ミャンマー激走列車の旅2015(15)這ってミャンマーを脱出

 そこへタクシーの運ちゃんがやってきた。何と金を払えという。しかもあんなに近いのに6000kも要求してきたので『そんなの聞いていない』と突っぱねると、彼は怒りだした。それでも無視していると、携帯でホテルに電話した。私に携帯を押し付け、『話を聞け』という。だがホテルの人の英語も殆どわからない。何となく『お金を払ってほしい』というニュアンスは伝わってくるが納得いく説明はない。『支払わない』と言い電話を切った。運ちゃんがまた怒り出す。

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今度は彼の上司という人が電話に出た。流ちょうな英語を話したので内容は分った。だが6000kは高過ぎるというと、『ラショーはヤンゴンとは違うのだ。空港までの送迎ルールなんだ』と優しく言う。そういわれると、そうかなと思うが、ここまで突っぱねた以上、急に折れたくない。最後は上司がここまでやってきて、『何とか払ってやってくれ』というので、半額で折り合いをつけた。それがよかったのかどうかわからないが、まだまだミャンマーの田舎には外国人料金が存在し、その料金は安くはないことがよく分かった。

 

それからずっと待っていたが、いつになっても呼び出しはなかった。フラフラと外を歩いていて戻ると、いつの間にか我々の荷物はリヤカーに積まれ、運ばれていった。乗客もゲートを潜り、中に入っている。もうすぐ搭乗なのだなと喜んで、滑走路のある方に向かう。何となく難民の逃避行のように見えた。その先にはターミナルビルがあり、ちゃんと荷物検査もしていた。それが終わると、待合室に入る。外には小さな滑走路。すぐに飛行機が飛んで来るものと待ったが来ない。思わず外へ出て滑走路の脇で写真などを撮るが咎める者もいない。南国の怠惰な雰囲気が流れている。

 

待合室でお菓子をボリボリ食べている中華系のおじさんがいた。ポロシャツ、短パン、サンダルの軽装である。気になって見ていると向こうから話しかけてきた。それも英語だった。『日本人だが中国語はできるよ』というと、驚いて中国語に変わる。このおじさん、ミャンマー語、シャン語、英語、中国語などを自由に操っている。聞けば、元はミャンマー軍に所属しており、今はNPOの仕事をしているらしい。興味深いので、ミャンマーと中国のことについて色々と質問した。それに対して、実に具体的な回答が返ってきたので、益々興味を引かれた。

 

我々はもう一度待合室を移動した。なぜこんなことをするのかわからないが、今度こそ飛行機が飛んできた。自分の足で飛行機まで歩いていき、後ろから乗り込む。機体は非常にきれいで、CAの英語も洗練されている。軽食も出た。既に乗りこんでいた乗客はタウンジーから来たらしい。おじさんと隣同士で座り、話の続きを聞く。何だか話は盛り上がり、今日はタチレイの彼の家に泊まる、というところまで来てしまった。おじさんは仕事でシャン州へ行くが家はタチレイにあるらしい。アジアの旅ではこんなことがたまにはあるが、今回は体調が非常に悪いのでどうしようかと躊躇する。

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僅か50分のフライトでタチレイの空港に着いた。ここも小さな空港だった。おじさんには荷物はない。私は預けた荷物を待っていたが、リヤカーで曳かれてきた荷物に乗客が殺到してもみくちゃに。しかもミャンマー人は職員に小銭を渡している。私は何もせずに荷物をとったが、何も言われない。おじさんには迎えが来ていた。若い奥さんだった。車に乗せてもらう。車内では夫婦で口論が始まっていた。おじさんは2か月ぶりに家に戻った。そこへ見ず知らずの日本人が一緒だったので奥さんがへそを曲げたらしい。それはそうだ。

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『家の片づけができていない。今晩は俺がホテルをとってやるからそこへ泊れ。食事はうちで食え』などとおじさんは言うが、体調を考えて、『今日メーサイに渡りたい』と切り出し、奥さんが安堵する。本当はタチレイ側に一泊したかったのだが、行きがかり上、仕方がない。そして空港からタチレイの街を通り抜け、国境のゲートの前まで送ってもらった。空港からの交通手段がなかったので、これは実にありがたかった。おじさんと記念写真を撮り、別れた。ようやくミャンマーともお別れだ。弱った体を引きずり、ミャンマー側のイミグレ手続きをして、橋を渡る。なぜか疲れは倍加した。荷物が重く感じられ、腰は益々痛くなってきた。

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タイ側国境を越え、国境沿いに歩いていくとホテルがあったのでとにかくそこへ入り、休息した。ここから私の療養生活が始まった。4日間、腰の痛みに耐え、食欲のない状態で、ポカリスエットを飲んで過ごした。こんなことは放浪生活でも初めての経験だった。今回の旅を振り返ると、その旅の壮絶さは予想をはるかに上回り、そして『本当の旅とは何か』を考える機会が与えられた。私はまだ甘かったのだろうか。

1 thought on “ミャンマー激走列車の旅2015(15)這ってミャンマーを脱出

  1. 3月1日に以前からのヴィサ資格を無効にする為にタイ側から出国、2,3歩歩いてまたタイへ入国しました。10数年ぶりでタチレクには行きませんでしたが、タイのメサイは大きく変わっていました。

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