『街道をゆく』を行く2005 赤坂1

【赤坂】2005年8月27日

夏の間、散歩は休みとなった。東京の夏は暑い。昼間出歩くのは苦行である。しかし2-3ヶ月経つと我慢できなくなる。出掛けた。今回は懐かしい散歩である。尚赤坂という地名はあるが、赤坂という坂は現在無い。

1.赤坂①
(1) 四谷から喰違見附

丸の内線で赤坂見附を目指す。ところが何故か1つ前の駅、四谷で下車。子供の頃から地下鉄なのに地上を走るこの区間が好きなのである。駅はきれいになっているが、駅前の橋の袂の街灯は昔風。

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線路沿いに歩き始めると上智大学がある。私には苦い思い出がある。大学入試には何回か失敗しているが、2回不合格になったのはここ上智だけである。余程相性が悪いらしい。教会がある。こんな雰囲気の学生生活を送りたかったのに??

更に歩くと左側に福田屋という料理屋が見える。その横に尾張徳川家の屋敷跡の碑。御三家筆頭として家康の九男義直が初代となった尾張。1637年にこの地を拝領した。しかし尾張は歴史上あまり目立ったところが無かった。何故であろうか?尚この辺りの地名『紀尾井町』は紀州徳川家(後述)、尾張徳川家、井伊家の頭文字を取っている。

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更に進むとホテルニューオータニ(彦根藩井伊家跡)が見えてくる。その手前の土手に『喰違見附』の立て札がある。1636年に外堀工事が始まり、39年に完成。その際櫓は無かったものの木戸として門が設置された(1872年に廃止)。1874年1月に右大臣岩倉具視がここで征韓論に敗れた不平分子、土佐の武市熊吉ら9名に襲われた。現在も道の見通しは悪く当時も襲撃するには適した場所であったのだろうか?岩倉は夜の堀に飛び込み、難を逃れたという。

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尚江戸時代この辺り(紀伊国坂―弁慶堀に沿った道で迎賓館の脇)は大変寂しいとこであったようで、ノッペラボウが出ると言われていた。ムジナの仕業であると小泉八雲の作品『むじな』にも書かれている。

(2) 紀尾井坂から清水谷

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ニューオータニの前に紀尾井坂がある。まさに井伊家のあったこのホテルから坂を下ると清水谷公園がある。公園自体はそれほど大きくなく、特に特徴は無い。入り口に清水が湧き出る井戸の跡が見える。

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しかしこの地は明治11年(1878年)に内大臣大久保利通が暗殺された場所である。大久保といえば徳川幕府を崩壊に追い込んだ薩摩の中心人物、明治に入っては同僚の西郷を西南戦争で死に追いやった男、そして明治の基礎を築いた官僚、といくつもの顔を持っている。

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その大久保が5月14日(私の誕生日でもある)の朝、西南戦争の8ヵ月後、霞ヶ関の自宅から清水谷坂を降りてきて、清水谷で暴漢に襲われた。石川県士族島田一郎ら6人は清水谷の奥深い林に隠れていたらしい。今でも多少林はあるのだが、どうだろうか?清水谷公園内には大久保利通哀悼碑がある。

本文では政府高官、それも後の総理大臣にもあたる内務卿に対して護衛を付けていなかったことに疑問を呈している。当時の警視庁長官、川路利良が薩摩の同郷大久保に護衛をつけなかった理由を『西郷を倒した大久保に護衛を付ければ国元の嘲笑を買う』としているのは分かりやすい。

また『大久保は水については無策であった』としているが、その公園内に『江戸水道の石枡と木桶』と題する記念物が展示されているのは歴史の皮肉であろうか?尚公園内にはきれいな池と小川が流れている。如何にも清水谷の名に相応しい。

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(3)弁慶堀と弁慶橋
少し歩くとニューオータニガーデンコートがある。その先は弁慶橋。1889年に橋が架けられる。それまでは橋が無く庶民は苦労していたらしい。弁慶橋の名の由来はあの弁慶が通ったなどというものではない。神田に架かっていた弁慶橋が数年前に廃橋になり、その廃材を使って架けられたとのこと。現在の橋は1985年に改築されたもの。

橋の袂には『紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡』という立て札も見える。明暦の大火の後1667年にこの地を拝領した。あの徳川吉宗もここに滞在して将軍への道を歩んだのであろうか??この地は現在赤坂プリンスホテルとなっている。

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橋の反対側にはボートハウスが見える。本文ではここで40代のボート屋の親父と言葉を交わしている。今日そこを覗くと英語で『Boat House』と書かれた建物がある。昔は外国人がボートに乗っていたのだろうか?ボートを漕いでいる人がボートハウスに近づいて来る。絵画の中にあるような長閑な風景である。

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弁慶堀は1637年に弁慶小左衛門という者が築造した外堀。日曜日の午後にこの堀を眺めていると実に気分が良い。

(4)豊川稲荷
橋を渡るとサントリー美術館がある。現在休館中。2006年には別の場所に移るらしい。青山通りを上る。鹿島の本社は横に2号館を建てている。景気は良くなったということなのだろうか?

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豊川稲荷の門が見えてくる。江戸時代には『伊勢屋』、『犬の糞』と並んで多いものに『稲荷』が挙げられている。それほど多かった訳は諸大名が屋敷神として稲荷を勧請したからだという。豊川稲荷は順徳天皇の第3皇子によって感見され代々受け継がれ、1441年に豊川の豊川閣妙厳寺に奉祀された。ということでこの稲荷は神社ではなく、仏閣なのである(だから鳥居はない)。赤坂の稲荷は東京別院であり、江戸時代に大岡越前守が生涯守護神としたインド神、荼枳尼真天を祭っている。本殿の額にこの神の名前が掲げられている。

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大岡家の屋敷はその後赤坂小学校(通りの反対側)となった。当然稲荷もそこにあったが、1889年に現在の場所に移った。(本文の中で1929年に移ったとしているが、これは間違いでは?)

境内には沢山の狐の像が置かれている。実は私は子供の頃この近くに一時住んでいたことがある。友達と一度ここに遊びに来て、あまりに狐が多かったことと薄暗かったことで非常な恐怖を覚え、それ以来二度と足を踏み入れなかった記憶がある。ということは今回の訪問は実に35年ぶりかもしれない。

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歩いていくと千日のぼりが沢山はためいており、相変わらず狐の像が多い。子抱き狐などと書かれたものもある。尚お供えの油揚げはお狐さんとは関係なく「イナリのナリは、物や生命を生み出す神」のことで、農業や商売繁盛の関係。油揚げをお供えするのは、揚げ物には蛋白質や脂肪が含まれていて体に良いという理由からとか。

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(5)高橋是清記念公園

豊川稲荷の横は赤坂御用地。ここで通りの反対側に渡る。あの羊羹の虎屋本店がある。16世紀後半、時の後陽成天皇に和菓子を納め、その後朝廷御用達の老舗である。明治維新後東京に移り、赤坂に居を定める。今も虎屋の羊羹といえば一番である。先日虎屋17代目の黒川さんが『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』という本を出された。読んで見ると水戸黄門に饅頭を届けたり、吉良上野介にカステラを納めたりしている。

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 更に青山方面に向かうとビルの前に大きな石が置かれている。石を覗き込むと『草月』の文字。草月流生け花は1927年に勅使河原蒼風が創設。個性を重んじる生け花で、国際化にも努めた。当日は休館で見ることが出来なかったが、庭にはイサムノグチの石庭もある。因みに義母はお花の先生であり、以前中国の要人が来日した際、その夫人が生け花に興味を持っていたので、見学させて貰ったことがある。中国語でも対応してくれていた。生け花も国際的なのである。

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その隣に高橋是清記念公園がある。一見普通の公園にしか見えないが、奥行きがある。入って直ぐに東京都の記念碑がある。1936年の2.26事件で高橋が凶弾に倒れた場所がここ。2年後には長男が東京市にこの場所を寄付。太平洋戦争の始まった1941年に公園となる。その後空襲に遭いゆかりの品は焼失したが、母屋は多磨霊園に移築され難を逃れたという。

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高橋是清は14歳でアメリカに渡ったが、途中で奴隷として売られた。逆境に強いこの人の精神はここから生まれたのだろうか?日銀総裁、総理大臣を経験、大蔵大臣には3度なり、3度目には昭和恐慌を乗り切る。『だるまさんが出てきたからもう大丈夫だ』と庶民に言わせる経済のプロ。今日このような政治家、大蔵大臣がいるだろうか?公園の奥にある高橋是清像には謙虚な人柄が滲み出ている。

(6)青山一丁目交差点

青山一丁目の交差点まで歩く。ここは実に懐かしい場所。私は小学校3-4年の1年ちょっとをこの直ぐ近くで暮らした。勿論自宅ではなく、父親の会社の社宅であるが。交差点の所に現在ホンダの本社があるが、35年前には古本屋が1軒あった。私のお気に入りの場所で、しょっちゅう漫画を立ち読みしていた。その横には蕎麦屋があったはずだ。天ぷら蕎麦を何杯も食べた記憶が蘇る。まさかこんな立派なビルが建つとは思ってもいなかった。

昭和40年代の青山は今ほどではないがおしゃれな場所であった。湘南の田舎から引っ越してきた私にとってテレビドラマのロケなどを見ると凄いところに来てしまったというカルチャーショックがあった。女優さんなどが歩いているのに出くわすと自分まで偉くなったような錯覚を覚えた。

我々の遊び場は流石におしゃれな場所ではなく、近くの児童公園であった。そこへ行って見た。公園はあったが、今は子供用ではなく、大人が静かに本を読んでいた。入り口には赤坂消防署発祥の地という碑が建てられていた。昔砂山を築いた砂場が無いのが何故かとても残念。

外苑東通りを南へ下る。都営住宅が見える。来年には建替え計画がある。昔同級生にはお金持ちの子もいたが、都営住宅に住む普通の子も沢山いた。いかにも典型的な昭和30-40年代の住宅が妙に懐かしい。忘れていた同級生の顔なども思い出す。

高度成長期の日本と古き良き日本が交錯した昭和40年代。私の家の目の前で繰り広げられた70年安保闘争(機動隊に追われた学生が血まみれになりながら社宅に逃げ込んだこともある。デモ隊はこの交差点が必ず赤になっていて一晩中足踏みしていた。)、三島由紀夫の割腹自殺(床屋でテレビを見ていると直ぐ近くの市ヶ谷で事件が起こったのをはっきり覚えている)、日教組のスト(小学校に行くと先生が授業に来ない、自習が続く不可思議さには今も首を傾げている)など。自分も歴史の証人になった気分。

(7)旧乃木邸

やがて旧乃木邸へ。乃木希典は長州の支藩、長府藩の江戸藩邸に生まれる。子供の頃は弱虫であったという。その後長州の逸材御堀耕助と従兄弟同士という関係で黒田清隆に紹介され、陸軍へ。西南戦争での軍旗奪失事件や日露戦争の203高地で有名となるが、その生涯は歴史の教科書的なそれとは異なりそれほど華やかなものではない。

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明治天皇の死に殉じた乃木は戦前の政府、軍より忠臣として奉られてしまったが、当人には苦しい一生だったのではないだろうか?西南戦争でも敗走し、旅順攻略でも多くの兵隊を死なせてしまった。司馬は大傑作『坂の上の雲』の中で乃木の無策を描き、大山巌が児玉源太郎を乃木の代わりに指揮官に指名する場面がある。

児玉の凄いところはその命令書を出さずに乃木から指揮権を奪ったこと。しかしそれは乃木自身分かっていたのかもしれない。内心ホッとしていたのでは?こんな不謹慎な事は戦前絶対言えないことであった。それが大東亜戦争を招き、そして日本を破滅させたのである。

司馬にはもう1冊『殉死』という乃木を書いた作品がある。その中で『乃木希典は軍事技術者としては殆ど無能に近かったとはいえ、詩人としては第一級の才能に恵まれていた』と書き、ドイツに留学する前の彼は『乃木の豪遊』といわれるほどに遊郭に出入りしていたとある。かなりイメージが異なる。

西南戦争での軍旗奪失事件(彼は自責の念が強く、自殺する雰囲気が強かった)とドイツ留学により乃木という人物像が出来上がり、そして203高地後のステッセルとの歴史的な会見で確定した。見事なまでに軍事的に無能で、また見事までに詩的な人物である。

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乃木邸はヨーロッパ外遊後明治35年にフランスで見た連隊本部の簡素で機能的な建物を模して、ここに建造した。現在邸内に入ると右手にはレンガ造りの馬小屋が見える。母屋が木造なのに馬小屋がレンガ造りと評判になったそうだ。

母屋は外から中を覗くことが出来る。殉死した部屋もある。全てが簡素な造りである。土地が傾斜しているので台所は半分地下に埋もれている。母屋の横には乃木将軍と少年の像が建っている。将軍が金沢で出会った辻占売りの少年とのエピソードが書かれた板がある。乃木が無能であっても人々に愛されたことがこの像からも分かる。

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(8)乃木神社

母屋を下ると乃木家の社がある。先祖と共に日露戦争で亡くなった2人の息子も祭られている。庭には他に『乃木大将夫妻?血之処』と書かれた碑もある。自決した際の血の付いた遺留品を埋めた場所である。天皇に殉じるということが極めて重い出来事であることを表している。尚この邸は遺言により東京市に寄贈された。

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裏門を出る。そこに乃木神社が建てられている。乃木坂は昔幽霊坂と呼ばれていたが、1923年に神社が建てられた際、赤坂区議会の決議で乃木坂と命名される。本文は言う。日本には地名、駅名、空港名などに人名が使われる例は希である。乃木坂はその例外であると。(その後千代田区を歩いていると東郷平八郎の屋敷跡脇に東郷坂があった。小さな坂で有名ではなかったが。)

神社は広くは無いが、本殿は涼やかな様子で建っている。昭和20年の空襲で全て焼失したもののその後直ぐに再建されている。横に展示館があり、中には将軍縁の品々が保管されている。生前読まれた詩、殉死時の刀、中国に建てられた碑のコピーなどが展示されている。殉死した日の朝、夫人と収まった写真もある。

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彼は彼なりの人生を生き抜いたのであろうが、後世の人々、特に軍部の悪意に利用された。乃木が西南戦争で軍旗を奪われた際にあまりに自責の念に駆られた為、その後軍旗は神聖なものとなり、旗を奪われた者は死をもって償うようになる。またあれだけの兵を死なせたにもかかわらず、罷免もされずかえって昇進している様子はその後の軍首脳部の無責任体質に繋がったかもしれない。それでも乃木は満蒙開拓団を見捨てて逃げ出したりはしなかったと思うが。

神社には乃木夫妻が祭られているが、ここには乃木の為に命を奪われた全ての人々が祭られているような気がする。

(9)氷川神社

乃木坂を下る。赤坂中学の横を通る。昔学生時代に家庭教師のバイトをしたことがある。週2-3回松戸にある家に通った。時給が良かったのと夕食が出たから続いたのだと思う。その子は赤坂中学に越境入学をしていた。何の為かは知らないが、松戸から赤坂まで毎日通っていたのである。そして帰宅すると私が待っている。今にして思えば彼は大変だった。何となくそんなことを20年ぶりに思い出した。急に歳を取った気分になる。

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乃木坂から赤坂通りになって直ぐに右へ。地図も見ないで目的地を探す。高台へ上がるだけだから簡単だと思ったので、本氷川坂という結構急な坂道を登る。午後の陽が降り注ぐ。上り切ると氷川神社の裏に出る。鬱蒼とした森にでも来たかのように急に陽が翳る。

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氷川神社は八代将軍吉宗が1730年に建立した。本殿は木造銅板葺き、極めて質素な造りは吉宗らしい。周りも実に静かで一つ木通りなど賑やかな赤坂とは一線を画する。鳥居の外側には樹齢400年を越える大銀杏がある。神社が建立される前、この地は三好浅野家の屋敷であった。あの赤穂浪士の浅野内匠守の奥方瑤泉院の実家であり、彼女は夫の切腹後亡くなるまでこの地で過ごした。ということは恐らくこの銀杏を見ていたのであろう。いや銀杏が彼女を見ていたのかもしれない。

また何故か包丁塚という塚もある。この界隈には味覚自慢の料理人が多数いたということで建てられたとある。赤坂は確かに今でこそ有名料理屋などが沢山ある高級な場所であるが、明治時代までは寂しい所であったから勝海舟などはこれを見たらビックリするかもしれない。

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海舟は維新後この神社の直ぐ近くに住み、『氷川清談』を表している。海舟といえば咸臨丸でアメリカへ行き、江戸城無血開場を西郷隆盛と談判している。この時も本赤坂下に住まいしていた。亡くなった場所は氷川小学校(今は学校も無くなり老人養護施設)になっている。この神社の祭りは江戸の祭りらしい華やかなものだという。

 

 

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