《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》四川、ラサ、武漢—天国に一番近い国と大河を旅する

〈9回目の旅−1987年4月チベット、三峡下り〉
—天国に一番近い国と大河を旅する

1.高級アル中
あまり書きたくないのだが、私は留学の途中から、ブランデーを飲むようになった。きっかけはこうだ。ある日和平飯店の売店に行くと、洋酒が目に留まった。誰かが、『あれは日本で買えば3万円はする。ここでは8千円だ。安い。』と言ったの聞いて、ヘネシーXOなるブランデーを1本買ってみた。夜数人で飲んでみるとこれが美味い。何しろここには氷が無い、と言うより水が無い。普通の水は硬水で飲めないし、ミネラルウオーターなど簡単に手に入らない。ストレートで飲んで美味しい飲み物がベストなのだ。

次に町に行った時も違うブランドを買った。その後1週間に1本ぐらいのペースで買い続けた。最初は数人で飲んでいたのが、その内一人で夜中に飲むようになる。3ヶ月で10本以上飲んでしまった。その頃には朝起きると頭がジーンと痛くなり、無意識にコップを掴むようになっていた。これはいけないと思い、隣で中医を勉強している人に、この症状は何かと聞くと、ずばり『アル中の初期症状だ』と言う。どうすれば治るかと聞くと『チベットに修行に行け。酒の飲めない同行者を1名選べ。』とのアドバイス。

勿論冗談だと思ったが、いっその事この際チベットに行ってみようかとの思いを抱いた。早々お酒の飲めない留学生Kさんに声を掛けた。二つ返事で決まった。但しKさんは好奇心は旺盛だが、体が弱い。因みに高いブランデーばかり飲んでいたので、その後暫く安い酒が飲めなくなった。これを称して『高級アルコール中毒』と呼ぶ??

2.成都
上海より空路成都へ行く。このルートは旧正月の折に逆ルートで帰っているので、既に経験済み。空港から何とか車を捕まえて、前回泊まった錦江飯店に向かったが、前回は簡単にチェックインできたホテルが、今回は何と言おうが泊めてくれない。時刻は既に夕方となり、どうしようかと思っているとホテルの従業員から『近くに外国人も泊まるドミトリーがある。今日はそこへ行ってくれ。明日は朝来れば部屋があるだろう。』と言われる。そう言われてしまえば、諦めるしかない。と同時に未だに中国のドミトリーに泊まったことが無かったことを思い出し、良い経験と思い直す。

そのドミトリーは古ぼけた大きな建物だった。沢山の中国人が泊まっているのが見える。受付で外国人である旨を告げると、別棟に案内される。別棟は多少きれいである。部屋にはベットが6つ、既に先客が4人居た。確か部屋代(ベット代)は5元。外国人料金だろう。4人の先客には驚いた。何しろ2人が女性だったから。フランス人のカップル、ドイツ人の女性、シンガポール人の男性と分かる。皆中国中を貧乏旅行している若者だ。我々は暫しの間、どうすればよいか分からず呆然としていた。シンガポール人が親切に仕来りを教えてくれる。

夕飯に出るとき荷物をどうするか迷ったが、持って出るわけにもいかず貴重品だけ纏めた。シャワーを浴びるときも貴重品をビニールに入れて持って行く。こんな基本的なことが分からない。何しろ初めてだから。消灯は10時だったか?女性はトイレで着替えをしたようだ。皆一斉に寝た。何だか変な気分だった。朝上海を出て疲れているはずなのに、眠れない。そのうち隣のベッドがごそごそ動く。フランス語らしい囁きが聞こえる。キスの音が響く。全く驚きだ、始めてしまったのである。皆一緒に寝ているのに、彼らは恥かしくないのだろうか?こちらが恥かしくなる。漸く寝静まった頃、時計を見ると午前2時になっていた。そうだ、今日から夏時間だ。午前2時が自動的に午前3時になる。またまた変な気分だ。明日は朝早く起きて、ラサ行きのチケットを買わなければ。

2日目。朝8時に民航オフィスへ。何とか明日朝のチケットを手に入れた。その足で錦江飯店に行き、部屋も確保。ドミトリー生活は一日で終了。既に前回成都の観光も終わっており、今回どうやって過ごしたか記憶が無い。

3日目。朝7時のフライトでラサへ。搭乗した人々(中国人が多いが、外国人も居る)は、皆一様に緊張していた。やはり海抜3,700mへの旅には興奮を覚えるのか?スチワーデスが『ラサは酸素が薄くなりますので・・・』と言ったところ、いきなり数人の中国人が自席の酸素マスクを落とす。そう言えば、飛行機に初めて乗る人はライトでもスチワーデスコールでもボタンを押し捲るので、当時中国ではスチワーデスは呼んでも来ないものであった。ただこの時は流石に数人が走り出し、大声で客を罵りながら体勢を立て直していた。

2時間後、ラサ空港に到着。皆空気が薄いと聞いているので、恐々歩く。まるで月面着陸のアームストロング船長のよう。その内慣れてくると普通に歩けることが分かる。バックパッカーなどは青海省よりゴルムト経由でラサに入るが、これだと最高5,000m以上の高さを越えて来るので、ラサ到着時に問題は無いが、飛行機で来るとやはり空気の薄さは実感できる。いきなり富士山の頂上に下りたのだから、無理も無い。空港の周りには何も無い。空港を作る為の平地がここにあっただけと言った感じ。しかし風景は素晴らしい。空は本当に青い。山々もくっきり見える。生まれてこの方、こんな原色の景色を見たことは無い。

さて、これからどうするかと考えていると1台のバスが来た。『ホリデーイン』と書かれたホテルのバスのようだった。民航バスならラサ市内まで4時間半掛かると言われて、このバスに乗る。バスの旅も素晴らしい。兎に角全てが原色。『空が青い、水が青い』というのはこういう色なのか、と思わず唸ってしまう。途中河が流れており、筏のような乗り物で人々が渡っていたり、湖の湖面が太陽の光で、キラキラと輝いていたり、目を奪われることが多かった。

ラサ市内まで2時間ほど掛かった(約100km)。こんなに遠いとは思っていなかった。バスから降りるとそこはホリデーイン、簡単にチェックインできる。そこでカウンターの女性が皆を集めて一言、『スリに財布を取られても絶対に走らないように。』。これで状況が分かった。やはり空気が薄く、走れないことと治安はあまり良くないことを。

バスの運転手が料金を集めに来た。FEC20元。ところがカウンターの女性がそれを聞いて、凄い勢いでバス運転手を罵り、逃げ出した彼を追いかけ、金を握り締めて戻ってくる。どうやらホテルの規定では10元だったようで、我々は10元の返還を受ける。彼女は信頼の置ける人のようだ。

直ぐに昼食の時間となり、ホテルの食堂に行くと普通の中華を食わせる。想像では食事が不味いと思っていたので、大いに食べる。おまけにビールも頼んで、1本飲んでしまった。食後部屋に戻ろうと思い、2階まで階段で行こうとしたが、5段ほどで息が上がってしまう。ビールのせいもあり降りることも出来ず暫し休憩し、何とか1階に戻る。エレベーターが必須なのも当然だ。

部屋で休んでいるとそれまで元気だったKさんの様子がおかしい。気分が悪いと言ってトイレから出てこない。どうやら高山病に罹った様だ。フロントに電話すると薬を持って行くがベットに酸素マスクがあるので、使うようにと言われた。Kさんをベットに寝かせてマスクを口に押し当て、スイッチを入れるとその内バタバタしだした。何と空気が出ていなかった。危うく人殺しだ??結局薬も飲んだが、Kさんは回復しない。

4日目。一人で外に出てみる。ホテルの前から、大きな通りを真っ直ぐ行くと左手にポタラ宮が見える。チベットのシンボル。市内から約100m上がる為、最終日に上ることになっている。もう少し行くとチベット最大の寺院、チベット仏教の聖地、大昭寺(ジョカン)に着く。寺院前に広場があるが、遠くから見ると何だかごみの山が見える。近づいて見ると、何とそれは女性であった。朝から蹲っている。チベットは太陽に一番近い国、一生の中に数回しか風呂に入らないと聞く。体中ボロボロに見える。その近くでは、多くの男性が所謂『五体投地礼』を行っている。ただひたすら水泳の飛び込みのようなことをやっている。

その横を通ると、子供が何人もやってきて、『お金を頂戴』と言う。皆ボロボロの服を着ている。可哀想に思い、一人にあげようとしたが、あっという間に数十人の子供に囲まれる。逃げるのが精一杯、寺の中に駆け込む。しかし・・・?チベット仏教では、男子は聖地に来て祈るのが本懐。家族を帯同するが、収入も無い。結果妻は路上に蹲り、子供は物乞いをする。宗教とは一体なんだろう?我々の常識は家族のために働くことである。彼らにはそのような概念は無い。家族も十分に理解しているはずである。全てが違う世界。違う世界がここにある。

大昭寺の中は四角形で、伽藍には触れて回すだけで功徳が積めるという円形の物体が無数にある。歩きながらそれに触れて一周する。外で五体投地している人間を見た後だけに、そんなお手軽なものはある筈が無いと思いながらも、一周回る。

外に出ると今度はおばさんが土産物を売りに来る。欲しい物は無く、断ったがどうしてもと言う。20元と言われたが、必要ないので1元なら買うと言ったところ、それで良いと言う。1元でそのペンダントを貰う。本当に後悔した。彼らは現金が必要なのだ。例え損しようが現金なのだ。そのような人間に対しては、安易に値切ってはいけない。その後旅をする場合は相手を見て値切ることを強く誓った。

午後帰りのチケットを買いに行く。民航のオフィスには午後1時半よりと書いており、多くの旅行者が既に待っている。しかし待てど暮らせど担当者は来ない。漸く3時になり、当然のような顔をして、担当者が業務を開始する。数人が抗議の声を上げたが、それに対して『ここはチベットだ。午後1時半とは中央の北京時間であり、我々の時間は正確だ。』との答え。確かに朝は9時に明るくなり、夜は10時に暮れる場所だ。アメリカのように国内にも時差を設けるべきである。但し担当者の発言は時差の問題ではないと感じられる。やはりここにはチベット問題が存在する。今年は入境制限が無かったが、前年も翌年も制限されたと聞く。漢民族が町にかなり見られたことから、中央も常に意識している場所なのだ。

5日目。Kさんは漸く起き上がれるようになりリハビリを開始。私はホテルで自転車を借り、ノルブリンカへ。ゆっくり自転車を漕ぐ。ノルブリンカはダライラマの夏の避暑地。確かに涼しげな林に囲まれている。実に爽やかな居場所である。建物が中国風でなく、西洋風であるのが目を引く。高原ホテルのようでもある。

午後南にある川を見に行く。比較的大きな川で小船が向こう岸に渡っている。もう少し上流に行くと橋が架かっていた。橋と川と向こうの青空は素晴らしい写真ポイントである。思わず数枚写真を撮る。すると後ろから背中を押す物が在る。振り返ってビックリ。何と人が立っている。この制服は人民解放軍だ。更に驚くには私の背中を押しているものは、銃剣なのである。声もでなかった。何が起こったか分からない。時間が止まる。

『何をしているのか?』北京語で兵士が尋ねて来た。思いの他柔らかい口調である。咄嗟に何と答えてよいか分からない。『空を撮っているのではないのか?』何故そんなことを言うのだろうか?えっ、えっ・・・?分かった。橋は解放軍の軍事機密。勿論私がスパイとも思えないので、彼は空を撮っていると言わせたいのだ。

『空を撮っている。チベットの空は素晴らしい。』と答えると、彼は大きく頷き、『そうだろう。』と言うと向こうへ行ってしまった。私はこの乾燥したラサで背中に大いに汗を掻いてしまった。連行でもされればどんな嫌疑がかかるか分からない。兎に角自転車をゆっくり?全速で?漕いで逃げた。

6日目。当ても無く道を歩く。Kさんも同行する。明日のポタラ宮見学に備える。ラサには路線バスは無い。遠くへ行くにはジープをヒッチハイクすると言う。我々も少しやってみる。比較的簡単に乗せてくれる。必要な人がいれば助け合うのは普通のことのようだ。小さな寺に入ろうとすると、ミルクの強烈な臭いがしてくる。おばあさんは腰に缶を下げており、お参りする時はその中からヤギの乳を出し、仏像などに掛けている。私はこの臭いが苦手である。結局お寺には入れない。そう言えば町全体が乳臭い感じはある。

7日目。愈々メインイベント、ポタラ宮へ上る。チベット仏教の統治のシンボル。階段ではなく、緩やかなスロープになっている。黙々と上る。Kさんは這うようにして、上る。3,700mから100m上がるのがこれほど大変とは思わなかった。上るとそこには無数の部屋があるようだ。我々に開放されているのは極一部。部屋に入ると何処も荘厳な感じはする。しかし所々の壁に曼荼羅が描かれており、一部に紙を張り見えなくしている。何気なく触ると捲ることが出来る。何とそこには男女の秘め事が描かれており、現在の中国政府の方針には合わないため、隠しているようだ。何となくお茶目な感じ。チベット仏教は特に男女の問題を隠したりしておらず、寧ろオープンにしている。確か日本でも後醍醐天皇の頃、立川流という密教が流行ったが、怪しい感じの流派であった。

ポタラ宮は100m高いだけあって、見晴らしは良い。ここから眺めていると天国に来た気分になる。下界には高い建物も無く、全てを見渡せる。遠くまで何もない、更に遠くに山が見える。あの山まではどのくらい掛かるのだろうか?ダライラマ14世が亡命するまで歴代ダライラマによって使用されていたのも頷ける。

河口慧海という日本の僧侶が100年前に鎖国状態のチベットに潜入した記録、『チベット旅行記』を読むと、ポタラは観音の浄土(スリランカ島を指す)と言う意味だそうで、100年前も見る人を引き込み感動させる、光り輝く場所と記させている。因みにこの旅行記は実に面白い。100年前に日本人が中国人に成りすましてチベットに潜入。様々な体験を経て、日本に無事帰国するのである。今書いている旅行記など恥ずかしくなってしまうほど、凄い内容の本である。機会があれば触りだけでも読むことをお薦めする。(流石に私は彼の足跡を辿る旅だけは出来ないだろうと思っている。)

8日目。本日成都へ戻る。真っ暗な中を先日来た道を戻る。空港に着くまで明るくならない。漸く明るくなった頃、出発。困ったことに私とKさんの間(3人掛けの真ん中)にチベットのおばさんが座る。これは地獄であった。決しておばさんが悪いわけではない。しかし乳臭いのだ。満席で席を替われず2時間耐え続けた。

成都到着後、また錦江飯店へ。すんなりチェックインして、明日の重慶行き軟座の切符も手配できる。体力の回復したKさんと相談し、重慶より三峡下りをすることにしたのだ。その後Kさんの為に以前も行った陳麻婆豆腐店へ。今回は全て上手く行き、美味しく食べる。

しかし翌日(9日目)成都駅より重慶行きに乗ったところ、Kさんが腹痛を訴える。どうやら昨日の麻婆豆腐が利いた様で、かなり腹に負担が来たようだ。ちょっとトイレに行くといったきり、何時までも帰ってこない。結局この汽車の旅は11時間ぐらいあったと思うが、その半分は1人で窓から外を眺めていた気がする。

その夜重慶着。取り敢えずバスに乗り市内中心の重慶飯店へ。重慶はアップダウンが多い。バスはかなり重い足取りで坂を上がる。自転車は少ない。暗い重慶の街をのっそり動くバス、それが第一印象。重慶飯店には簡単にチェックイン。Kさんはかなり疲れた様子でへたり込む。とても三峡下りなど出来る状態ではない。

10日目。Kさんの状態も省みず、朝から三峡下りのチケットを買いに行く。流石に混んでいて、1等船室(2人部屋)は何と2日後しか取れない。しかしKさんの為には良い休養だ。その後市内を見て回ったはずだが、全く記憶が無い。きっと印象に残る場所が無かったのだろう。

午後ホテルの中にある大手商社の事務所を訪ねる。旧正月に成都で訪ねた際、K先輩は既に重慶に異動になったと聞いていたので。商社の駐在員とはどんなものか非常に興味があった。何しろ2年の間に北京、成都、重慶と3場所目なのだから驚く。

事務所のある部屋の前に行くと確かに看板はあった。ホテルの2部屋を改造した事務所。しかし中からはけたたましい北京語の話し声が聞こえる。中国人スタッフが客と口論していると思い、暫し待つが止まない。終にノックして部屋に入る。正面にK先輩はいた。彼は台湾育ち、言葉の問題は無く激しい口論の主役であった。この激しいやり取りに押されて早々退散した。K先輩はかなり驚いた様子であったが、取り込み中で構う暇がなかったはずだ。その後10年以上経過した2000年に北京のゴルフ場で偶然再会したが、その時は広州駐在だった。一体どれだけの中国を経験したのだろう。私など足元にも及ばない。

夜はホテルで食べる。成都で体調を崩したKさんの為に出来るだけ辛くない中華を食べさせようとホテルのフロントで相談したところ、このホテルのレストランは大丈夫と言われる。そう言われても信用できないといった面持ちだった彼だが、本当にここの料理は辛くなかった。食事は毎日ここになってしまった。

11日目。体調の戻ったKさんは折角だから観光に行こうという。郊外に見るところはないかと調べると大足という地名がある。仏像が物凄い数安置されていると言う。成都に行きながら、樂山の大仏も見ていなかった私は行く気になる。大足までは168km、車をチャーターしたが、道が悪く、何と片道4時間以上掛かった。着いてみるとそこはかなりの田舎であったが、観光地でもあるらしく、人はそこそこいた。確か宝頂山と北山の石刻群を見たはずであるが、記憶が薄い。思い出すのはひらすら壁に仏像が並んでいる風景と、かなり大きな涅槃物があったことぐらい。しかし800年も前に良くもこんな所に仏像群を作ったものだと感心した。

又覚えている事はホテルの人が大足のレストランは衛生面に問題があるので、必ず箸を持っていくようにと言っていた事。当時レストランが不衛生なのは当たり前でそんな事を言う中国人は少なかったが、彼女はホテルの食堂から箸を二セット持って来てくれた。昼食のレストランは確かに奇麗とはいえなかったが、何故か中国人観光客も皆箸や食器をお湯で洗っていた。きっと何か謂れがあるのだろうが、とうとう分からなかった。

12日目。三峡下りに出発した。船着場に行くと既に大勢の人が来ており、ごった返していた。午後に出発となったが、乗船する人も多く、なかなか出発しなかった。後になって考えればその時の遅れなど大したことはないのだが。船は大きかった。1等から5等まであったのではないか?我々は贅沢にも1等船室で、2人部屋である。一般船室とも仕切られていて、まるで貴族のような待遇であった。一生に一回ぐらいはいいか?船室は広くはなかったが、快適。それに服務員のお姐さんがほぼ専属でついていた。船が動き出すと彼女はお茶を運び、夕飯の注文を取る。なかなかきびきびした愛らしい女性であった。

夕食は部屋に運ばれてきた。中国でこのようなサービスを受けることは先ず無い。素直に大感激。Kさんも元気にパクついている。夕食後船内を見学に。5等は船底といった感じで、行商の人が大きな荷物を置いて乗っている。きっと途中で降りるのだろう。2−3等には西洋人や日本人なども乗っており、4−6人部屋で外人向き。船内は暗い。デッキに出てみると外はもっと暗い。漆黒の闇が目の前にあった。部屋でもすることが無く、早々に床に就く。

13日目。朝5時頃突然部屋のドアが叩かれ、外ではお姐さんが『三峡に着いた。』と叫び声をあげている。そう、三峡下りとは3つの峡を見るのがメインのである。最初の『瞿塘峡』に着いたのだ。瞿塘峡には有名な白帝城がある。三国時代に蜀の劉備が死んだ場所で、現在は劉備を祭る白帝廟が建つ。李白にも白帝城を詠んだ有名な詩がある。

実際に外に出てみると白帝城は既に通り過ぎており、断崖絶壁が見えるが何処が何処かは良く分からない。但し歴史的な名所に到着し、早く見ないとどんどん流れて行ってしまうという観念から皆異常に興奮している。Kさんも写真を取り捲る。僅か20-30分だったと思うが通り過ぎた後は虚脱感があった。部屋に帰り寝直す。9時頃又お姐さんが騒ぐ。2番目の『巫峡』に到着。巫山などの山並みが美しい。前回より三峡に来た感じがする。長さも大分長い。ゆったりと鑑賞した。

ふと気が付くとKさんが居ない。部屋に戻ると寝ている。声を掛けると熱があると言う。先程の瞿塘峡で写真を撮った際、かなり水飛沫を浴び、寒気がしたとのこと。あんなに元気だったのに。お姐さんも心配して見に来てくれる。お粥が運ばれてくる。三峡どころではなくなってきた。しかし船旅とは退屈なものである。似たような景色をずっと見ているしかない。ましてやKさんのように寝込んでしまった場合、兎に角一刻も早く陸地に上がりたいだろう。

昼過ぎに3番目の『西陵峡』に着いたが、その頃にはもう他の客も含め、あまり関心を示す者は居なかった。この西陵峡は中国四大美女の1人、王昭君と戦後時代の詩人屈原の故郷であるが、船の上からでは思い描くものもない。その後宜昌と言う所で珍しいものを見る。河が堰き止められており、河に段差がついている。上手い具合に船は段差を渡って行く。水が上から下へ。不思議である。その夜はKさんの疲れが心配であったが、明日の朝には武漢に上陸できるので、問題は無いと思っていた。

14日目。朝武漢の近くに来ているのが分かる。船のスピードが落ちている。さあ、もう直ぐ上陸だ、と思っていたが、昼になっても到着しない。昼飯が出るがもう食べる気がしない。Kさんは寝ているのもウンザリといった表情である。結局上陸できたのは夕方。ほぼ1日武漢近くで待たされていた。フェリーターミナルが塞がっていたとの理由であったが、本当のことは分からない。上陸すると体が揺れている感じで歩くのも上手くいかない。ましてやKさんは体を支えてあげないと歩けない感じ。兎に角手近なホテルを探す。旧大和ホテルにチェックインできる。ホッとした。

このホテル、非常にレトロな雰囲気があり、天井が高い。実はこの日武漢は相当の暑さで4月だと言うのに日中は30度を越えていた。この気温も我々の体力を奪う原因になっていたがその高い天井に大きな扇風機がゆっくり回っているのが印象的であった。部屋も広めで窓も洒落ていた。勿論相当古くなっていたが。

武漢三鎮、武漢は3つの街から成っている。漢口、武昌、漢陽。我々は今漢陽に居る。夕飯を食べる為にレストランを探している。長江の辺を歩く。爽やかな風が吹いているがそれでも汗が噴出す。所々にヨーロッパ風の建物がある。

夜部屋に戻ったが、暑い。また船から上がったばかりで未だ揺れている感じが残り、寝付かれない。それでも何とか眠っていたが、朝5時には辺りが明るくなる。ふとトイレに起きてビックリ。窓も部屋のドアも全て開いている。おまけにKさんが居ない。泥棒が入ったのか?天井の扇風機だけがゆっくり回っている。慌てて部屋の外へ出ると、何と廊下にKさんがへたり込んでいる。愈々事件が起こったのかと焦ったが、実はKさんが暑さのあまりどうしても寝付かれず、あらゆる手段を取った結果だったのである。と言うことは私は結構暢気に寝ていたことになる。

15日目。Kさんの衰弱は激しい。これは上海に戻ったほうが良いと言う判断になり、朝民航オフィスへ行く。しかし案の定チケットは無いと言う。どうしても帰る必要があったので、思わず『この人の様子を見ろ。外国人を見捨てると問題だぞ。』というとあっさり明日の上海行きを2枚出してくれた。

チケットを手に入れると安心したのかKさんは急に元気になった。折角武漢に来たのだから観光しようと言う。午後車をチャーターして、黄鶴楼に行く。やはり武漢と言えば黄鶴楼であろう。三国時代に建てられ、南昌の騰王閣、岳陽の岳陽楼と並ぶ中国3大名楼の1つ。李白の有名な『孟浩然を送る』の詩が印象的。現在の楼は1981年に再建されたもので新しい感じであった。階段がかなり多かったのを覚えている。

武昌地区では東湖に行った。大きな湖である。博物館があったと思う。武漢と言えばもう1つ、辛亥革命であろう。1911年10月10日の武昌蜂起から始まった。聖地とも言える。但し日本を含めた列強の侵略を受けた都市と言う面もある。交通の要所であった武漢は歴史的には様々なことが起こった場所である。

尚武漢と言えば中国3大竈の1つでもある。昨日も4月だと言うのに30度を越えており、上海などからは考えられない暑さである。何故こんなに暑いのか?残りの2つは重慶と南京であり、何れも揚子江沿いの場所である。内陸部である以外にも何か理由がありそうである。そう言えばその後重慶を訪れた際、工場は40度を越えると自動的に休業となると聞いたことがある。その為、平日はどんなに暑くても39度以下でしか気温が発表されない。本当はもっと暑いらしい。

16日目。半月続いた旅が終わろうとしている。今回は結構色々とあった。飛行機は12時発。当時国内線は一般的に1-2時間は遅れる。空港も近いと言うことで、30分前に到着するように車に乗る。

空港に到着するとやはりカウンターに上海行きの案内が無い。また遅れているな、と思ったが、念の為係員を探して上海行きが何時に出そうか確認した。係りの女性は我々のチケットをチラッと見て、ビクッとしたように『急げ、走れ。』と叫ぶ。何が起こったのか?

滑走路の近くを見ると飛行機が一台停まっていた。『あれだ。』後ろから声が掛かる。荷物を持ってKさんと走り出す。当時地方空港で搭乗する時は普通歩いて飛行機の所へ行く。我々は走る。近づくとスチワーデスが扉を手で閉めようとしている。大声で待て、と叫ぶ。何とか間に合った。我々が乗り込むとそのまま飛行機は滑走路に向かい、即座に飛び立ってしまった。まるで映画のようだった。

飛び立ってから急に不安になる。本当にこれは上海行きだろうか?スチワーデスに確認すると間違いないという。何故定刻前に飛び立ったのか?スチワーデスの話だと政府要人が来ることになり急に空港を空けなければならなくなり、出発したのだと言う。ここでも中国の恐ろしさを感じた。国のトップクラスが来ること自体が重要機密なのである。もしかすれば鄧小平が来たのかもしれないが?

横でKさんが又グッタリしていた。チベットと三峡下りを一度にこなすのはかなりしんどいものであったが、本当に貴重な体験の連続であった。上海が妙に懐かしい旅となった。

 

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