突然ベトナム中部散歩2011(5)ホイアン 日本人が開いたサムライ食堂

(7)サムライ食堂

6時過ぎにホテルに戻る。結構疲れているので早く寝ようかと思いながら、ネットを繋げ、何気なくFacebookを見ると、「今ホイアンに居るのか」と北京のMさんから書き込みがあった。それがどうしたと書き込むと「折角だからゲンタさんの店に行け、名前はサムライ食堂」と返事が来る。

一体、どうなっているのか、ゲンタさんって、誰、サムライ食堂??それでも行けと言われれば行くのが私の旅。今夜の予定は特にないので、急いでサンダルをつっかけて出掛ける。場所は日本橋の北1分、とある。狭い街だ、直ぐに着く。

日本橋とは、日本人町が形成されていた1593年、日本人によって建てられたと言われている橋。木造で少し沿った形は日本的だが、中国風に屋根が付いた橋である。正式名称は来遠橋であり、日本橋は俗称のようだ。

サムライ食堂は橋の袂、川沿いにあり、直ぐに分かった。何だか暖簾が掛かっているが、外から見ても涼しげな佇まい。古い建物を使っているようだ。早い時間でお客は誰もいない。店にも誰もいない。どうしたんだろうか、奥まで入り込む。

裏に事務所スペースがあり、人の気配が。声を掛けるとそこにゲンタさんはいた。Mさんの紹介で突然来たと告げるとかなりビックリしていたが、それでも快く迎えてくれた。お店に座ってお話を聞く。

若い時は大阪のホテルでウエディング関係の業務をやっており、カナダにも1年行った。リーマンショック後退職。日本に違和感を持ち、転職せず。テレビ番組で偶然見たホイアンに一目ぼれ、直ぐにやって来て2週間滞在してステイ決める。ベトナムは初めて、かつ飲食業の経験もなかったが、ホイアンに住みたい一心で両親から日本食のレシピを習い、練習を重ねて、偶然いい人々と出会ったこともあり、お店を出すことになったという。何だか信じられないような話だが、本人が目の前で話している。 

この街にはスペイ人で店を開いている人などもおり、助けてくれるという。ベトナム人の信頼できる人とも出会い、店の場所も決まり、従業員もすぐ見つかった。ただ仕事より家族を大事にする従業員に最初は戸惑いがあったという。私が訪ねた日も急に休みを取ってしまったようで、店にはゲンタさんしかいなかった。従業員には仕事が出来れば10万ドンずつアップするなど、工夫して何とか働かせている。

この街の良さは「景観を大切にする街」だと。実際店の壁の色も決められているそうで、確かに店も街全体も落ち着きを持っている。これは欧米のNPOなどが働き掛けてその環境を守ったそうで、ベトナム人も感謝する必要がありそうだ。

ホイアンには日本人は殆どいない。また日本人観光客は来るが宿泊する人は少ない。では一体誰がお客さんなのか。ベトナム人には日本食は高い、欧米人がやって来る他、中国人なども来る。日本人はダナンから週末来る人もいるし、夕飯をここで取る人もいるようだ。まあ、ボチボチやっているということか。

将来もずっとホイアンに住みたいというゲンタさん。今はベトナム人、出来れば地元の女性と結婚したいとも語る。ホイアンに一目ぼれ、この街の良さは十分に分かるが、このエネルギーは並大抵のものではない。日本人にも様々な人がいると実感できる。紹介者Mさんに感謝せねば。

11月1日(火)   (8)    朝のフォー

翌朝の目覚めもよかった。ホイアン流に6時台に起き出し、直ぐに外へ出た。今日こそは外でフォーを食べよう。ホテルの直ぐに近くに朝だけやっているフォー専門の家族経営の店がある。そこを目指す。

店には既に大勢の人が来ており、朝ごはんを食べていた。家族で朝飯を食べて仕事や学校に行くのだろう。その為にこの店がある。言葉は通じないが指をさしてフォーを頼むとここのおばさんが座れと指示する。面白い。

チキンフォー、いい味だ。香菜の香りが実に清々しい。スープのだしもよく効いている。思わずお替りしようかと思ったが、思い止まる。フォー一杯2万ドン、河沿いのレストラン、外国人料金の半分でこれだけの幸せが得られた。

散歩に出る。河沿いは気持ちが良い。橋を渡ると、旧市街地にはお寺もあるし、教会もある。小さな街を散策するのは何だか楽しい。何でも直ぐに出会えるからだろうか。そして、少し腹が減り、ホテルに戻り、何とまたホテルの朝食を食べてしまった。しかも今日は何故かフォーがあった。

(9)    チケットを買って

朝食後は小雨の降る中、更にホイアン散策に出る。もうすぐこの街を離れると思うと、どうしても歩いておきたくなる。橋の袂のチケットオフィスで通し券を買う。これだと好きな参観場所、5か所を見ることが出来る。

先ずは博物館へ。ここに日本町時代の日本製の茶碗などが展示されている。江戸時代初期、日本からやって来た商人たち、そしてキリシタンたちもここで暮らしたことだろう。船の往来も頻繁で、マニラ、アユタヤと並ぶ3大日本人町が作られていたようだ。幕府の鎖国政策で帰れる者は日本に戻り、帰ることが出来ない者はこの地で果てたであろう。

お寺にも行ったが、何だか観光地化していて面白くない。きれいに修復されており、雰囲気が出ていない。古民家を改造した展示場もあった。漁業の道具などが展示されていたが、あまり興味をそそられない。それよりも、家そのものの古さ、構造、小さな中庭などは、中華風であり、他の東南アジアとの類似点が多く見られた。それでも中国人観光客がホイアンを訪れることは少ないという。中国内でも見られる風景だからだろうか。

日本橋も渡ってみる。日本人の学生かな、団体が日本語ガイドに連れられて来ていたが、何でもかんでもガイドに聞き、その態度があまり宜しくない。そんなことを聞いてどうするのか。日本語が出来る人への対応は日本人一般に横柄な印象があり、言葉が通じないと押し黙ってしまう、中国人も同じだが。

橋の中ほどに廟があり、参拝している人もいる。橋を眺めていると何だかとても形がよく見える。観光客が押し寄せなければ、実によい橋であろう。橋の向こうにも古民家がったが、直ぐに立ち去る。既に相当疲れていた。雨も止まない。

道の外れに誰も来ない廟があった。中国のどこかの同郷会であろうか。何となく入って見ると、オジサンが暇そうに座っていた。北京語で話し掛けると嬉しそうに、色々と説明を始めた。太鼓を敲いて見せてくれたりした。観光地とは思えない場所、そんな所が好きだ。

ホテルに戻り、チェックアウトする。ちょうどこのホテルの支配人がいた。彼は日本語が出来る。ホテルの給仕から始め、日本語、英語を学び、フロント係などの顧客対応を経て、遂には支配人を任されたという。何というサクセスストーリーだろう。「日本語は忘れた」と言いながら、楽しそうに話してくれた。

 

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