《昔の東南アジアリゾート紀行》‐2004年ハノイ

《昔の東南アジアリゾート紀行》

15.2004年1月 ハノイ
(1)何故ハノイ、そしてハノイ
2003年も12月になった頃、突然(いつもの事?)旧正月の計画が立てたくなった。よく考えてみると長男は4月から中三、流石に家族旅行は難しくなる。そうだ、当面最後の家族旅行をしようと旅行会社に電話する。
『今取れる旅行は何処ですか?』『取り敢えずプーケットもバリも満員です。』『じゃあ今フライトの取れる近場は?』『ホーチミンはダメですが、ハノイはOKです。』『じゃあハノイで。』

何時ものようにいい加減である。しかし今回は家族の反応も何故か良く、早々に決定する。しかし既にベトナム旅行に行った人からビザがいると言われて、愕然。旅行会社はビザの取得は簡単だと言っていたものの聞けば一人HK$400もかかると言う。それは高い、おまけに旧正月料金まで付加される。一瞬止めようかなと思ったが、仕事の忙しさにかまけて忘れていた。12月半ばになり、正月前のお年玉が降ってきた。何と小泉首相とベトナムの首相が会談して、日本人の短期旅行者に対してビザが突然免除(15日以内)となったのだ。これで俄然行く気になったのだから、私も現金な人間である。

ところが1月半ばに突然(突然が多すぎる??)、仕事の関係でハノイ行きが怪しくなる。一時はキャンセルかと思い、旅行会社に電話するとキャンセル料は70%程度になると言う。家族4人では結構厳しい。家族3人で行かせるにはリスクが大きい。3-4日悩んでいると仕事に何とか目処がついた。何と出発2日前である。嬉しくて旅行会社に電話しようとしたが、突然(???)腹痛と微熱に襲われる。『這ってでも行きます。』と旅行会社には代返(??)を頼んで家で半日静養。因みにこの手の病(ウイルス性腸炎)は年に1-2度掛かるのであるが、私はアグネス・チャンのお姉さんで医者のヘレン・チャンから薬を貰うことにしている。基本的に彼女の薬を飲めば一発で回復する。ヘレンは笑うとアグネスと同じ顔になる(余談)。12月から二転三転、紆余曲折の末、1月22日の旧正月元日に目出度くハノイに出発した。

(2)ハノイへ
旧正月前日は我が家の眠りが浅くなる。隣のビクトリアパークで花市が開かれており、夜通し賑わうのである。その音は唸りを上げてやって来る。結構驚く。下を見ると人で溢れかえっている。翌朝6時前に目覚めてビックリ。何時もはこの時間には店仕舞いしているはずの露天商が未だに騒がしく、売り声を上げている。どうやら今年は香港訪問キャンペーンか何かで、特別に開催しているらしい。そうなると我々は出発できるのだろうか?通行規制があるのでは?タクシーは拾えるの?兎に角全員を叩き起こして急いで下に降りる。我がフラットの入り口は人々で塞がれていた。タクシーが入れない為、路上に出る。何とかタクシーに乗れる。ああ、よかった。しかし香港駅に到着するとキャセイのカウンターは長蛇の列。我々の飛行機はベトナムエアーだが、キャセイとの共同運航なのである。

何とかチェックインし、エクスプレスに乗り、空港のイミグレに行くとここも何時に無い混雑。流石旧正月。しかも急いで出てきたので、次男がコートを着ていないことに気付き空港でコートを買う羽目に。漸くゲートに到着した時には既に搭乗が始まっていた。ベトナムエアーに乗るのは勿論初めて。飛行機は見るからに小さい、A321。スチワーデスはアオザイと呼ばれる民族服を着ている。アオは上着、ザイは長いと言う意味だそうで、上着は膝下まで届く。下はズボンを履く。アオにスリットが入りセクシーとの話であったが、寒いせいかそうも見えない。機内は満員で欧米人がかなり乗っている。先日知り合ったオーストラリア人もハノイには2回行ったと言っていた。ハノイには西洋人を引き付ける魅力があるのだろうか?

(3)ノイバイ空港
2時間弱でハノイ着。あっと言う間である。何となく相当南にあるという印象のハノイだが、実は海南島の西側なのである。気候も香港や海南島とあまり変わらないと聞いている。

空港はノイバイ空港。かなり新しい空港で、意外な感じ。聞くところに寄れば以前の空港は、これが一国の首都空港か、と驚くほど粗末なものだったらしい。今は誇れる空港になったと言えるだろう。周りには何も無い、途上国の新空港に良くある光景である。遠くに山が見える。飛行機も数機停まっているが閑散とした印象。空港内も綺麗ではあるが人気が無い。トイレに入ると次男が『日本のトイレ』と叫ぶ。見るとINAXのマーク、しかも『自動』などの表示は日本語そのまま。これもODA?

さあ、イミグレ。90年代半ばに出張した人々は口々にベトナムのイミグレと税関の遅さを強調していた。今はどうなのだろうか?イミグレにはベトナム人向けの窓口は1つしかなかった。やはり海外に出る人は少ないらしい。心配していたのは、ビザのこと。12月半ばにビザ免除が発表されて、1月1日から実施されると言うのは、本当に可能なのだろうか?社会主義国でそんなに簡単に手続きが変えられるのか?まあ、ハノイは首都だから大丈夫な気もするが?心配は全く杞憂に終わる。帰りのチケットの提示を求められた程度で直ぐに入国できた。手続きも1人、1分以内。ベトナムはかなり進化しているようだ。更に税関は書類をチラッと見ただけ。ポンポン判子を押す。以前はカメラやCDプレーヤーなどの申告が煩かったようだが、中国並みに?改善されたようだ。

外に出ると旅行会社の人間が紙を掲げて待っている。キャセイのツアーが多いようで、皆が1人の手配師の男性に群がっている。といっても手際良く捌いてくれるので、混乱も無く車に乗れる。空港の外には外国企業の看板が立ち並ぶ。富士通、キャノン、三星。トヨタのハイエースでホテルに送ってもらう。何だか、ベトナムのイメージと違う。これはやはり空港が新しいせいであろうか?

(4)ホテルへ
空港から市内への道は片道2車線、立派な高速道路だ?両側には刈入れの済んだ畑、田んぼが続く。所々工業団地のような場所があり、工場が点在する。正月のせいか道は非常に空いており、バイクが点々と走っているのみ。バイクは2人の乗りが多い。子供達は何となく北京に似ていると言う。天気がどんよりとして肌寒いからかとも思ったが、空港周辺の建物が古めかしい平屋であったからかもしれない。そもそも社会主義国の首都というのは似たような雰囲気を持っているという人もいる。ようは『硬い』のである。子供はそういう事を敏感に感じ取る。車の窓からは何となく懐かしい風景が目に入る。昔子供の頃、栃木の田舎で刈入れの終わった田んぼで遊んだことを思い出す。凧揚げすればよく上がるだろうな、と思う。日本人が90年代ベトナムに進出する際、良く口にした風景が目の前にある。

キャノンの大きな工場が見えてきた。同社は最近ベトナムに進出したと新聞で読んだ。中国の工場も大連、蘇州、珠海と分散している。SARSなど起こらなくても、分散が大切であることが分かっているのだろう。平屋の工場に何人のベトナム人が働いているのだろうか?旧正月は何日休むのだろうか?人影も車も全く見られない。途中で横道を行く。畑の横にお墓が見える。又少し行くとお墓がある。どうやら集落毎にお墓があるようだ(或いは家族毎?)。きっと昔の日本もそうであったのだろう。家々も極めて質素。土の家から煙が棚引く。

(5)ホテル
ホテルは市内より少し離れたソフィテルプラザ。流石フランス系のソフィテルはハノイに2つのホテルを持つ。我々はタイ湖の辺りに宿泊。ホテルは非常に立派で周りを圧倒する建物である。エレベーターで上に上がると、途中よりタイ湖が見える。よい眺めである。

 

部屋はコネクティングルーム。湖側ではなく、反対の紅河ビューである。この紅河がまた大きい。丁度目の前に中州が見える。ゆっくりとした流れが見える。部屋は広くは無いが、快適。バスルームが広め。電話を掛けようとしたが、掛からない。不思議に思ってオペレーターに聞いてみると、何と未だ回線を開いていなかったとのこと。久しぶりでそんな言葉を聴いた。昔の中国のようだ。電話の相手はズンさん。前回ミャンマー旅行をアレンジして下さったS氏が今回も知り合いを紹介してくれていた。初めて彼にメールを送った時には驚いた。メールが届くかどうか心配していたら、30分後には完璧な日本語で返事が来たのだ。結局今回の旅行ではズンさんに色々とお願いしてしまった。

このホテルは横がタイ湖と言う湖で周りに高い建物が無く景色が抜群。また開閉式のプールがあり、冬でも泳ぎが楽しめる。私はプールがあるので、敢えてこのホテルを選んだのに他の家族はその意図を理解せず、水着を忘れてきて結局入ることは出来なかった。何しろベトナムで水着を売っているところは多くないだろうし、ましてや真冬の正月に売っているところなど探すことは出来ない。

(6)チキン
香港とは1時間の時差がある。時計を見るともう12時近い。ホテルで昼食をとることにする。何しろベトナムも旧正月(テト)で、周りの店は1軒も空いていないのである。ホテルには中華とウエスタンの2種類のレストランがあり、我々はベトナム麺が食べられるウエスタンに行く。ベトナム麺、フォーは私の大好物である。特にチキンフォーが良い。メニューを見るとある、ある。早々注文すると『ノー』という。最近ベトナム、香港、日本等で鳥インフルエンザが問題になっている。特にベトナムでは死者が出ていた。当然と言えば当然ながら、鳥は一切出なかった。フォーはビーフとなった。子供が『チキンチャーハン』と言った瞬間、周りの欧米人が何人もこちらを振り向く。この緊張感は何だ??何とかチキン無しのチャーハンを頼む。あとは春巻き。どれも十分美味しかった。勿論香港で食べるより安かったが、もし街中で食べればこれの何分の一かであろう。

因みに翌朝ビュッフェで好物の目玉焼きを注文するとコックが首を横に降る。そして前の紙を指す。『卵はウエルダンでしか、調理しません』とある。何という徹底振りであろうか?これはフランス系のホテルだからだろうか?欧米人は極端に細菌を嫌う。昨年のSARSの時も中国人を出入り禁止にしている。昔の植民地時代の感覚が残っており、東南アジアは菌が繁殖する場所と考えているようだ。しかしベトナム正月テトでも、チキンは一番のご馳走である。香港もそうであるから、南の方は皆同じなのだろう。それがチキンを食べられない、それは新しい年の困難さを予感させる。

(7)ホーチミン廟
午後市内観光に出る。ズンさんに案内して貰う。当初は日本語学科の学生アルバイトにガイドをして貰うことを考えていたが、テトで誰も引き受け手がなかったと言う。ズンさんはかなり探してくれたようだが、最後は仕方なく自分で案内を買って出てくれた。有難い。トヨタハイエースもチャーターしてくれた。半日US$25。

 

先ずはホテルから市内へ。2kmほど離れているとのことだが、もっと離れているように感じる。何故なら車のスピードが遅い。兎に角バイクが彼方此方走るのでスピードが出ない。ホーチミン廟に到着。ここは北京で言えば天安門広場のような所だ。廟の中にはホーチミンの遺体が保存され安置されているようだ。いつもは午前中参観可能との事。まるで北京の毛沢東記念堂と同じ仕組みだ。きっと特殊保存されたホーチミン氏を停まる事も許されず一瞬チラッと見るのだろう。緊張感は北京並みに違いない。ズンさんに寄れば、毛沢東よりは保存状態がよいというが。

周りには肌色の建物が幾つかある。フランス時代からの建物で現在も政府機関として使われている。廟の対面にあるのは国会議事堂である。共産党独裁国家で国会の役割は良く分からないが?ズンさんに現在の政府をどう思うかと聞いてみたが、特に答えは無かった。やはり今でもこの手の質問はご法度だろうか?考えて見れば私は本当にベトナムについて何の知識も持たずにやって来てしまった。それはある意味では私の旅の方法ではあるが。ホーチミンは国民に慕われているのかどうかも知らないし、経済がどうなっているかも分からない。

(8)軍事博物館
次に軍事博物館に行った。どうして行ったかと言うと他の博物館が全て休みだったから。しかし結果としては、ここに行ったのは正解であった。ベトナムの歴史をおぼろげながらも掴むことが出来た。博物館に入ると行き成り戦車や飛行機が置かれている。次男は喜んで写真に納まる。(この戦車は1975年のサイゴン陥落の際2番目に突撃したもの。次男は理解しただろうか、この重みを。)

中に入ると戦争の歴史である。ベトナムの歴史とは戦争の歴史なのである。938年の最初の王朝成立以降常に中国の脅威に晒されている。1077年に宋朝、1288年に元朝、1789年には清朝の侵略を撃退したことが述べられている。勿論明代に支配されたこともある。そして近代はフランスの統治、戦後の独立、ベトナム戦争、中越戦争と続く。その間この博物館の展示が正しいとすればベトナム人は一貫して抵抗してきたのである。これは凄い忍耐力ではないか?

ズンさんは1959年生まれ。ベトナム戦争は良く覚えているといったが、それ以上は待っても語られなかった。やはり決して楽しい思い出ではないはずである。

戦車が村に入るのを阻止する為、爆弾を持って突撃する民兵、子供が3人以上戦死した為、名誉母として表彰される女性、何だか戦時中の日本のようで怖い。共産党らしく、女性党員の活躍を伝えるコーナーもある。

テトと言えば、1968年のテト攻勢が思い出される。ベトナム戦争中、正月だけは休戦すると思われていた中、突然テトに解放戦線が攻勢を掛け、フエを占拠。サイゴンの米大使館なども攻撃された事件である。当時香港駐在であった佐々淳行氏は1泊の予定でサイゴンに出張しこの事件に遭遇。半月を過ごしている。それによると解放戦線は僅か20人の決死隊が米大使館に突撃し、全滅したという。またこの騒動の最中、アオザイを着飾ったベトナム女性が解放戦線の決死隊の死体の横を平然と歩いていたとも書かれている。何とも凄まじい光景である。尚先日同氏の公演を聞いた際、『サイゴンの日本大使館には食料も無く、人もいなかった。ただ青木大使がいた。ペルーで人質になった青木大使のお父さんである。』と言っていたのが、印象的であった。(現在の日本危機管理は大丈夫なのか?)

ベトナムと言えば私も最初に思い出すのはやはりベトナム戦争である。私は実は殆ど映画を見ないが、その昔ロバート・デニーロの主演した『ディアー・ハンター』と言う映画を見たことがある。非常に恐ろしい映画でその夜は眠れなかったことを覚えている。捕虜となった米兵が収容所でロシアンルーレットをやる。銃に弾が一発入っており、自らに向けて引き金を引く。私でさえあの場面は今でも思い出す。ましてやアメリカ人、米兵にとってベトナムは印象に深い場所だろう。人生を狂わせた人間も少なくなかったはずだ。この映画を見てからベトナム人は怖いと言う印象を持ってしまった。まるで中国人が戦争中の日本兵の残虐行為を描いた映画を見て日本人を怖いと思うように。

見学して行くと小さな劇場のような場所に出た。何やら何処かの地形の模型のようである。ズンさんが係りの女性に話しかけると彼女は立ち上がった。ディエンビエンフーの戦いを模型で説明すると言う。突然明かりがつき、日本語のテープが流れた。高校の歴史の授業で名前だけは知っているが、この戦いの内容を聞くのは初めてである。1945年の日本降伏と同時に独立したベトナムが再び統治に来たフランスと9年間戦い、最後にディエンビエンフーで勝利し、フランス軍を撃退したというもの。この戦いの細かい様子(街道を押さえ、地下の抜け穴を掘り)を伝えている。

今年はこの戦いの勝利から丁度50周年。5月7日の記念日には盛大な催しが行われる。ベトナム人の誇りである。しかしこの説明を日本語で受けているのは何となく決まりが悪い。周りにベトナム人や他の外国人が一緒に見始めたが、何だか分からないだろう。

建物の裏手には今は無きハノイ宮殿の旗の台が移設されている。高さ180m。1812年にできたと言うから約200年前のものである。子供達は登っていったが、眺めはどうだろうか?
また大きな木の周りに金属の残骸が置かれている。ベトナム戦争時にB52を打ち落とした残骸、合計34機を打ち落としたそうだ。

因みにこの博物館の道の対面にはレーニン像が建っている。現在の共産党政権は1950年にソ連と中国が承認して国際的に認められた経緯がある。国旗は赤字に星1つで中国的。共産党の旗は赤字に碇のマークで昔のソ連の国旗を思わせる。

そう言えば、ここハノイには中国系住民は殆ど居ないという。中越戦争の際、中国系は難を恐れて中国に戻ったのだ。但しホーチミン市の近くにはチャイナタウンがある。それにしてはこの博物館には中国語が多いと思ったら、よく見ると簡体字である。最近中国からの団体観光客が急増しているそうだ。ベトナムは85%がキン族で、残りは53の少数民族である。

(9)文廟
次に文廟へ。ここは孔子を祀るため1070年に建立された。ベトナム最初の大学が開設された場所で、学問の神様。グエン王朝時代に李朝以降の科挙の合格者82人の石碑が置かれた。石碑は様々な顔の亀の上に乗っていて何ともユーモラスである。地元の若者がその亀の頭を撫ぜて行く。ご利益があるに違いない。我が子供達にもやらせる。

 

ここの敷地はかなり広い。更に奥に行くと独特の形をした瓦屋根の見事な建物がある。孔子やその他の神々の像が安置され、大勢の人々が参拝している。祈り方は中国的に膝を着くのではなく、手に賽銭を挟み、拝んでいる。これは合理的かなと思う。拝んでから賽銭を捧げる。何故かここで長男は『忍』次男は『心』と書かれた掛け軸を買う。25,000ドン。何と両替を全くしておらず、ズンさんに両替して貰う。US$1=15,000ドンぐらい。ズンさんは新札の5万ドンを沢山持っていた。ベトナムでもお年玉があるという。ハノイのような都会では2-5万、田舎では5千―1万ドン程度が相場だと言う。尚5万ドンは本当に新規発行の札で2箇所が透明で穴が開いているように見える。偽札防止であろうか?

因みにベトナムでは米ドルが流通している。米ドルで買い物をすることも可能ではある。しかし米ドルは必ず損をする。ベトナム人はドンから米ドルへの両替に制限があるという。必要な人は闇で両替するのだと。それにしては、街中で堂々と米ドルを受け取るから不思議だ。中国ならもっと管理が厳しい。ベトナムが今ひとつ経済発展できないのは、その辺に原因があるのかもしれない?

ズンさんが買い物でもしましょう、と言う。元旦から開いている店があるのか?車は如何にも土産物ショップという建物に到着。入り口にはアオザイを着た店員が待ち構え、『いらっしゃいませ』と日本語で言う。店には客が無く、皆我々の方に来るが何となく寂しそう。ベトナムのお茶を見る。緑茶、蓮茶、苦茶の3種類を買う。果たして美味しいのか?未だに試していない。ズンさんも日常は緑茶を飲むと言う。中国国境の山岳地帯で少数民族が青茶あたりを作っているはず、と言うのが私の印象だが、次回是非見てみたいものだ。長男は出されたバナナチップを気に入り、せっせと食べる。結局食べ物と飲み物を買う。

帰ろうと外へ出ると、日本人の団体がバスで乗り付けてきた。アオザイ店員も元気になる。先頭で旗を持っている人がズンさんに挨拶する。日本人だ。旅行社の支店長だという。テトでベトナム人社員が皆休みを取り、やむなく本人がアテンドしているようだ。何となく面白い光景であった。

(10)水上人形
夕方になり、ズンさんを早く解放しなければと思っていると、『水上人形のチケットは昨日は無かったが、今はあるかもしれない。』と言われる。ズンさんは本当に色々と気を使ってくれる。水上人形とはベトナムの伝統芸能で、人形劇。特徴は人形劇を池の水面で行うこと。世界でもこの劇団だけだそうだ。

 

取り敢えず劇場に向かう。到着すると既に西洋人が並んでいた。その脇から韓国人の団体がガイドに連れられて入場する。西洋人の旅は本当の旅だなと思う。手数料を払うのではなく、自ら時間を掛けて席を取る。それに引き換え、日本人を初め団体観光客は本当の楽しみを知らない。水上人形は日に3回、最初の5時15分の席が取れた。1等席4万ドン、2等席2万ドン。我々は1等席。おまけに扇子と劇で使用する音楽の入ったテープをくれる。我が家にはテープが4つになってしまった。

劇場は意外と広く、劇をやるプール(池?)が結構小さいので2等席だとかなり見づらい。後ろの方で大声で文句を言っている人がいる。北京語であるので、台湾人と思われる。『1ヶ月も前から予約して何でこんな席なんだ。』と怒っている。きっと旅行社がケチったのだろう。因みに劇が始まってから日本人の団体がどやどやと我々の前に入ってきた。目一杯観光して遅れたのだろうが、こういうのは本当に頂けない。

劇はなかなか面白かった。最初に脇に控えた楽器奏者の演奏、歌。何だか人形浄瑠璃を見るよう。人形は人間、亀、魚など。それほど精巧なものではないと思うが、辻村寿三郎の八犬伝、三国志を思い出す。それを簾の後ろから操る。人形は水の上を踊っている。結構動きが巧みで、人間がクロールで泳いだり、魚が大きな泳ぎをしたりして、笑いを誘う。正月と言うことか、爆竹が華々しく使われる。

劇の内容は田植え、カエル取り、アヒル農法などと地域に密着した話が多い。非常に素朴なものだ。西洋人は興味深く見ている。日本人はおしゃべりに余念が無い。我が家の子供は、残念ながら半分以上熟睡していた。最後に人形遣いが後ろから登場。どっぷり水に浸かり約1時間、かなりの重労働だ。しかもあと2回今日の公演がある。この劇は世界各地で公演し、高い評価を得ているとの事。ズンさんに寄れば、ハノイで必ず見るべきものはこれだけだと言う。

夜はホテルでビュッフェ。ハノイはフランス時代のよき技術を踏襲しているようで兎に角パンは美味かった。特にフランスパンは美味い。これだけでも腹が一杯に成る程食べた。朝食のビュッフェでもパンばかり食べた。

(11)路上の食事
2日目。午前中はホテルでゆっくり。子供達は勉強のはずであったが、ゆっくり。ホテルの脇にある湖を散歩。しかしバイクが多い。しかも2人乗りは当たり前、お父さんが運転、上の子がお母さんとの間に挟まり、下の子はお母さんに背負われる、家族4人乗りは普通である。この光景何処かで見た。そうだ、80年代の台湾だ。その後台湾は自動車社会になり、現在では大分減ったが。昨日ズンさんに聞くと、ベトナムの自動車化はかなり進んでおり、2002年の交通事故の死亡者は1万人を越えたようだ。因みに日本は8千人を下回ったので、人口が3分の2のこの国では交通事故は多い。

人が集まり賑わっている場所がある。鎮国寺。正月の初詣。ベトナム最古の寺。500年代に建てられたというからかなり古い。勿論現在の建物は17世紀以降のもの。湖の中に小さな島があり道がついている。中には仏塔があり仏塔には小さな仏像が沢山安置されている。ミャンマーのパゴダにもあったものだ。

 

初詣に来ている人を見ると、年配の男性は昭和20-30年代の日本のお父さんの格好をしている。洒落ていない外套を着、ハットを被る。若い女性にアオザイ姿は稀で、ジーンズにスニーカーが多い。年配女性は紫や黒のアオザイ。良くベトナムのアオザイは世界で一番セクシーな民族衣装と言われているが、私が見る所冬はそれ程セクシーな様子はない。学校が休みで高校生の制服姿も無く、白い鮮やかなアオザイ姿も無いからか?ベトナムの女性は見ていると実に素朴に見える。日本や香港の女性は化粧のし過ぎなのか?笑顔がなかなか良い。社会主義の笑顔ではない。ベトナムも着実に資本主義社会になってきている。

昼食に路上でベトナム麺に挑戦。最初は尻込みしていた子供達も一口食べてからは美味しそうに食べている。日本で言えば風呂場のプラスチック椅子に座り、低いテーブルで食う。周りは地元の人々がちょっとした昼飯と言った感じで掻き込み、直ぐにバイクに乗って去る。日本のラーメン屋だ。値段は良く分からなかったし、言葉も通じないが、食べたいものを指せばよいから簡単だ。但し料金は少しボラれていたようだ。麺3杯とコーラ1つで4万ドンはちょっと高い。まあ300円だから喧嘩しても始まらない。正月料金もあるかもしれない。

麺屋の直ぐ近くに写真屋(家内に寄れば薬屋?)があり、そこの店先にお茶道具が出ていた。思わず寄って行って写真を撮った。急須の中は緑茶であった。ベトナムも緑茶の発音はほぼ同じで通じた。お茶菓子が入ったお盆が出されて食べろと言う。家内はその中の1つが気に入っていた。こういう交流が嬉しい。

(12)バチャン
午後昨日の車に来てももらい、郊外のバチャンという村に行く。市内から南東に10km、車で30分。紅河に沿ってゲストハウスが続く通りを10分も行くと田舎の風景だ。各村にはお寺があるようで、初詣の人が歩いている。

バチャンは陶芸の村。600年前からこの村では陶磁器が作られていると言う。16世紀には日本に輸出が始まり、茶道の道具などにも使われた。近年輸出量も多くなっており、観光客も多く訪れている。しかし我々が到着した時、この村は正月であった。殆ど何処の店も開いていない。運転手は困ってしまったようだ。ズンさんから言われた店は開いていない、言葉も通じないのだから。

我々は勝手に近所を歩き回る。1軒だけ店が開いており、入ると日本人の団体がいた。暫く見ていると運転手が行くべき店が開いたと伝えに来た。行ってみるとその店は6階建てで4階から上が工房になっている。下には大型バスで乗りつけた日本人が大勢いてさっきまで静寂は完全に破られている。店が開いたのは彼らが着いたからで感謝しなければならない。

工房に行く階段を上がる。ろくろあり、窯あり、正に工房である。完成前の作品を多数置いている。工房からの眺めが又良い。河が一望出来る。流石に本日はお休みだが、普段はここで観光客も作品を作ることができると言う。一度やってみたかった。この工房に上がってきたのは外国人ばかり。日本人団体はひたすら買い物だ。家内も日本人になりたいようだったので、残りの3人は外へ出た。村は狭い。直ぐに畑に出た。学校もあった。田舎の長閑な風景だ。但し道端にゴミが大量に捨てられている。成長期には環境に配慮する事は難しいものだ。

子供達が無邪気に遊んでいる。正月だもの、彼らも嬉しいに違いない。羽根突きの羽のようなものを足で蹴りあっている。蹴鞠の羽版のようだ。そういえばベトナムも人口が増えている。出産制限もあるという。中国ほど厳しくないが原則子供は2人までという。但しこれを守らないで困るのはハノイなど都市部の役人などだけだとズンさんは言っていた。彼も3人の子持ちだ。この村でも沢山子供がいる。出産制限のある国とは思われない。

店に戻ると家内は未だ一生懸命陶器を選んでいる。我々は疲れたので椅子に座っていると如何にも大阪のおばちゃんといった感じの女性が不思議そうに近づいてきて、『お嬢ちゃん、どッから来たの?何で来たの?』と次男に聞く。次男は何の事だか分からずに黙っていたが、内心女の子と間違われて痛く傷ついていた(次男は髪の毛が少し長い)。ただおばちゃんの疑問は最もだった。日本では今日も学校があるのだ。
しかし大阪のおばちゃんは何で一目で『大阪のおばちゃん』と分かるのだろう?そして何でお節介なのだろう?

家内の買い物が終了し、支払いとなる。蓋碗、小皿セットなどを一絡げにして持って行くと日本語でUS$10です、という。確かに安い。更におまけに好きな皿を1つくれた。ここの原価は殆どただなのだろうか?因みにある皿をひっくり返すとなんと西友780円という表示が見えた。恐らく輸出品を間違えて店頭に出したのだろう。ここで買えばこの皿は数十円である。日本のスーパーで売っている陶器の多くはここで作られているのでは?

バチャンの帰りにハノイ大教会による。これは予定に無かったので、運転手に思い切ってガイドブックにあるベトナム語で言ってみた。何と通じた。OKと言うのだ。嬉しくなったのもつかの間、到着してみるとどうも様子が違う。見てみるとそこは市劇場であった。フランス統治時代にパリのオペラ座を模して建てられた立派なオペラハウスである。やはりそんな簡単に通じるはずが無い。でもちょっと得した気分にはなった。

ハノイ大教会はこれまた立派な建物であった。1900年頃にゴシック様式として建築された。かなりの規模である。西洋人が脇から中に入って行く。礼拝でもするのだろうか?この教会の前の道がなかなかおしゃれだ。フランスのカフェのような場所があったり、土産物屋もかなりセンスが良く、これまでのハノイとは明らかに違っていた。

(13)夕食
ホテルで夕食を取る。兎に角ホテルが市内から離れている、正月で店が閉まっている、等等から食事はホテルとなる。今回は中華レストランに行く。メニューを見ると典型的な中華である。まるで日本でコースを頼むような料理である。あまりにも面白くないと思っているとベトナム料理もあるという。出てきた最初の2品はなかなか食べ難かった。干しパパイヤのサラダと生春巻き。殆ど食べられない。漸く3品目でポークチョップが出て、何とかなった。そしてメインの鍋。ちょっと漢方薬風の匂いがするスープに蝦、イカ、魚などの海鮮を入れる。これにトマト、ブロッコリー、カリフラワー、春菊などを次々にぶち込む。おい、おい大丈夫か?

その心配は杞憂に終わる。先ずは海鮮を取り出し、食べる。美味しい。続いてスープと一緒に野菜を食べる。これがめちゃウマ。健康的だ。子供達もモリモリ食べる。普段ならこの漢方薬風の匂いは厳しい所だろうが、このトマトを含んだスープは食える。最後に麺を入れて〆る。完全に食べ過ぎてしまい、苦しくなった。久しぶりの満腹感である。この鍋の名前は良く分からない。

(14)3日目の観光
3日目も午前中は湖の散歩。家族4人で1時間掛けて1周した。何の変哲も無い街並みではあるが、そこここにフランス風の建物が残り、中には西洋人が住んでいたりする。かと思うと細い道を昭和30年代製といった感じのボンネットが盛り上がったバスが人とバイクを擦り抜けて走って行く。時間はゆっくり流れて行く。

ホテルをチェックアウトして市街地へ。今日は買い物だ。といっても家内のお目当ての店は殆ど閉まっており、仕方なくホアンキエム湖の近く、ハンガイ通りからハンチョン通りを歩く。この辺り町並みも古く、各家は間口が狭い。しかし奥行きはかなりあるようで奥が迷路のようになっているのが見える。また外国人向けと思われるこじんまりしたホテルも多い。フランス風家屋を改造したようだ。一度は泊まって見たい雰囲気がある。

昼飯は昨日行ったハノイ大教会の前のカフェで取ることに。このカフェ、実に雰囲気が良い。2階+αがあり、かなりおしゃれな作り。西洋人とベトナムのお金持ちが集う所らしい。サンドイッチやパスタを食べて、飲み物を飲んでいるとベトナムにいることを忘れる。但しウエーターが新米でオーダーを間違えたりして、なかなか食べられなかったのはご愛嬌か?値段はそれでもソフィテルホテルで食べるよりは安かった。ということはホテルの食事が如何に高いかを物語っている。次回はテト以外に来て大いに街中を楽しもうと思う。

食後庶民の市場且つ外国人も良く行くというハンザ市場へ行ってみる。しかし残念ながら中の店は全て閉まっており、市場の周りで野菜や魚を売る露天商だけが細々とやっていた。ここでビックリしたのは、牛の肝臓だけを売るおばあさんがいたこと。他の店は肉もその他の部位も一緒に売っているのに、このおばあさんだけは何故か肝臓だけである。子供達は気味悪がっていたが、もし言葉が通じれば何故?と聞いてみたかった。またお客は常連だけなのだろうか?

最後にホアンキエム湖に浮かぶ玉山祠に行く。この湖は500年生きている亀が生息していると言う伝説がある。橋を渡って正殿に進むと入場料がいるという。横の中国人観光客が盛んに騒いでいる。良く分からないので、入り口まで行くと横で切符を売っていた。但し幾らか分からない。5万ドン札を出すと困った顔をする。足りないのかなと思うと、そうではなく、4人で4千ドンしかしない為、お釣りに困っていた。そうだよ、庶民が来る場所がそんなに高いはずが無い。言ってみれば日本のキオスクで50円の飴を買うのに1万円札出す外国人のようなものである。

ベトナムの給与水準はズンさんに聞いた所、ハノイの民間企業で月US$100-200。業績の悪い国有企業ではUS$60ぐらいだと言う。この水準は中国の大都市と比べてかなり低い。国有企業の民営化は進んできたようだが、まだまだ貧しい。株式市場も2000年に創設されたが、その後発展していないという。因みにバイクは日本製がUS$1,000ぐらい、タイ製などはUS$400ぐらいと言う。ここも人で溢れていた。皆一生懸命拝んでいる。明日の幸福を願っているのだろうか?大きな亀の像が大事そうにケースに入っていた。残ったドンで子供2人はまた賽銭を上げ、何やら祈っている。何を祈っているのだろうか?

その後ホテルに戻り空港への送迎を受ける。2日前に来た道を又引き返す。しかし2日前と印象はあまり変わらない。ということは今回私はこの街に深く踏み込まなかったと言うことか?真新しい空港に入り、残りのドンをチョコレートに換え、夕飯の代わりにする。ハノイは何とも不思議な所。掴み所が無い。今度は正月以外に来て真のハノイを掴みたい。

ところで次回はどこの旅に行こうか思案している。帰りの飛行機の中で次はホーチミンかな?などと思っていたら、荷物のケースが壊れてしまった。これは当面この国には来るなとの神のお告げか?更に帰国後東京で次回の旅の候補として、スリランカ、ネパール、中国東北(北朝鮮国境)のガイドブックを買った所、東京駅のトイレに忘れてしまい、気が付いて戻った時には既に誰かに持ち去られていた。これらの場所も当面行けないという事だろうか?兎に角次回を考える毎日である。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です