みちのく一人旅1997(1)遅れた新幹線と棟方志功

〈みちのく一人旅〉 1997年11月17-20日

1996年4月、7年ぶりに日本に戻った。これまでアジア各地を歩いてみたが、日本に戻ったからには日本を旅しようと思った。古来日本人はふらっと旅に出ることがよくあったと書かれた本を読んでいた。私もふらっと、計画のない旅に出よう。初めての旅はやはり東北であろう。何故か東北??

11月17日
1. 出発 (1)トラブル
それは突然だった。11月に入り、休みが取れそうだと分かり、直ぐに決断した。部長に言うと『皆同じ時に休もうとするので困るんだ、お前は偉い』なんて褒められた??確か誰にも言わなかった。かみさんには4-5日留守にするとだけ告げた。

それでも流石に不安がある。前日取り敢えず新幹線の切符だけは買った。7時半の盛岡行き。当時東北新幹線は盛岡止まりであった。そこから先はその場で決めていこうと思った。それでも出来れば下北半島に1泊、津軽半島に1泊、青森に1泊程度は考えていた。

当日の朝、通常の出勤とほぼ同じ時間に家を出た。私服であることが何となく恥ずかしい。東京駅までいつもと同じように来る。ところが新幹線のホームに行くと何かがおかしい。予約した列車が来ていない。どうしたんだ??駅員に聞くと『隣の列車が一番早いから乗って。座席はどこでもいいから』と言われてしまう。乗り込んで座っていたが、7時半になっても出発しない。いつもならイライラする私であるが、今回は計画がないのであるから急ぐ必要もない。しかし乗っている人も多くはない。どうなっているか??

ようやくアナウンスがある。『電気系統の故障です。全線復旧の目処は立っていません。もう直ぐ1本だけ発車させますが、いつ到着するかは分かりません。ご了承下さい』と。え、え、しかし今更旅行を止める気もない。どこか他の所へ行こうかと考え始めた時、私の乗った列車が動き出した。初めての一人旅は波乱の幕開けである。

(2)新幹線内
私が予約したのは一番早く盛岡に着くやまびこであったが、出発した列車は全くの各駅停車となっていた。大宮、小山、宇都宮あたりまでは山の手線並みのスピード。乗っていたサラリーマンは出張先に携帯電話で何度も謝りを入れている。結婚式のために仙台に行く人も到着できそうにないことを伝えている。

列車は完全に数珠繋ぎになっているようだ。那須塩原、新白河、郡山、福島あたりは何とか通り過ぎた。しかし新幹線の駅もこんなに多いのかと勉強になった。そして新幹線が通っていく風景は本当に田舎なのだと実感できる。いつもであればさっと通り過ぎてしまい、二度と見ることが出来ない光景がゆっくり目の前を通り過ぎるのは一種の快感ですらあった。

しかしいくら予定のない私でも仙台まで4時間も掛かればそうも言っていられない。大半の乗客は既に降りてしまっている。仙台あたりには空港もないのか、皆我慢して乗っていた。古川、くりこま高原と来るともう尻が痛くなってきた。そして朝から良くなかった天気も段々悪くなり、曇りが濃くなる。一関に到着した時、『30分ほど停まります』という絶望的なアナウンスが響く。乗客の溜息が聞こえる。私達は何か悪いことでもしたのであろうか??数人がホームに下りる。これまでも駅毎にホームに下りて伸びをしてきたが、今回は数人が反対側のホームまで行く。そして駅弁を買ってきた。

私はこれまでの数時間、空腹ということを忘れていた。事の成り行きに神経を集中していたとも思えないが、昼飯を食べることを全く考えなかった。しかし人が買っていると自分も買いたくなる。時刻は1時を過ぎている。駅弁の数も少なくなっていた。冷えた弁当を食べて、前途を思うと悲しくなってきた。実は私は仙台まで来たことはあったがその先は未知の空間である。江刺水沢、北上などの地名を見ると東北に来た気分になる。そして何より窓の外に雨が降り、それが雪に変わりそうな気配を見て、11月の東北に来たことを後悔し始める。

新花巻を過ぎた時、既に乗車から6時間が過ぎていた。盛岡まで3時間弱で行ける筈だったのに。そして時刻表を見て乗り継ごうかと思っていたと特急もどうなってしまったかわらない。どうしたもんだろうか??どうにでもなれ。かなり投げやりな気分になる。やはり全く初めての体験でパニクッていたのかもしれない。外が寒そうだったので、急に温泉に入りたくなる。丁度来た車掌さんに聞くと『浅虫温泉がいい』と言う。どこにあるのかと思って地図を見ると青森の近くである。しかしどこがいいか分からないから言われた通りしようと思う。盛岡に着くと特急青森行きが待っていた。

(3)浅虫温泉へ
盛岡駅で雪になる。こんな状況で宿も決めずに浅虫に行って、もし立ち往生したら死んでしまう、そんな気分になる。それ程寒い、気持ちも冷えている。ガイドブックを初めて開く。浅虫温泉の欄を見ると一番最後にひっそりと『椿館』という旅館が目に留まる。棟方志功が版画を彫った場所と書かれている。

かなり高級な旅館らしい。電話するとおかみさんと思われる女性が出る。部屋はあるという。私は一人旅であることを告げ、そして『出来るだけ安く泊まりたい』と思い切って伝える。アジア旅行では直ぐに値切る私であるが、日本国内でしかも高級旅館で値切ってよいものか全く分からなかった。おかみさんはちょっと驚いた様子であったが、『1万円で如何でしょうか??』と聞いてきた。高いのか安いのか良く分からなかったが、ガイドブックでは1万5千円からとなっていたので、了承する。

特急に乗り込む。新幹線より大分暗い感じ。そして乗客は殆どいない。そうなのだ、11月中旬の東北北部。必要のない人は出歩いたりはしない。車窓から見える景色も稲刈りもとっくに終わった丸裸の田んぼが目立つ。

しかし浅虫温泉と言う名前は変わっている。江戸の放浪家菅江真澄は1788年にここを訪れ、『温泉で麻を蒸したので麻蒸という。火を使う文字を嫌って浅虫と呼ぶ』としている。青森湾に面した海岸線は風光明媚だそうだ。

津軽出身の作家太宰治は名著『津軽』の中で、浅虫温泉に厳しいコメントを寄せている。『井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さな妙な高慢を感じて閉口』『故郷の温泉であるから思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせにどこかすれているような、妙な不安が感じられてならない』など。しかし太宰は故郷を愛していたと思う。かなり複雑なハニカミを表しながら。

3時間弱掛かったろうか?はっきり言ってフラフラになりながら駅に降り立つ。何だか夢敗れた青年が故郷に戻ってきた気分か??降りた乗客も殆どいない。小雪が舞い散っている。北の台地に立ったのである。小さな駅を出ると人が待っていた。昔テレビで見た温泉旅館の前掛けをして、椿館と書かれた幕を持った男性が『よくいらっしゃいました』と言って出迎えてくれた。確かに良く来たもんだ。

旅館のバンに乗る。2-3分で旅館に着いた。小さな町らしい。玄関にはねぶた祭りのねぶたのミニュチュアが飾られている。棟方志功の作品であろうか??玄関脇にも2階へ上がる階段にも版画が飾られている。迫力のある鯉が描かれている。これが棟方志功の作品??本物??あまり知識のない私は目を白黒。あまりにもさり気無く飾られている。

『もしトイレが部屋に付いていなくてもよければ7千円でいい』と言われる。この旅館が7千円。立派な畳の個室でしかも1泊2食付き。信じられない値段である。夜中のトイレが近いことと既に値切ってしまった後ろめたさから、1万円支払うことにする。

(4)椿館
椿館は浅虫最古の旅館である。しかし何時出来たのか分からない??江戸時代にはあったと思われる。浅虫温泉が発展を遂げるのは1891年に東北本線が開通してからだと言う。青森市から24km、夏泊半島の付け根。避暑に訪れる人、湯治に訪れる人、様々であった。

太宰治の母も湯治に来ていた。1924年頃中学生の太宰も受験勉強の為にこの地に滞在した。その時泊まっていた宿がこの椿館である。そしてしかし太宰の辛口コメント中では『旅館は必ずしも良いとは言えない』となっている。椿館のホームページでは『少しばかり、大人びて育った彼の目に浅虫は自分とどこか似た姿の温泉に映ったようで、だからこそ、あえて作品中では悪口めいた表現を用いておりまする』となっているのが面白い。

部屋は8畳はある和室。かなり品が良い。通常は3-4人で泊まるのであろうか??兎に角体が冷えていたので直ぐに風呂に行く。午後5時半頃であったろうか??内風呂は照明を落として落ち着いた空間となっている。外は暗くなっていたが、雪がちらついている。手足を伸ばして温泉に浸かる。徐々に暖かさを感じる。極楽である。今日一日は長かったが、最後に幸せを掴んだ。

一枚ガラスの外に露天風呂があった。ドアを開けると冷気が吹き込んできた。しかしここまで来たら外へ出るしかない。こじんまりした岩風呂である。急いで湯に浸かると暖かい。体中に沁み込む暖かさがある。雪の中で露天風呂に入るのは初めてであるが、こんなに気持ちの良いものだとは知らなかった。癖になりそうである。

ふと横を見ると『明治9年に明治天皇が東北巡行の折ここを訪れ温泉に浸かった』とある。本当に由緒ある旅館に泊まったことが分かる。しかしそこへ子供が入ってきた。どうやら地元の子供達である。知り合いか何かではないか?大人も付いている。銭湯感覚でこんな由緒ある温泉に入れることは実に羨ましい。

夕食は仲居さんが部屋に運んでくる。私だけの為。料理はよく覚えていないが、暖かい汁が付いていて美味しかった記憶がある。仲居さんは珍しそうに私を見ながら少し話していく。確かにこんな雪の日に一人でいきなりやってきた私はかなり怪しい人間である。探りを入れていたかもしれない。そんなこともお構いなく『明日どこへ行ったらいいでしょうね??』などと聴く私は益々怪しい。『青森に行って三内丸山遺跡でも見たら?』と言われたのでそうしようと思う。本当に私は明日の計画を持っていなかった。今日の新幹線騒動で頭にあった全てが飛んでしまっていた。尚新幹線の混乱はその日一日続いており、東北新幹線開業以来最悪の事態になっていると言う。電気系統の故障があると文明国家日本も形無しである。

(5)棟方志功
日本を代表する版画家、棟方志功は1903年青森市の善知鳥神社のある善知鳥村に生まれた。善知鳥は外が浜に住む伝説の鳥の名である。室町時代には既に京で能として作られていたが、志功は知らなかったようである。小さい頃から独創的な絵を描いていたが、周囲からは全く理解されなかったという。21歳で東京に出て、独学し、25歳で帝展に入選。その後柳宗義、陶芸家浜田庄司などの知遇を得る。

椿館については、そこを仕事場にしていたこともあったようで、昭和17年に書かれた『板散華』に中に次のようにある。『私のいる椿の湯宿に立派な庭がある。盛岡の庭師を引き具して、今の若い主人の蝦名氏の祖父が、精魂いれて造り上げたものだと聞いた。現在も先代の未亡人が一本一本の草を育て、そのように要らぬ雑草を摘んでいるのだ。ここの湯名になったという大椿が離れて二株ある。一株は先年の冬、暴風雪に枝を取られて形をこわしたのは残念だが、布石の至妙はこの庭に名をなさしているのだ。明治天子様の御野立ちの場所は清浄され、柵されて、洩れる床しさを、外から拝しての朝夕を、勿体なく、畏し普く、合唱している。この由緒の庭にいろいろの鳥が来て囀る。鶯も夏には来るというし、私は鳥の名は知らぬが、スッピッチョン、スッピッチョンと鳴く毎朝同じ時刻障子そばに来る鳥と馴染んで仕舞った。丁度夏で、蝉が時雨のように日中騒いでいるし、夜はまた虫の音がとりどりだ。今も鳴いている。私は椿の湯宿が好きだ。今の主人は若く、明るい人だ。椎茸の栽培に腐心しているというので、そのことの談義にはいつも顔が輝く。家前の一と山、所謂馬場山づたいの自分の持ち山には、椎茸林がどこまでもつづいている。それからもう一つこの由緒の湯宿に勝れた厚板一枚の看板がある。実に立派な字だ。書き手は不明なそうだが、厳かな内に開きを見せた正しい楷書で、実際見事に椿旅館と三字、謹厳に書いている』

また『板極道』では東急の五島慶太氏の知遇を得る過程を書いている。副社長の高橋氏が青森市長と面談した際、棟方の版画を見せられて驚き、版画を求めようとすると『浅虫温泉の椿館にあるというので直接出向き、3点の所蔵品を見たが買い取ることは出来なかった』とある。

現在椿館には棟方志功展示場が設けられているが、そこにある版画が所蔵品であったのだろうか?尚志功の墓は青森市の三内霊園にある。この霊園は造成中に遺物が出てきたと言う。司馬遼太郎は『街道をゆくー北のまほろば』の中で『棟方志功はその縄文遺跡の中で眠っている』と書いている。

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