、1時間コースを選択し、簡単な説明と工場見学、そして紅茶の試飲を行った。

この茶園の歴史などをしつこく聞いていると、マネージャーと思しき男性が説明を代わった。『John Ajooという名の中国人は東インド会社の社員だったが、罪を得て牢獄に入っていた。その後ここへ来て1890年前後に茶樹を植えたのが始まりだ』と話した。Johnは製茶の技術でも持っていたのだろうか、福建省あたりの出身だろうか、などと想像を巡らすも、それ以上のことは分からないらしい。

マネージャーは『外の茶畑を見よう』と言い出し、我々を案内した。そこには看板があり、『Chinaman`s Field』と書かれていた。茶の栽培と製造のアドバイスをするために東インド会社によって連れて来られた6人のうちの一人がJohnだとある。ダージリンに行った時にも、1850年代に中国の茶樹が植えられ、中国人茶師が来て教えた、という言い伝えがあったような気がする。それと同じことだろうか。そうであれば、Johnは金で雇われた茶農家か茶師だったのではないだろうか。実に興味深いが史実かどうかは分からない。

当時イギリスでは中国産の紅茶が好まれていたので、中国人が植えた茶樹=中国産紅茶という図式で、作られた話かもしれない。この付近に元々茶の木はないようだから、ダージリンと同様に中国種をイギリス人が持ち込んだのかもしれない。真相は不明だが面白い。

森林へ

もうお茶関係で行く所は無くなった。ラトールさんの提案で郊外の森林を見に行くことになった。途中茶畑もあり、牛がゆっくり茶畑の中を歩いているのが見えた。如何にもインド的な光景だった。きれいな滝にも遭遇した。インド人観光客が水に足を入れてはしゃいでいる。入場料を取られたが、早々に先へ進む。

マラヨールの森林地区はケララ州が管理しており、道路の両側は鉄の網が配備され、中には入れないようになっていた。入場料を払えば一部見学ができるようだったが、大自然の中を歩くことを想定していた私としてはかなり拍子抜け。周囲を少し眺めて退散する。ラトールさんは他のインド人と共に、お土産を物色。樹脂のオイルが肌に良いとか。ただかなりの値段を付けていた。

茶園から戻り、昼ご飯を取る。今日は南インド料理に飽きたので中華を選択した。オーダーしたのはゴビマンチューリ(カリフラワー炒め)、マンチョースープ(ネギ、キャベツ、若干辛い)、香港ヌードル(麺が太い卵麺)。何故こんなところでマンチューリ(所謂満州)という言葉が出て来るのか?とても興味をそそられる。恐らくは中国から中華料理を持ち込んだのが、チベット系(モンゴル系)だったからではないか。シッキムやカリンポンではインドと違って普通の中華を食べているが、その先にあるのはチベットだから。どうだろうか?

またなぜか全体的に辛い。インド人も辛いものを好むが、今の東北地方で辛いものが出るだろうか?ニンニクを大量に使った料理はあるが。チベット料理が辛かったという記憶もない。四川あたりの流れを汲むのだろうか。香港という名前をよく付けられている。広東料理をイメージするのか。同じ植民地だった香港に対してインドは中国とは違う親しみを持っている。

インドムナールお茶散歩2014(8)ムナール 選挙の日は外出禁止

4月24日(木)ストライキの街

『今日は外に出られません』と突然ラトールさんに言われる。何事かと聞いてみると『今日は選挙ですから』、え、選挙、占拠?選挙の投票日に外出できないとはどのような訳か?さすがインド不可解なことが起こる。ホテルの人間も『レストランも店も全て閉まる。街中が静まり返る』と。選挙の日にある法案の反対派が大規模な反政府デモを計画しているのだとか。この街の車以外が走っているとデモ隊から焼打ちに合う可能性が懸念されるというのだ。凄い!運転手は当然動きたくない。何しろ走らなくても我々が彼をチャーターしているのだから。

朝食後、歩いて街へ出てみる。確かに昨日までと状況は一変していた。仕事を失ったタクシーやリキシャの運転手がしきりに郊外へ行こうと声を掛けて来る。それを振り切り街へ入ると、殆どすべての店がシャッターを下ろしていた。唯一開いていたのは薬局。ここだけは襲われないのだという。病人の為に薬局は必要ということだろうか。それなら他にも必要な所がありそうだが。

ラトールさんは自宅のネット環境を改善しようとしていた。なぜか電話会社のオフィスも開いていた。だがインドの地域主義は凄い。ラトールさんの住むプネーと南インドのここムナールでは管轄が異なるため、結局何もできなかった。昔日本の電電公社でもそんなことがあったかもしれない。インドは今藪の中である。

街に人はいなかったが、選挙がどこで行われ、デモがどこで行われているのか、全く分からなかった。大騒ぎした割には実は何も行っていないのかもしれない。法律問題というのは『一定以上の大きさの土地売買を規制する』ということらしいが、本当に反対の人がどれだけいるのか。ただ昔働いていた頃、会社の偉いさんのインド出張をアレンジしたら、訪問先から直前になってキャンセルの通知が来たことがある。理由はその都市と隣の州の水問題。当日は空港まで全て閉鎖になるとのことで、やむなくフライトの行先を変更した覚えがある。実際に何が起こったのかは分からないが、それがインドというものだ。それにしても5年に一度のインドの選挙を生で体験できるとは貴重だった。

Tea Museumアゲイン

結局街から歩き出す。昨日も訪れたTea Museumへ向かう。地図ではホテルから3㎞となっていたので、ちょうど良い散歩だった。茶畑の近くを歩くのは気持ちが良い。博物館は幸いにも開館していた。入場料を払わなければならないが、昨日既に見学したので、今日はスニールシに会いに行くということにして、免除してもらった。

スニール氏も今日は見学者が殆どなく、暇にしていた。我々がオフィスに入ると世論で迎えてくれた。今日は緑茶の話になった。私は自分が日本の煎茶や抹茶について知識が不足していると強く感じた。そして彼は『日本のお茶農家の誰かがここへ来て、煎茶の作り方を教えてくれないかな』と切実に訴えた。アジアは今緑茶ブームであるが、その中で日本茶の占める割合は少ない。抹茶もアイスやラテとして使われているが、これは日本製ではない。日本は煎茶を広めるべきだが、名乗り出る農家があるだろうか。

昨日この付近の工場へ入れないことが分かったので、ムナール茶のサンプルを2₋3買ってみる。スニール氏が良いというものを購入したが、やはりここのお茶はミルクティに向いているのだろう。プレーンで飲むとちょっと苦い。ムナールではこの博物館で全てが完結していることが分かった。

高校入試トラブル

博物館を出ようとするとすごい雨が降ってきた。南国のスコールだ。一端別れを告げたスニール氏のオフィスに逃げ込む。そして運転手に電話して迎えを頼む。彼は嫌だったかもしれないが、とにかく来てくれたので、車でホテルへ帰る。

ランチもホテルの食堂で取る。本当は外で食べたかったが、何しろ全てのレストランが閉まっている。朝昼晩三食、ここで食べるしかない。運転手は実は泊まっていたホテルが今日は閉鎖してしまい、食べるところもないというので、ホテルへ呼んで食べて貰った。それにしても泊まっている人間を追い出すとはどんなホテルだ?彼は車の中で寝たのだろうか。

その頃からラトールさんの携帯が頻繁に鳴り出した。どうやら奥さんからだった。聞いてみると一人娘の高校入試の申し込みでトラブルがあったらしい。最初は意味が分からなかったが、今年からインドでは進学希望の登録などをインターネットで行うことにしたらしい。娘のナイニーカは運悪く今年進学。ネットで申し込みをしようとしたところ、既に自分のIDが誰かに使われており、登録できなかったらしい。登録できなければ受験が出来ず高校には行けない。これはラトール家の一大事。奥さんも務めている高校の仕事そっちのけで掛かり切っているらしい。

結局ネイニーカは何も悪くないのに、彼女のIDを使った別の学生を突き止めて彼女に取り消しを求め、更にはナイニーカの学校長の説明書を取り、当局に再申請となったらしい。全く私には理解できないが、全てにおいて書面が必要とのことで、大変な一日になっていた。インドビザで懲りている私は、『インドで新しいシステムが始まった時は必ず問題が起こる』と確信しているが、問題の起こり方がまた奇想天外でついて行けない。夜も当然ホテルの食堂。さすがに飽きてきたが、他に選択肢はなかった。

インドムナールお茶散歩2014(7)ムナール 世界一高い所にある紅茶工場

Factory visit断られる

それから街中でランチ。ターリーを食べる。もうそろそろインド食にも飽きていたが、他に選択肢もない。ターリーにも各地の物があり、南インドのターリーを頼むと、ホテルの食事と同じになってしまった。おまけにこのベジ店にはチャイすらなかった。ラトールさ餡は中部インドのターリーを頼んでいる。やはり故郷の味が一番のようだ。

午後はいよいよ工場見学、と意気込んで出掛ける。北の方へ向かうと茶畑が広がる。いい感じだなと思って下りてみたが、茶畑に入ることはできなかった。全ての場所が厳重に管理されていた。またスリランカのように観光用の茶園もなく、工場やオフィスへ入るための看板も見当たらない。観光客も単に茶畑の写真を外から撮っているだけ。

ようやく工場の入り口があったので、入れて貰おうと交渉したが、門番が頑強に拒絶する。門には『訪問者お断り』の札もあり、歓迎されていないことが分かる。聞いてみるとこの辺りの工場はどこも受け入れないという。サンプルを売ることすらしない。実はタタ系列の工場が殆どであり、会社の方針でそうなっていることが分かる。

ここまで来てどうしようか。運転手が情報を持ってきた。ムナールから離れた場所なら受け入れる所があるという。但しこの小型カーでは行けない、ジープをチャーターして行くのだとか。何だか面白くなってきた。それこそ茶旅だ!

車で小1時間行き、そこでジープを待つ。ジープの後ろの席に乗り、揚々出掛けたが、途中から厳しい山道へ。その道の悪さは途轍もないもので、ジープの上のバーに頭を4回も打ち付けるほど、激しい揺れだった。道はデコボコでおまけに石が敷かれており、悪路そのもの。周囲は素晴らしい茶畑と山々のビューだったが、そんなものを悠長に鑑賞する余裕もなく、ただただバーに捕まり、振り落とされないように努めた。写真など撮ろうにも焦点も定まらず、突然の揺れにカメラを取り落としそうになる。

世界最高地の紅茶畑へ

急斜面に人影が見えた。何とこの斜面で茶摘みをしていた。大きなはさみのような物で茶葉をカットしている。この労働は大変である。しかも摘んだ茶葉を担いで山道を運ぶと聞くと、気が遠くなりそうだ。厳しい環境である。

1時間近く乗っただろうか、いい加減疲れてきた頃、『歓迎!コルクマレイ茶園』という看板が見えた。1930年創立、標高は2100m、世界でもっとも標高の高い紅茶畑とある。これは期せずしてすごい所に来てしまった。茶園ツアーというよりは、アドベンチャーツアーである。欧米人などがジープでここまで来て、景色を眺めているではないか。

ところがここは終点ではなかった。何とも素晴らしい景色を見ながらジープは少し下って行く。そしてようやく茶工場が見えた。一面茶畑だ。気持ちが良い。これまでの疲れが嘘のように晴れた。入場料を払って工場内へ。他にも何人か見学者がいる。本当にこんな場所で紅茶が作られているのが不思議。子供たちは実際に茶作りの一部を体験できるようにしている。

その後お茶の試飲も行った。ところがあそこまで過酷な茶摘みをして、この標高でお茶を作っている割に品質はそれほどでもない。これも全てオークションへ送るだけの生産で長年改善がなかったからだろうか。とても残念でならない。お茶博物館のスニール氏が言ったとおり、この辺りの人々は新しいお茶の作り方を学ぶこともないのかもしれない。

帰りは経験があるので、かなり楽に車に乗れた。時間も短く感じられた。そしてジープから車に乗り換え、街に戻る途中には、道路周辺が一面霧に包まれる。これはお茶にとって悪いことではないが、朝霧は良いが夜霧はどうなんだろうか。運転手も前が見えないと難儀するほどの霧、これは怖かった。ホテルに戻り、昨日と同じ様な夕食を食べ、熱いシャワーを頭から浴び、疲れたので寝てしまった。

インドムナールお茶散歩2014(6)ムナール お茶博物館

Tea Museum

先ずはTea Museumへ向かう。ここへ行けば何か分かるだろう、という理由から訪ねてみたのだが、突然ビデオルームに入れられ、ビデオを見た。だが途中から見たので、この地域の初めの頃の歴史は分からなかった。ただ一つ重要なことに気が付いた。私は『ムナール=ニルギリ』と思い込んでいたが、実はニルギリではなく、ここのお茶はムナール茶だった。しかもインドの最大財閥タタが経営しているという。

ラトールさんには『インド南部の茶畑に行きたい』と伝えていた。勿論ウーティという地名も出していたのだが、『ウーティよりムナールの方が良いと聞いた』ということ。どうなるんだろうか。ニルギリは有名なブランドだが、ムナールなんて聞いたこともない。

博物館なのにここには茶工場に設備が一式あり、Tea Factory見学ができるようになっていた。そしてお茶の販売所があった。私は歴史に関する資料を探したが、見付からず。他の見学者(多くはインド人)は緑茶を買い漁っていた。何故緑茶?

実はこの見学の中でここのマネージャーのオジサンがお茶について説明した。いきなり『緑茶は薬であり、紅茶ではなく緑茶を飲む方が健康に良い。日本人は緑茶を飲んでいるから健康で長生き、また仕事も一生懸命できる』というので、内心『このオジサン、何言っているんだ』と思い、あまり真剣に聞かなかった。折角ここまで来たのに、紅茶の話ではなく緑茶の効能などを聞いても仕方がない。

初めてお茶の説明を受けたラトールさんは喜んでしまい、オジサンの説明にも感化されていた。私はオジサンを探し『この地域と工場の歴史を知りたい』というと、『ビデオを見ろ』と素っ気ない。仕方なく最初に戻ってビデオを見た。1880年に初めて茶が植えられ、1894年頃から本格生産が始まり、1924年には大洪水で壊滅的な被害を受ける。この辺の歴史は全てイギリスが主導である。茶葉はロープウエーでコーチンに運ばれ、輸出された。

戦後はイギリスが手を引き、60年代にはインド最大の財閥タタが参入。80年代には株式を完全に握り、タタ経営で紅茶が造られていたが、2005年に従業員に株式を譲渡。タタは17%を保有する一株主となり、KDHRは従業員12,500人、17の工場を抱える大集団となった。現在は3工場でリーフティ、1工場で緑茶、残りは紅茶を作っているという。

この辺の話はオジサン、スニール氏から聞いた。ビデオを見て戻ってきた私が彼のオフィスを訪ねると快く迎え入れてくれ、話をしてくれた。開口一番『この辺の人々はお茶の何たるかが分かっていない』といい、それはインド全体だともいう。彼はここに来て2年、緑茶の研究をしているという。だから先ほど緑茶についての説明を重点的にしていた。毎日Webで色々な資料を読み、日本の茶についてもそこから知識を得ている。だから教科書的な『日本人は緑茶を飲んで健康』という話になったようだ。

タタが株式を従業員たちに売却したのも、『タタから給料をもらって、満足している人々にやる気を出させるため』だったという。タタの給与、福利厚生などはインドでも最高水準にあり、それに慣れた従業員たちは自ら考え、動くことはなかった。勿論そもそもお茶はコーチンのオークションに送られるため、自分たちで品質向上を図るとか、販売戦略を考える必要はなかったのだが。

これから訪ねるべき工場と買うべきお茶を聞こうと思っていたら、ちょうど次のお客さんへの説明の時間となり、スニール氏はそそくさと行ってしまった。

インドムナールお茶散歩2014(5)ムナール 州が経営するリゾートホテル

リゾートホテル

コーチンから車で4時間、ついにムナールという街に着いた。この山間部、茶畑が少し見えていた。ここを拠点に動くらしい。ラトールさんから事前に言われていたホテルへ行くと、丘の斜面に建つ、古めかしいが何とも立派なリゾートホテル。

WIFIはロビーでしか使えないということで、まずはPCを開いていると、ウエルカムドリンクとして紅茶がやってきた。高級ホテルだ。敷地は相当に広く、部屋へは庭を歩いて行く。庭はよく手入れされており、花が咲いていた。いくつかの建物に分かれており、その1つの2階に入った。部屋は広く、清潔感がある。ベランダからは周囲が見渡せる。気持ち良いリゾートだった。

直ぐに山は夕暮れを迎え、急に暗くなった。このホテルには朝食は勿論、夕飯も付いていた。どんなものかと食堂へ行ってみると、本格的なビュッフェだった。スープはコーンスープ、チャパティを取り、インド風のおかずを取ると、その先には鶏肉や魚が置かれている。一応外国人を意識した料理もあるようだ。

お客さんはインド人もいるが、欧米人の家族連れが何組もいる。ちょうど夏休みシーズンだということで、インド在住の外国人がやって来ている。デザートのアイスが美味しく、コーヒーと共に頂いていると、ここがどこだか分からなくなる。

ラトールさんと日本企業のインド進出話をした。彼としては是非とも日本企業にインドに来て欲しい、と考えているのだが、事はそう簡単には運ばない、日本人はインドのことを殆ど理解していないし、理解しようとしても、宗教、カーズト、政治、農村など問題が多く、1₋2年では何も分からない。分からない人が駐在員をやっていても、事業は進まないし、ましてやインドが嫌い、早く帰国したいと思っている駐在員の仕事がうまくいくとは思えない。ここ10年間、日本企業の将来有望な進出先で中国に次いで常に2位だったインド。だが実際の進出が進まない理由はここにあると思われる。

4月23日(水) 朝食

朝は6時半に目覚める。外は既に明るく、鳥のさえずりが聞こえていた。バルコニーに出ると涼しくてさわやかな朝に出会った。思わず伸びをして、向こうの山を眺める。ラトールさんは紅茶を淹れるために湯を沸かしている。これがインド式だな、と思う。我々なら朝食に出かけてお茶を飲むが、インドでは起きたらまずはお茶。その後食事の順番になる。

朝から日本経済について話した。日本語を教えるラトールさんとしては、何とか日本が良くなり、日本語を学ぶ生徒が増えることを望んでいる。だが現実はマハラシュトラ州の高校生1.7百万人中、日本語を勉強しているのは僅かに200人。企業の就職口が増えれば勉強する人も増える筈と、日本の政府関係者などに働きかけているが、その反応は鈍いという。

朝食のビュッフェ、インド式のものが多い。私はトーストを取ったが、おかずになるものがない。横を見るとオムレツを食べている人がいた。ここインドでは、ビュッフェと言っても、ウエーターに注文すれば、卵ぐらいは出て来る。でも日本人から見れば『あるならあると書いてくれ』と言いたくなる。

見るとウエーターの数がやたらに多い。ビュッフェなのになぜと思っていると、ジュースからデザートまで自分で取りに行かず注文している人が時々いる。ある意味でここはビュッフェではなく自分で取りに行くことも出来る場所、という位置づけらしい。経営効率から言うと非常に悪い。これなら初めからアラカルトにすればよい、その方が価値も上がると思うのだが、それは調理場の問題だろうか。

このホテルはケララ州政府が経営しているらしい。一等地にある由緒正しいホテルで雰囲気も抜群だが、サービスという点では民営化が望ましいように思う。州の雇用問題もあり、このように人を沢山雇っているようだが、それではサービスは向上しない。

インドムナールお茶散歩2014(4)コーチン ザビエルではなくガマだった

4月22日(火)WIFI繋がらず

朝起きて、PCを立ち上げたが、ネットに接続できない。何故だろうかとフロントへ行き訪ねると『パスワードは昨晩失効した。新しいのをあげる』と言われ、部屋に持ち帰ったが、何とPC内では昨日のパスワードが作動しており、新しい物を入力できない。どうみてもパスワードの問題ではない。その後『スタッフを部屋に寄越す』という話だったが、一向に来ない。最終的にチェックアウト直前になり『WIFIに不都合があった。ビジネスセンターでネットが使える』との説明があった。どうなんだろう、この対応。

ビジネスセンターは1階にあり、マネージャーという人々は個室に入って何かしている。インドはこういう社会なんだな、と思う。とても働いているように見えない。PCも特別に貸してくれるようで、スタッフの席でネットを見た。

ザビエル教会はどこ?

昨日手配した車はなかなかやって来ない。電話をしたが言葉が通じないらしく、ホテルの人がタミル語で話す。何と駐車場に来ていた。駐車場に荷物を運ぶと運転手はいない、トイレに行ったらしい。この辺が何ともおかしみがある。まるで漫画のようだ。何とか見つけて出発した。

先ずは市内のCitibankへ。ルピーを下ろすために寄る。かなり厳重な警戒を敷いている。お客様に笑顔で接する、のとは正反対。お客様はいつ敵になるか分からない、という雰囲気が漂う中、少し大きな金額の引き出をしたところ、5回に分けることになり、警備員の目が気になる。銀行に来るのにビクビクしなければならない、なんて。

それから橋を渡り、島を通過、広い半島部にあるフォートコーチンを目指す。ここは16世紀の大航海時代にポルトガルがやって来てその後オランダ、イギリスと続く歴史を持っている。ラトールさんに『ザビエルゆかりの教会へ連れて行ってほしい』と頼んでいたのだが。先ずは教会に着いた。かなり立派な教会である。中もかなり鮮やかなステンドグラスなどがあり、素晴らしい。だがザビエルゆかりの表示はどこにもない。聞いても良く分からない。この教会がサンタクルスという名前であることが分かる。どうやらここではないらしい。

次にチャイニーズ・フィッシング・ネットという所へ行った。何だそれは、その名前は。海辺に大きな仕掛けがしてあり、魚取りの網が丸太に括り付けられている。この網を海中に沈めて、時期が来たら丸太で引き揚げるらしい。これは中国的漁法なのか、それとも網が中国から渡ってきたのか、さっぱり分からない。少し眺めていると、男たちが声を掛けて来る。『フィッシングしようぜ』と。ここは完全な観光地となっている。とれた魚?は浜辺で売られ、それを買って料理してもらう小屋まである。この魚、ウマイのだろうか?

そしていよいよやってきたのは聖フランシスコ教会。16世紀のポルトガル時代の教会と聞き、ここがザビエル関連の教会だと思い込む。中はかなりシンプルな造り。そして脇の方に何やら、表示が。何とそこに書かれていたのは『バスコダガマの墓』。え、完全に勘違いしていた。ザビエルゆかりの場所がコーチンではなく、ゴアだった。そしてザビエルより前、1524年に亡くなったバスコダガマがここに埋葬されたのだ。何という思い違い、でもこれが見られてラッキー。

3.ムナール パンク

そして車はコーチンを離れ、一路ニルギルへ。途中で水を買い、準備万端で向かう。車はタタの小型車。2人だから十分だ。ところが少し行くと突然車が停まる。故障か、と危ぶんだが、何とタイヤのパンクだった。運転手は後ろのスペア―タイヤを出し、器用にタイヤを外し、素早くタイヤを交換した。この手際は見事だった。余程慣れているとしか思えない。

ランチは道路沿いの食堂へ入る。カレーと炒飯を頼んでカレー炒飯として食べる。インドでは普通だが、日本でこれをやったら流行るだろうか?炒飯の味付けを薄くする必要はあるが、意外とウケるのではないだろうか?腹が減っていたせいか、やけに美味い。食堂のトイレが清潔なのは有難いこと。中国などで旅行中トイレが汚いと嫌な気分になるが、インドはそこそこ掃除が行き届いているのが良い。分業制でちゃんと係がいるのかもしれない。

また途中でバナナを売っている店があったので停めて貰い、買う。このバナナ、バナナがなったままの幹を切って店先で売っている。これは先日のスリランカと同じ要領だ。鮮度を保つためだろうか。それとも何か理由があるのだろうか。

インドムナールお茶散歩2014(3)コーチン ヒンディ語は通じない

4月21日(月)英気を養う

今日は午後のフライトでコーチンへ行くので、英気を養うため、午前中は静養に決めた。さすがに4月のインドは暑い。これまでこんな暑かったことはなく、体調を憂慮した。朝食ビュッフェを済ませると、後は部屋で旅行記を書いて過ごす。このような場合、それなりのホテルだとリラックスできる。ここには大きなフカフカのベットはあるし、お茶も自由に飲めるので、捗る。途中ネットが繋がらなくなり、偶にロビーに降りて繋いだのが良かったかもしれない。書くことに集中するにはネットは大敵だ。

昼頃ホテルをチェックアウトして、国内線ターミナルへ向かう。昨日も行ったので荷物はあったがラクラク到着した。インドで乗り物に乗るストレスを考えれば、歩いて行けるのは天国のようだ。途中何台ものリキシャ―に冷やかされたが、めげなかった。

空港は予想以上にきれいだったが、案の定WIFIは繋がらなかった。仕方なくボーっとフライトを待つ。ところが定刻になっても何の表示もなけれな、アナウンスもない。せめてこのゲートからコーチン行きが出る、などの表示があれば安心できるのだが、何も表示されないため、ゲートが変わったのではないか、などと要らぬ心配をした。他の外国人たちもチケットを手にカウンターに次々に確認に行く。インドではどう変わるか分からないし、いつ出発するか最終的に分からないので表示しないだろうが、何とかならないか、と思う。

ターミナル内には奇麗なショップがいくつもあり、特にイングランドのサッカーチーム、マンチェスターユナイテッドのオフィシャルショップがあるのには驚いた。クリケットの国インドにもプレミアリーグは目を付けていたのだ。無料の英字新聞があったので時間を潰していると、ようやくボーディングの合図があった。よかった。

機内では国内線でも食事が出た。ジェットの良い所、いやLCCではない所だ。近いと思っていたが、2時間のフライトだった。快適に寝た。そして起き上がると既に南国コーチンの空港に着陸していた。

2.コーチン  携帯

空港にはプネーから先着したラトールさんが待っていてくれた。フライトがディレーしたので、2時間近く待たせてしまった。先ずは今日のホテルへ行くための交通手段。これはプリペイドタクシーのチケットを買う。結構並んでいたので、その合間に他を見ると何と携帯のシムカードを売っていた。以前はなかなか買えず、買えてもその地域だけしか使えないなど不便であったインドの携帯、本当に使えるのだろうか。

カウンターでパスポートのコピーを取り、携帯番号を選ぶ。シムカードを装着して待つ。他の外国人も買っているので、なかなか手続きが進まない。ようやくOKが出たので、外へ出て予約したタクシーを探す。ところが強烈な雨が降り出した。さすが南国、スコールだ。タクシーはその雨の中、お尻から駐車スペースに入れ、何とか荷物をトランクに入れ、走り出す。

運転手はラトールさんが何か話しかけても返事がない。どうやらヒンディ語が出来ないようだ。ラトールさんは南の言葉は出来ない。結局片言の英語での会話となる。インド人同士でも言葉が通じない、それが大国インドの現状である。それにしても運転手の運転はあまり感心しない。

市内に入ると、地下鉄工事の現場が続いていた。こんなところにも地下鉄が必要なのだろうか?中国もそうだが、発展の1つの象徴が交通渋滞であり、その緩和策の1つが地下鉄建設であるようだ。到着したホテルはさっぱりしたこぎれいな所だった。

ホテルで車手配

既にラトールさんが予約をしており、スムーズにチェックインできるかと思いきや、いつものように時間がかかる。この国ではこの程度の時間を、時間がかかるとは呼ばないようだ。ようやく手続きが整い、部屋へ。今回はラトールさんと2人1部屋にしてもらった。その方が節約にもなるし、色々と勉強になると思ったので。ネットはパスワードを貰い、何とか部屋でも繋がった。部屋は広くはないが標準的な設備はあり、十分。

直ぐに辺りが暗くなり、夜がやってきた。夕飯は面倒なのでホテルのレストランへ。と言っても裏側にある、立派な所だった。私はそれほど食欲がなかったため、パンにスープ、サラダなど軽いものにした。とても静かな良い空間だった。赤ちゃんを連れたインド人夫婦がいただけだったが、赤ちゃんすら大人しかった。

明日は茶畑へ向けて山へ入るのだが、ラトールさんはその車の手配に苦心していた。自分が以前に使った運転手に電話すると『今はコーチンに居ない』とのことで、ハイヤー会社を紹介されたが、そこが電話に出ない。ホテルで聞くと、非常に高い料金を請求してくる。まあ5日間も車を借り切る贅沢だ、確かに料金は気になるところだが、全てを彼に任せた。夜遅く車の手配が完了した。インドでは何をするにも大変だ。とても一人ではできない。

インドムナールお茶散歩2014(2)歴史に溢れた街 ムンバイ散策

4月20日(日)

郊外電車で

少し寝覚めが悪かったが、今日はムンバイを散策する日。先ずは腹ごしらえと朝食に。一応パンや卵、など、揃っており、ウエスタンスタイルでコーヒーを飲みながら過ごす。このホテルグループは昨日送迎の問題があったものの、居心地の良い空間の提供、という意味では悪くないかもしれない。ただビュッフェなのにオーダーしないと卵料理が食べられないなど、多分にインド的な要素も取り込んでいるから、注意は必要。

さて、どこへ行って良いかよく分からない。先ずは自らの現在位置を確認し、電車に乗れば市内中心に出られることが分かる。ホテルから歩いて15分、ビレパレという駅に着く。だがチケット売り場がない。インドでは無賃乗車が当たり前なのかとも思ったが、乗車してから何か言われるのは大変面倒なので意地になって探す。ようやく駅の反対がの端まで行き、見つけて購入。10r。

電車は結構頻繁にくる。インドの列車と言えば、乗客が多過ぎて屋根の上に乗っている映像が思い浮かぶが、今日の電車はガラガラ。ラクラク座れた。ところが途中の駅で人が大勢乗り込んできて、満員となる。席は3人掛けだが、少しでも余裕があるともう一人が尻を突っ込んできて4人掛けになる。既に1月にプネーで経験済みのため、驚きはしなかったが、面白い。車両はかなり新し目で、汚くもない。

小1時間かかって、終点のチャーチゲートという駅で降りる。ホームがかなり広い、イギリス風の建物だった。外へ出たが方向が良く分からない。適当に歩き出す。すぐ広場がある。どこかの学校の校庭だろうか?かなりの暑さの中、クリケットをやっている人々が大勢いた。国民スポーツだ、と感じる。

それにしてもムンバイの中心地、イギリス時代の古き良き建物が随所に散りばめられている。素晴らしい。途中劇場のような所にCitibankのATMがあったので、お金を下ろしてみるとちゃんとルピーが出てきた。近代化か。

インド門など

ムンバイの観光名所と言えばやはりインド門。取り敢えず歩いて行くと、何とか辿り着く。門は見えたがその前にはゲートがあり、チケットを売っている男がいた、何となく胡散臭いので無視して進むと、普通に入場できた。これだからインドは油断できない。

インド門は海に突き出したところに立つ大きな門だった。観光客が大勢来ており皆が写真を撮る。インド人も多い。1911年に建てられたとある。どういう意味で建てられたのか、と思ったが、イギリス国王の来訪に合わせて作られ、記念式典が行われた場所らしい。インドにとっては決して愉快な門ではない。

その横に素晴らしい形の建物が建っていた。飾りも鮮やかでビクトリア朝の様式のように見えた。近づいてみたが、警備が厳重、何か大切な場所なのだろうと、スルーしてしまう。あとでここが行ってみたかった、タージマハールホテルだと気が付いたが遅かった。ここで紅茶の一杯も飲みたかったが、ここへ入るような格好もしていないと諦める。

ここはインド人お断りに憤ったタタが1903年に作ったホテル。シンガポールのラッフルズと並び、アジア最高峰のホテルと称される。一度は泊まってみたい、いやお茶を飲んでみたい。最近のテロでホテルへ入るにもかなりのチェックがありそうで気が引ける。

それからグルグルとその辺を歩き回った。旧ビクトリアターミナスという駅までたどり着いた。ここは1887年に建造された教会のような建物の駅。コロニアル建築の代表として世界遺産にも登録されている。しかし現役の駅として今も使われているところがすごい。私もここから電車に乗ってみたかったが、ホテルのある場所とは路線が違うようで、間違えると面倒なので断念した。

更に歩いて行くと歴史的な建物の1階に何とスターバックスが入っていた。インドにもこのような時代がやってきたのだ。入ってみるとお洒落でバーのような雰囲気。コーヒーもケーキもかなりの値段がする。アイスティを頼んでみたが、なぜかなかなか出て来ない。店員も私を放置した。もう要らない、というと慌てて作り出した。何となく不愉快な思いで席に着く。WIFIも使えるようだがPCを持ってきていない。

それから駅に戻り、電車に乗って帰る。だが途中でまた降りてみたくなる。ドービーガート、100年以上前からあるムンバイ最大の屋外物干し場。映画のロケにも使われたというので、ちょっと覗いてみることに。マハラクスミという駅で降りる。駅のすぐ脇とあったがホームからは見えないので、外へ出てみる。

駅の高架から、その光景は鮮やかに見えた。それにしてもビッシリと洗濯物で埋め尽くされている。今日は天気も良く、何とも洗濯日和なのだろう。だがこの光景こそがある意味でインドなのである。職業を制限されてきた人々、生まれた時から洗濯をすると決まっていた人々がいたということではないのか。鮮やかなだけに一層考えさせられる光景だった。

そのまま電車に乗り、元の駅で降りる。ちょっと腹が減ってきたところで、ちょうどコーヒーチェーン店があった。インドで一人で食事をする際は、出来れば涼しくてあまり辛くない物を食べたい。それにはこのような店が適していた。サンドイッチとレモンスカッシュ、いい組み合わせだ。

バラナシ行

ホテルに戻りネットを繋ぐと、Facebookにメッセージが来ていた。台北の知り合いからだったが、なぜか突然に『インドにいるならバラナシへ行ってくれ』という。そう簡単に行けるわけがないし、そもそも明日から南インドの茶畑に行くのだから無理だ、と行ってみたが『行けるはずだ』と譲らない。

日程を調べてみると、バンコックに戻る予定を3日間ずらすことは可能だと分かる。そして今やネットでインドの国内線のチケットを取ることも可能だ。だが国際線の変更、バンコックへ帰るフライトは容易ではないだろうと思った。そういえばこのホテルから国内線空港は歩いて行ける。ちょっと確かめてみようと行ってみると、ジェットエアーは簡単に『1回だけなら変更可能』と回答した。全てがバラナシを目指していた。

こうなれば流れに任せるしかない。ネットでバラナシ行チケットを予約し、バンコックへ帰るフライトも3日遅らせた。今やインドもスムーズな社会になってきた。ちょっと前なら想像もできないことだろう。

夕飯

昨日の夜も軽め、今日の昼も軽めで済ませたので、正直腹が減った。恐らくはバラナシ行のストレス?もあったのではないだろうか。何しろ最近手際よく事を捌くなどということとは無縁だったのだから。

ホテルの周辺を歩いていると、中華系のレストランがあった。いや、実際には中華料理と書いてあっただけでインド系がやっていたはずだ。なぜかここに入った。メニューを見ると見慣れない物が並んでいた。『香港ヌードル』って何だ?頼んでみたが、良く分からなかった。春巻きは妙にデカかった。

ウエーターは珍しそうに寄って来ては『美味いか』などと聞いてくる。日本人が来るような場所ではないのかもしれない。インドの中華とはスナック感覚なのだろうか?お客もちょっと食べては出ていく。暑い中、レモンジュースが妙に美味い。

インドムナールお茶散歩2014(1)ムンバイ 異常な料金を請求するホテル

《ムナールお茶散歩2014》  2014年4月19日-29日

1月にインドでパンチャカルマを受け、村にホームステイ、そしてインドの結婚式への出席など、刺激に満ちた旅をした。しかし刺激が多いというのは、如何なものか?正直インドからバンコックに戻った時は『もう当分インドはいいや』という気分であったことを正確に覚えている。

ところが刺激という物は恐ろしい。一端心に刺さるとまるで毒針のように、ネチネチと心の中を駆け回る。『なんかインド、行きたいんだよな』となってくる。『そうだ、先日取ったビザは6か月のマルチだった。インドビザとるのは毎回苦労しているから、この際ビザのあるうちにもう一度行くか』となる。

そして止めは『南インドの茶畑、行きたければ連れて行くよ』と言ったラトールさんの言葉。一人で茶畑に踏み込むのは心もとないが、インド人が一緒ならいいか、となり、ついに3か月も経たないうちに再訪することになった。初めての南インド、どうなんだろうか?ワクワク。南インドの代表的な茶畑、ニルギリは目の前だ、と思ったがインドはそうは甘くなかった。

4月19日(土)
1. ムンバイ
バンコック空港で意外な再会

今回はジェットエアーでムンバイに向かう。初めてインドへ行った5年前、ムンバイ空港に深夜降りたが、そのままプネーに行ってしまい、ムンバイの街を見ることはなかった。今回はフライトの関係でコーチンに行くのに、どうしてもムンバイで泊まらなければならない。良い機会なので、ムンバイに2泊して、散策することにした。

バンコックの空港に行き、いつものようにWIFIに接続し、『今からインドへ行ってきます』とメッセージを流すと、インドのA師より『飛行機はジェットか』と聞いてきた。何とA師がタイでヨーガを教えている人々が同じフライトに8人乗るという。彼女らはロナワラ1週間+エローラの旅だ。私は昨年11月に彼らのヨーガキャンプに参加したが、その時のメンバーがいるかもしれない。ゲートの所で探してみると、知った顔がいた。何とも奇遇、先方も驚いていた。

4時間のフライトは順調だったが、なぜか私の機内食の選択が『フルーツ』となっていたそうだ。今日はこの機内食を夕食にするつもりだったので、断って普通のインド食を食べたが、機内食の選択が実に豊富なのが、インドの特徴ではなかろうか。

空港ピックアップで 空港ではタイ組と一緒に行動したが、イミグレの所で先に進み、迎えに来ているというバンダを探した。バンダはロナワラで1年勉強しているタイ人で、昨年、今年とインドで既に2回会っていた。日本語も少し話すなど、優秀でかなりユニークな人材。再会を楽しみに出口を出た。だが彼女の姿は見付からない。ターミナルへ戻ろうとしたが、そこはインド、『一度出た者は二度と入れない』のである。

仕方なく諦めてホテルへ向かうことにする。今度はゲートで今日の宿フランス系のホテルIBISのスタッフを探すがこちらも見つからない。他のホテルの人に聞くと、親切に電話をしてくれたが、帰ってきた答えが『999r掛かります』という驚きの料金。実はIBISは空港からも近く、無料で送迎してくれると聞いたので予約したのだが、とんだ誤算だった。

仕方なくタクシー乗り場を探すが、これがまた地下になっていて分かり難い。ようやく見つけて料金を払うとエアコンなしで200r。どう見てもIBISの料金が常軌を逸していることが分かる。そしてマルチの小型カーに乗り、空港を出るとものの5分でIBISの横に来てしまった。これにはビックリ、ここまで近いとは。そしてまた料金で憤慨する。200rでも高いのではないだろうか。

ホテルに入ろうとすると厳重な荷物検査まである。確かにムンバイではテロもあったので悪いことではないが。部屋はコンパクトで悪くはない。WIFIはかなりのスピードがあり、満足。

チェックインした時は西日が差していたが、あっという間に真っ暗になる。お湯を沸かして紅茶を飲み、PCに向かって夜を過ごした。ムンバイは正直夜でも暑いが、湿度はさほど感じない。ただエアコンなしで寝ると汗ばみ、エアコンを点けるとちょっと寒いという中途半端さだった。