《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》バンコック、香港ー中国との違いを知る

4.バンコック

5日目。バンコックに向かう。何せ行く予定に無かった場所に急に行くのだから、戸惑ってしまう。飛行時間は僅か1時間。シンガポール航空を堪能する間も無く、到着。チャンギ空港と違って、バンコックの空港はごちゃごちゃしていた。かなり蒸し暑い空港と言う印象がある。何とかホテルカウンターに辿り着き、車を手配して貰う。でもなかなか来ない。どうも余り合理的ではない国のようだ。

漸く乗り込むと数人の客の相乗り。道に出るとシンガポールとは大違い。シンガポールは道もしっかり舗装され、綺麗な風景だが、バンコックは寧ろ中国に近い感じがした。田園、バラック小屋、のそのそ牛が歩く。1時間近くして市内に入ったが、各ホテルを回る為、何時になっても着かない。その内運転手が市内ツアーのパンフレットを出して、しきりに勧める。どうやらツアーに入らない旅行客と見て、商売を始めた様子。こういう手合いに係わらないようにするのが鉄則と思い、断り続けるが、その分ホテルに到着しない。最終的に2時間後に漸く開放された。暑いし疲れた。

その夜、ホテルのツアーカウンターで明日の予約をする。可愛らしい女性が丁寧に応対する。さっきとは大違いだ。気分が良くなり、勧められるままに予約したところ、4つのツアーを1日でこなすことになってしまった。

6日目。朝の水上マーケットツアーに参加する為、5時半にロビーへ。誰もいない。どうしようと思っていると昨夜の女性がにこやかにやって来る。車は普通の乗用車。説明では、4つ回るには団体と一緒では無理、と言うことらしい。兎に角可愛いガイドさんといっしょなので即座にOK。

水上マーケットはバンコックの中心を流れるチャオプラヤ川を遡り、支流に入ったところに市場があり、また川に無数の小船が出て、船の上で物を買ったりするところ。バナナを買ったり、帽子を買ったり。中国並みの安さだったが、きっとこの国の水準からすれば高いものを買ったに違いない。朝の気持ちの良い風に吹かれて、情緒はたっぷり。観光市場なのだ。でも、川は綺麗とは言えない。

その後休む間も無く、王宮、ワット・プラケオ(エメラルド寺院)、ワット・ポー(涅槃寺)を訪れる。ワット・プラケオは王宮の一角にあり、高く洒落た建物だ。中には大きくはないが翡翠で出来た本尊がある。タイの人々も信仰心が厚く、熱心にお祈りしている。その脇で観光客、特に日本人が大声で話をしているのは恥かしい限りだ。私は時折日本人でない振りをすることがある。中国ではこれが通じるが、タイでは一発で見抜かれる。

ワット・ポーはその名の通り、涅槃仏がある。かなり大きい。奈良の大仏が横になったようなものだ。タイ語は難しくて全く読めないが、寺では時折漢字が目に入る。寺は全て靴を脱いで上がる。中国の寺には無い習慣であり、新鮮な気持ちになる。

実は本当に行って見たい寺は、ワット・アルン(暁の寺)であった。残念ながら、コースに入っていないと言う。ワット・ポーの対岸にあるので、川沿いに眺めたが、よく見えなかった。『暁の寺』は中学時代に読んだ三島由紀夫の名作。最後の作品4部作の3番目だ。三島は輪廻転生を信じていたようで、4部作でも主人公が転生していき、3人目がタイの王室の人間と言う設定だったと思う。三島はどんな気持ちで、暁の寺を書いたのか、バンコックの暑さの中で微かに思った。

昼はチャオプラヤ川沿いの水上レストランで食事。多分日本人向けに辛く無いものを注文してくれたのだろう。美味しく食べた。川を眺めながらの食事は暑さを忘れさせた。食事を終えて外へ出ると、時間が止まったように暑い。運転手が車のバンパーを叩く。何をしているかと見ていると、下からのそのそと猫が出てくる。暑さのため日除けをしていたのだ。長閑な光景。

午後はローズガーデン、スネークファームなどを見学。ローズガーデンでタイ舞踊、タイ式キックボクシング、闘鶏を見学。確か生きたトラと記念写真を撮った。観光用と分かっていても怖かったが、トラのほうは平然としている。途中で象のサッカーを見せるところへも行った。象が人々の中に生きている感じはあったが、なんだか可哀想にも思えた。

ローズガーデンはバンコックから30kmは離れているので、往復すれば半日が過ぎる。帰りはぐっすり寝込んだ。夜ホテルの近くのビアガーデンでビールを飲んだ。夜風が気持ちよかった。

バンコックには子供の物乞いが多かった。皆路面に座り込んでいる。当時中国は『乞食と娼婦はいない』と言われる社会主義国。実際には多少はいたが、何故タイはこんなに慈悲深い(深そうな)国家なのに、このように貧しいのか?我々は彼らに何か出来ることがあるのか?中国は社会主義と何度もいっているが、本当の社会主義国家は日本ではないのか?その頃そう思い始めていた。平等、の名の下に個人の富は制限される。中国は貧しい社会主義、日本は豊かな社会主義。(実際には中国は幹部、軍の汚職に相当蝕まれ、日本も政府、政治家、役人などに蝕まれていたのだが)

5.香港、マカオ
7日目。香港に移動。バンコックは初めからおまけであったので、あまり期待していなかったが、中華世界と違う場所を経験できたことは良かった。香港カイタック空港へ降りた。聞いてはいたが、凄まじい光景だった。ビルを掠めて飛行機が降りるなど想像できない。雲南のプロペラ機も怖かったが、こちらは文明社会だ。国際空港なのにタラップを降りる。汚水の臭いがする。とても文明的ではない。

同行しているYさんの同僚が香港におり、出迎えてくれた。空港内はやはりごちゃごちゃしていた。迎えが無ければバンコック同様迷ったことだろう。ここは中国なのだろうか?私はその後香港支店に行き、大学の先輩Tさんに会う。香港島に入ると高くて立派な建物が増えた。金ぴかのビルに東京銀行の文字も見える。これぞ香港だ。支店のあるビルもとても立派に見えた。階下にはブランドショップが並んでいた。何しろ上海から来たのだ。何を見ても立派に見える。

その夜Tさん宅に泊まる。家族はまだ赴任していなかったので、遠慮なく泊まる。Tさん宅はブレーマーヒル、まさか4年後に私がここに住むことになるとは思ってもいなかった。

8日目。朝起きると香港とは思えない鳥のさえずり。ここブレーマーヒルは香港島の高台にあり、広い敷地内に大きな公園もあり、後ろは山。静かな場所であった。Yさんと合流し、マカオへ。同僚の人がマカオ1泊旅行をアレンジしてくれていた。香港島からフェリーに乗り、1時間。フェリーはあまり揺れることも無く、到着。呆気なく英国領香港からポルトガル領マカオへ。日本では考えら得ない移動だ。

降りるとタクシーが待っているが、言葉が通じない。マカオは陸続きで広東省と繋がっているので、北京語は可能だろうし、観光地だから英語でもいけそう、と思っていたが、意外にもここは香港の出先に過ぎず、広東語圏。ショック。ポルトガル人も殆ど見当たらない。おまけにタクシー乗り場の物乞い(タクシーのドアを引くだけ)にチップをせがまれ、パタカ(マカオの通貨)の小銭を出すと、指で弾いて返して寄越す。通貨まで香港ドルなのか。両替など全く不要。寧ろパタカを持つと自動的に価値が下がってしまう。

運転手と何とか交渉し、3時間の観光を行う。セドナ広場、モンテの壁、砲台、教会などを見て回る。何処も古い建物で、歴史的な意味はあると思うが、観光として如何なものか?と言った感じ。

ホテルは第一ホテルのスイートルーム。なかなか良いホテルを格安で押さえてくれていた。感激。夜はポルトガル料理(マカオ料理)を食べに行ったが、さして美味しいとは思われない。やはりポルトガルは貧しい国なのか?

食後リスボアホテルのカジノへ。観光名所なので見学に行ったが、その活気には驚いた。平日だと言うのに多くの人がカジノにいた。香港から来たと思われる広東語を話す人も多い。彼らは平常何をしている人なのだろう?

取り敢えず何をしてよいか分からず、スロットマシンへ。これは香港ドルのコインをそのまま使えるので挑戦。何回目かでかなりのコインが出てきたが、何が当たったのかも分からない。夢中で全部使ってしまった。内側の会場ではブラックジャック、ルーレットなどが行われていたが、何よりも見慣れない『大小』と言う遊びが大人気。ようはサイコロを3つ転がして、10以下なら小、11以上なら大。簡単な遊びだが、これがなかなか奥が深く、連続して勝てない。

最初は恐る恐るやっていたが、その内面倒になり、千香港ドル札を大に賭けたら、大当たり。2千ドルになった(お姐さんが100ドルをチップとして取り上げて返してきた。)ので、もう一度2千ドルを賭けたら、また大当たり。4千ドルになり、そこでやめた。当時の4千香港ドルは中国で半年は暮らせる金額。気が付いて時計を見ると既に午前2時。実にカジノとは恐ろしいところ、時間を忘れさせる。ホテルの外に出るとこんな時間に人がウロウロしている。たいした金額を稼いだわけではないが、何だか襲われるような気分になり、直ぐ近くの第一ホテルまでタクシーで帰った。

9日目。香港に戻る。香港ではピーク、レパルスベイなどに行ったが、印象に残っていない。印象に残っているのは、『大丸』だけだ。兎に角大丸には感激。何でもある。本もあれば日本の食料品もあり、居るだけで楽しい。今で言えば、大陸に住んでいる日本人がユニーに行って感激するようなもの。因みに後に我が家も北京より旅行で来てユニーで棒立ちになったのはつい最近のこと。

でも当時日本関係のものが何も無い上海から出てきた人間にとっての大丸は正に衝撃。確か毎日3時間は大丸の中を歩き回っていたような気がする。

10日目。支店に挨拶に行く。私は社会人生活の経験が1年しかなく、日本のことはよく分からないが、この支店は広くて恵まれているなと思った。また香港人スタッフの中にはTシャツ、ジーンズといったラフな服装の人も居て、自由な雰囲気があった。

支店の中国担当のAさんは上海華東師範大学の留学経験があり、重要なアドバイスをしてくれた。『中国は広い。北京語といえども訛りも強くて、地域によって大いに差がある。更に行ったことがあるかないかは、業務上決定的な差となる。是非とも上海に篭らず、中国各地を旅行することを勧める。』というもの。この話は後に大変参考になり、また実際大いに役に立ったのだが、その時は『上海を抜け出す絶好の口実』として、喜んで聞き入れたものだ。

11日目。愈々上海に帰る日が来た。空港に向かう前に大丸でどら焼きを30個買う。皆へのお土産だ。荷物は上海を出てきたときの数倍になっている。大きなバックが2つ。小さなバックが2つ。どら焼きを入れた袋を何とか持つ。

空港で超過料金を取られた記憶は無い。空港での唯一の記憶は、バスで飛行機に向かう場面。当時カイタック空港はタラップを使って搭乗するパターンが一般的で、タラップまではバス。このバスに乗った瞬間、なんとも言えぬ気分になる。『刑務所に護送される囚人はこんな気分なのかなあ』と思う。私の資本主義生活は終わる。

上海空港に着くとこの気分は更に悪くなり、唯の抜け殻となる。我々は何と資本主義、物質主義に毒されていたのだろう、などとは決して思わない。ただただ『あの素晴らしい日々をもう一度』と願うのみであった。

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