《昔の旅》麗しの島台湾編1984(1)

〈最初の旅-1984年3月台湾〉

1.パスポート
大学3年も終わろうとしていた。殆どを部活とバイトに明け暮れていた私にとって、海外旅行など思いも付かないことだった。いや正直に言えば2年の時、第2外国語をスペイン語に替えたあの時、一瞬スペインへの憧れから金を貯めたことはあった。だが間抜けなことに前期試験に遅刻し単位が取れないことが分かったとき、その憧れは一片に消し飛んでしまった。

その私が何故台湾に行くことになったか?それは単に周りの多くがパスポートを持っていることに気が付いたからだ。クラスの中に3年の夏に中国に短期留学した者が結構いた。その話が楽しそうだったのだろうか?いや、何故か他人が持っているものを自分も持ちたいという願望のみで、パスポート取得を思い立ったのだ。外国に行くつもりはなかった。

確か池袋のサンシャインに出入国管理事務所(?)はあった。パスポートを取るには、戸籍謄本や写真、それに残高のある貯金通帳が必要なことも知っていた。意気揚々とオフィスに入った。申し込み用紙に記入した。[行き先]?、海外に行かない者はパスポートを取ってはいけないのだ。唖然とした。でもここまで来てしまったのだ。後戻りはできない?何故かそう思った。

中国には行きたくなかった。嫌い?だった。さてどうしよう。下宿の台湾人留学生が浮かんだ。お母さんが時々来ており、流暢な日本語で『一度台湾にいらっしゃい。』と何度も言われていた。勿論社交辞令だと思っていた。でも、台湾に丸を付けてしまった。パスポートは呆気なく取れた。(取れてしまった。)

2.準備
台湾に行かなければならない。大変なことになった。正直な気持ちだった。下宿に戻って、留学生の陳さん〔女性〕に話すと、一言『来れば。』と言ってくれた。助かった。日程は春休みに決めた。でも、旅行には何が必要なのだろう?台湾には飛行機で3時間ほどだと言う。チケットと外貨の準備を考えた。

友達が飛行機のチケットは新宿のHISというところが、格安だと言う。西口を出て甲州街道沿いの古いビルの6階にあった。こんなところで大丈夫かなと思ったが、中に入ると学生で溢れていた。アメリカのノースウエストが一番安くて往復で6万円だった。但し飛行機は夕方出発でよく遅れると言われたので、一泊分のホテルを予約した。5千円だった。まさかこの時のHISが現在のように大きくなるとは思いもよらなかったが、確かに金のないものには便利な旅行会社だった。

帰りに三和銀行新宿西口支店に入って、トラベラーズチェック(T/C)を作った。シティバンクのチェックだった。当時は一ドル250円ぐらいだったか。何故三和銀行かと言うと、単にバンクカラーがグリーンで、イメージガールが紺野美紗子だったからだ。この時もし銀行に就職できるなら三和にしようと思った。準備と言えば、後はガイドブックを一冊買ったのと、陳さんの連絡先を聞いたことぐらいだった。何も知らないまま台湾に行った。

3.台湾へ
3月3日の桃の節句の日、成田に向かった。成田エックスプレスなんかなかった。みんな箱崎からバスだ。成田空港に近づくと、検問があった。成田闘争の余波だ。パスポートを誇らしげに出して通過した。バスから降りるとまた検問があった。荷物検査だ。見送りがいた。時の彼女、現在の奥さんだ。検査官が聞いた。『どちらの方が出発ですか?』その時の格好は、古びたトレーナーに擦り切れそうなジーンズ。小さなリュック。とても海外旅行に行く人間には見えなかったのだろう。それくらい海外旅行を簡単に考えていた。因みに当時も見送りの人でも身分証明が必要だった。

度重なる検問で俄かに不安になった。私は海外に行く資格があるかどうか?拠り所はただ一つ。パスポートを持っていることだった。これを取った人間は海外に行かなければならない。

空港は綺麗だったが、分り難かった。漸くチェックインカウンターに並んだ。前に炊飯器の箱を6個も積んだ人がいた。台湾からの留学生の女性で、国に帰るところだった。大変そうだったので、チェックインを手伝った。

機内に入ると一人ぼっちの不安を味わった。リュックを床に置いていると大柄のアメリカ人スチワ―デスが飛んできて、早口の英語でまくし立てた。実践で英語を使ったのはこの時が初めてだった。全く歯が立たず、がっかりした。

案の定飛行機は遅れた。アメリカから来て成田経由で台北へ行くのだ。無理もない。中正国際空港に着いた時既に時計は12時を回っていた。入国審査は簡単だった。全て日本語だったから。外に出て、市内行きのバスを探した。見当たらない。どうしよう?周りの人にどんどん追い越される。途方にくれた。市内に行く方法は陳さんから聞いていたがバスのみだったのだ。初めての海外で何の方策も浮かばない。

その時後ろから天の声がした。『どうしたの?』成田でチェックインを手伝った女性が、相変わらず6個の炊飯器を持って立っていた。彼女は事情をすぐに飲み込み言った。『友達が迎えに来ているから、乗れば?』生まれてからこれほど嬉しかったことは少ない。因みに炊飯器の謎については、彼女の説明によれば、台湾では良い電化製品が無く、日本製が非常に好まれる。親戚も多いので、不公平にならないようにするには6個ぐらい買う必要があるとの事だった。

4.台北
彼女の友達はカップルで、車は市内に向けて走り出した。予約したホテルも知っているという。助かった。少し余裕が出ると彼らの話している言葉が気になった。台湾語だった。3年のとき、3回だけ講義に出て辞めていた。わかるわけがなかった。道も酷く暗かった。戒厳令下の夜中だ。

ホテルに着いた。降りるとき彼女が言った。『明日10時にロビーで待っているから。』それはあまりにも台北を知らない旅人を気遣って、案内してくれるというのだ。日本ではすでに考えられない申し出だった。初めて会った女性が言う言葉ではなかった。でも説得力のある言葉だった。

いよいよチェックインだ。これまで何回は繰り返した北京語を思い出した。『部屋を予約しています。』通じなかったらどうしよう、予約がなかったら?又不安がよぎる。フロントの前に立つと『Sさんですね?お疲れ様。』???日本語?部屋に案内してくれたボーイも全て日本語。おまけに部屋で彼が捻ったテレビからは何と〈大岡越前〉をやっている。『これビデオ、サービス。』??何を言っているか分からない。

後で分かったことだが、当時台湾では何と公式の場では日本語は禁止だったのだ。大岡越前のビデオはななんと、裏ビデオということになる。これがどんなに馬鹿げたことか、は後でよく分かる。台湾は日本語天国なのだから。因みに日本語が公式に台湾のメディアで解禁されたのは、私が後に台湾に駐在した1990年であった。台湾の映画祭に出席した女優の市原悦子のスピーチがそのままお茶の間に流れたのが初めだったと記憶している。

2日目、朝ホテルの周りを散歩した。ホテルはキリン大飯店といい、台北駅の近くにあった。今もあるはずである。下町の名所龍山寺にも近く,歩いていった。このあたりはかなりごみごみしており、朝飯を売る屋台がたくさんあった。豆乳、饅頭などに混じり、臭い豆腐があった。その名も【臭豆腐】。周囲は全てこの臭いに占拠される。

龍山寺は古いお寺であった。多くの老人が朝からやって来て、実に熱心にお祈りしている。祭壇の前に跪き、立ち上がり、跪きと繰り返している。豚の丸焼きなどが供えらている。日本の仏教も昔はそうだったのかな?などと思う。町は極めて日本的で日本にいるのと変わらない。人の顔も変わらない。

ロビーで待っていると彼女は本当にやってきた。半分は来ないと思っていたので、意外だった。ホテルを出て少し歩くとすぐに喫茶店に入った。これも意外な行動だ。『妹が来るの。彼女は夜間高校の英語の先生だから、何とか言葉は通じるわ。』??日本語なのに言っている意味がさっぱりわからない。

聞くとこれから彼女は、昨夜の友達と台中に遊びに行くという。でも約束したから、妹に頼んだという。驚いた。彼女がここにいるだけでも十分驚きなのに、妹に案内させて自分は遊びに行くという。何という国だ。人を疑うということがないのだろうか?

躊躇っていると妹さんが来てしまった。と同時に彼女は行ってしまった。本当に。何を食べたか覚えていないが、昼飯を食べた。妹さんが払った。え?故宮に行った。私が唯一行きたいところだったからだ。入場料ぐらいは自分で払ったが、そこまでのバス代も彼女が払った。え、え?私は彼女にとって何なんだ?お姉ちゃんの友達?お姉ちゃんはどう説明したんだ?

故宮の財宝は素晴らしかったに違いないが、あまり覚えていない。彼女は一生懸命英語で説明してくれた。でも歴史や美術を英語で習った覚えはない。わからない。覚えているは、日本人観光客を引き連れたガイドがくだらない冗談を連発していたことぐらいだ。

故宮を出たら、日が傾いていた。彼女は済まなそうに『学校へ行く』と言った。ただ、私の今日泊まるところを考えていた。彼女の案内で円山大飯店近くのユースホステルに行った。全て彼女が仕切った。1泊NT$250。彼女はもう一度済まなそうに『さよなら』と日本語で言った。何故か素直に感動した。私は捻くれているのかあまり感動するなどということ無い学生だったので自分でも驚いた。

夕飯は近くの自助餐に行った。これは入り口に何種類かのおかずとご飯、スープがあり、好きなものを取る仕組み。所謂セルフサービスだ。但しおかずを盛るのはおばさん。量の加減はおばさん次第というわけ。兎に角一人で食う人間にとってこれは便利。味もおいしい。

5.台中
3日目の朝台北駅に行った。当時の台北駅は戦前日本の植民地時代に建てられたもので、ミニ東京駅だった。(1990年代に建て替えられ、現在その面影は見られない)切符売り場で台中行きの切符を買う。一番速い自強号だ。揚々列車に乗り込むとなかなか快適そうなシートに座ったが、すぐに後から来た台湾人に追い出される。どうやら全席指定だと分かる。

時刻表は買ったものの、台中で降りられるか心配だったので、隣のサラリーマン風の人に尋ねる。北京語で次の駅だと言われる。この旅で初めて北京語で会話が成立した気分だ。それほど多くの人と日本語をしゃべっている。列車の窓から見る景色は日本の田舎を走っている感じ。田んぼあり、林あり、時折川もあった。日本の原風景?

2時間ほどで台中に到着。取り敢えず今日の宿を探す。宿探しは初めてだ。駅前の路地を入ると左程高くなさそうな大旅社があったので、入る。日本にいる間に準備した『部屋はあるか?』という北京語を試みる。相手のオヤジは怪訝そうな顔。もう一度聞くと、『金はあるのか?』と聞いてくる。そんな問答を5分ぐらいしていたが、埒が明きそうもなかったので、思わず日本語で『何だ、通じないのか?』といったところ、『何だ日本人か。』とオヤジが流暢な日本語で返す。どうやらオヤジは私を頭のおかしい台湾人と思ったらしい。尚この時のことを後に上司に話したところ、私の結婚式のスピーチで紹介された。彼は学生時代に日本人と思われない程度の北京語は出来たと・・?本当は容姿が日本人に見えなかっただけだが??

オヤジにこの旅社で一番よい部屋に通される。NT$400。日本人はいい客だと思ったのだろう。きれいとは言えないが、バス・トイレ・エアコン付。彼が言うところのスイートルームだ。

午後オヤジが来た。もう一人日本人がチェックインしたことを告げに来たのだ。名前は思い出せないが、その学生、日大芸術学部を休学し2年間世界放浪の旅をしている青年との出会いで、私の旅は変わった。彼は私の部屋に入るなり『何でこんな良い部屋に泊まっているんだ?学生には贅沢だ。旅の目的は何だ?』、とまくし立てた。正直驚いた。とてもよい部屋と言えるものではなかったし、何しろ旅の目的が・・・?

彼はヨーロッパからアジアを回り、台湾入りしたと言った。ホテルは一番安い部屋を値切り倒して探すとか、台湾は洋酒が高いから免税店で買って国内で高く売って旅費にするとか、旅の技術というものをたくさん教わったが、何より『旅はそれ自体が目的だ』という事を教わったことが大きかった。これで私もパスポートの呪縛から逃れて、旅の目的がはっきりしたからだ。

夜は彼と台中の屋台で食べた。日本のカツどんは台湾では排骨飯という。これを教わり食べた。その後困ったときは排骨飯を食べて過ごした。骨付き豚肉を揚げたものを丼飯の上に乗せるもので、日本ではその後パイコーハンといって売っていた。

4日目は一人で朝から台中の町をぶらついた。公園では老人たちが集まっていた。マイクを持った人の話は日本語だった。何と朝からオープンスペースでカラオケをやっていた。しかも日本語で。歌はフランク永井、美空ひばりなど日本の歌ばかり。司会者も玉置博のような調子でやっている。じっと見ているとその玉置博が『日本人だろう。歌ってきなさい。』と声を掛けてきた。これにはびっくり。周りの人も注目している。何とか断ろうとしていると『昼飯おごるよ。』何て声もかかる。『バイクの後ろに乗せてあげるよ。台中案内してあげる。』とおばあさんに言われてしまう。話には聞いていたものの、台湾の人の中では日本語が、そして日本の文化が生きている。既にこの時点で日本人が忘れてしまったものを。日本人が台湾にやってくる理由の1つがこのホッとする感覚を味わうためではないだろうか?

何とか歌を勘弁してもらい、一人宝覚寺に行く。高さ30mもある弥勒菩薩像がある。なかなかユニークな顔をした大仏だ。ゆっくりしたかったが、雨が降ってきた。駅まで距離があるので、歩くのを諦めタクシーに乗る。『駅まで』と何度か言うが、『駅はそこいらじゅうにある』という。ここでは駅はバス停の意味もあったのだ。

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