新疆南路を行く2012(3)ホータンの玉市場とタクラマカン砂漠縦断

8月15日(水)  (3)   市内視察

本日は朝から市内視察となる。企業訪問が無かったからである。先ずは学校へ。この学校、20年以上前に日本の無償援助で建てられている。何故このような所に学校を建てたのか、不思議ではある。どうやら漢族の子供が通う学校らしい。校庭も広く、建物はかなり立派である。校舎に入ると世界的な科学者などに交じり、歴代国家指導者の肖像画があったりする。そういう所を除けば日本の学校とあまり変わらない。今回の視察団にはTさんの7歳になるお嬢さんが参加しているが、理科室に入るなり、「日本の学校と同じ」と喜んでいたことからも分かる。

ホータン市の博物館へ行く。今日は休みのようだったが、交渉の結果、見学することに。ホータンらしく立派な玉の置物がある。中には砂漠地帯で発見された遺物が展示されている。この博物館に30万円を寄付したという日本人の名前がプレートに書かれていたりする。日本とホータン、特に20-30年前は深い繋がりがあったということか。

玉市場

バスは街の中心から少し離れた河沿いで停車した。建物の方へ歩いて行くと、スーッと男性が近づいてきた。そして右手を差し出す。言葉はなく、何となく不気味。手の中には小さな石が握られていた。玉か、と聞くと黙って頷く。我々めがけて次々に男たちが近づき、手を出す。これは何だ、交易の原点ではないか。

建物の中は玉売り場だった。如何にも観光客向けといった感じで、客は殆どおらず、店員は皆手持無沙汰で。携帯などをいじっている。ウイグル族の先生たちはこんな所に用はないとばかり、外の露店を物色している。我々もそれに従う。小さな玉を買うと、ネックレスにするため、穴をあけ、ひもを通す。その作業を専門にやる人々もいて、如何にも市場らしい。

玉と言えば、思い出すのは完璧の由来。壁とは玉を薄く輪の形に磨き上げたもの。戦国時代に「和氏の壁」と呼ばれる素晴らしい玉を持つ趙に対して、強国秦がそれを要求。趙の使者は巧みな外交手腕を発揮して、壁を失うことなく、帰国。「壁を完(まっと)うして帰る」、完璧である。

尚玉は河原から拾ってくるらしい。市場の横の河でも数人がずっと下を向いて、探している。もし見付かれば、そのままこの市場に持ち込み、黙って客の前に手を出すのだろう。帰り掛けに、数十人が集まっている姿を見る。一人に向かって皆が買い取りを迫っているようだ。これが市場の買い取り人かもしれない。

A教授は「市場で玉を買っても騙される。地元の人が間違いないと言った店で買わないと」と言いながら、1軒の店を目指した。その道も小さな玉の店がずらっと並んでいた。ホータンという所は、至る所に玉の店がある。どうやって成り立つのだろうか。仲買システムなどはどうなっているのか。店のオーナーが少し大きな石を持って来た。懐中電灯で石を透かす。「この玉は100万元以上だな」と事もなげに言う。店には100万元以上の言い値の玉がゴロゴロしていた。一体どうなっているのか、誰が買うのか。地元の金持ちも買うし、北京や上海など大都市の金持ちも買う。ここにある玉はまだ原石。精密な加工はウルムチか、北京、上海などになる。

「玉は金とは違う。金は合理的な価格メカニズムがあるが、玉には全くない。資産価値があるから玉を買う訳ではない」という。であれば、何のために買うのだろうか。「好きだから、自慢したいから」は正しい説明だろうか。

バザール

昼はラグメンを食べる。そして私は昨日来たばかりだが、一行の半分以上が午後帰国の途に就いた。殆ど擦れ違いであったが、驚くような出会いもあった。銀行員時代に香港でお会いした方がそこにおられたのである。また東京の家が歩いて10分というご近所の親子もいた。名物の干しブドウを買い、別れた。

我々はバザールへ向かうことになった。歩くと遠いということでタクシーを使う。3㎞ぐらい離れた所に大きなバザールがあった。しかもラマダン明け直前ということで結構な賑わいを見せていた。気を付けて歩かないとはぐれるほどであった。

食品からスカーフなど衣料品まで実に多くの物が扱われていた。ホータンは絨毯でも有名な街。全て手織りで、精緻な模様は伝承により織られるという。ベテランでも一日に3㎝も進めばよいとか。ちょっとした物でも仕上げるのに半年から1年は掛かる。バザールにも沢山絨毯は売られているが、聞けば多くが内地から来ており、地元の物は殆どない。「機械で織る安い絨毯が入ってきて、地元の産業も廃れた。未だに手で織っている物は、高級品として市場には出回らない」という。シルクも同じだろう。

子供達も働いていた。市場では子供を含めた一家で商売をしている例が多いが、やはり子供の存在は気になる。お婆さんを助ける孫娘、自ら秤を持って商売する男の子、生活とは、学問とは何か、と思ってしまう。表面的には豊かではなくても、心は豊かかもしれない。

羊の丸焼きを見て、「昨日の村の大宴会は凄かった」と皆が言う。村では外国人が珍しかったらしく、羊を潰して歓迎してくれたらしい。そうなれば食べない訳には行かず、勿論飲まない訳にもいかない。これは十分理解できる。しかもラマダン中だ。お祭りのような物だ。私が取り残された理由に納得。

帰りは歩いて行く。N教授はナンを焼く竈に異常に興味を示し、写真を撮り、中を覗かせてもらっている。日本にこの竈を待ちかえり、ナンを焼きたいらしい。ナンはここで食べるから美味しいのではないか、とも思うのだが、ついでにケバブ台も持ち帰り、日本の山の中で暮らしたいという。うーん。

中華宴会

夜はJ教授のお知り合いなどが参加して宴会となる。ただ時期的な問題(ラマダン)もあり、街中のウイグルレストランで派手に宴会するのは憚られる、というので、ホテルの中華宴会となる。普通の中華が並ぶ中、態々取り寄せて食べさせてもらった、羊肉と汁がたっぷり詰まった肉まんは美味だった。私は羊スープが飲みたいと思ったが、出なかった、残念。

8月16日(木)  (4)   砂漠縦断 500㎞

翌朝はホータンを離れ、タクラマカン砂漠を縦断する。朝ごはんはホテルのビュッフェではなく、ウイグル式が良いと主張したが、ラマダン中で空いている所はなく、何とある秘密の場所で食べさせてもらったが、ここでは多くは語らない。ウイグルには秘密にした方が良いことは結構多い。

ホータン市内を抜けて、砂漠高速?に入ると、後はひたすら一本道を行く。通行量は殆どなく、いくらでもスピードを上げられそうだ。だが、砂漠で皆が爆走して事故が起こっても救助が大変、ということで、合計何時間以上で走らなければいけないというルールがあるようだ。イチイチ監視できないので合理的なような気もするがどうだろうか。

一面砂漠の中を走るのは初めてで、最初は物珍しかったが、その内飽きて来る。飽きてきてもどうにもならない。ましてや私以外のメンバー既にこの道を一度通ってホータンに来ている。皆ぐっすりと寝入る。

途中で休憩した。特に休憩所などはなく、砂漠で休むのだ。持ち込んだスイカとメロンを砂漠で切り、豪快に食べる。これは本当に美味い。そして砂漠を探索する。昔のシルクロードの旅人はこの砂漠をよくぞ歩いたものだ。ずっと歩いていたら、気が狂いそうになる。そして変化があるようで、ないような砂漠。道に迷えば絶望的な気持ちになるだろう。

7時間ほど掛かって今日の目的地、アクスへ到着。アクスはJ教授の故郷であり、今回外せない場所であった。




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