《深夜特急の旅-バンコック編2003》

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

今回は香港を離れ、ミャンマー旅行の帰途バンコックに立ち寄った。(『深夜特急2』)

1.2003年8月 ドムアン空港から市内(P11-26)
(1)空港内

私が初めてバンコックに行ったのは、今から16年前の1987年2月。当時は沢木さんが訪れた時と同じように、バンコックの空港は税関を抜けると、沢山のタクシー運転手、自称ガイドなどが居り、通り抜けるのに苦労するなどかなり雑然としていた記憶がある。また照明も暗く、吹き上げるような蒸し暑い印象があった。
今回久振りに来て見ると、空港内は格段に明るくなっており、午前便であったせいか到着ロビーに人影は無く寧ろ寂しい感じであった。

沢木氏は人に押されるように両替もせず外に出てしまったが、私は先ず両替をした。ふと後ろを振り返ると、ホテル案内カウンターでおばさんがこっちに来いと手招きしている。今日はチャイナタウンに泊まるつもりであったので、聞いてみると『チャイナプリンセスホテルが良い、2,000バーツだ。』と言う。ところがホテルに電話すると2,400バーツの部屋しかないとのこと。そしてそれを断るとこちらの言い分も聞かず、せっせと他の高いホテルを勧める。全て断るとそっぽを向いてしまった。ミャンマーの人の良さに触れた後であったので、気分が暗くなってしまう。やはりここはバンコック。

(2)バス

沢木氏は空港の外に出てキャン君の案内で路線バスに乗ったが、私は流石に路線バスに乗るには時間が無さ過ぎた為(本当は怖かったので)、空港バスを利用することにした。勿論30年前に空港バスは無かったと思う。空港バスは市内まで4路線。100バーツ(30年前の路線バスは1バーツであったが、今では路線バスでも20バーツはするらしい。1バーツは約日本円3円。)。案内場で聞くとチャイナタウンはA2と言われる。但し直接行かないので、途中で降りてタクシーに乗れとの指示。

椅子に座ると目の前に道が見える。残念ながら路線バスの停留所は見えないが、走っているバスは見える。エアコンなし、窓を開けている。これで30度以上の気温で30分乗るのは辛いと感じた。

待つこと15分、小奇麗なバスがやってきて、西洋人と日本人のバックパッカー達が乗り込む。座席は広く、エアコン付きで快適。バスは第1、第2、国内線ターミナルに停まった後、高速道路へ。勿論30年前に高速などは無く、空港前の道路の上を覆うことは無かった。ソニーの大スクリーン3台が目を引く。その他、相変わらず日本の会社の広告が並ぶ。30年前はどうだったろうか?流石に日本のプレゼンスはここまで高くなかったのでは?

10分も行くとセントラルプラザがあり、タイ航空本社があり順調に流れて行く。沢木氏がバスからの風景を全く描写していないのは、キャン君との話しに夢中になったのか、見るべきものが無かったのか?どちらにして田んぼか畑だったのだろう。

高速を降りると大渋滞が待っていた。10年前のバンコックが蘇る。100m行くのに10分掛かる。30年前とは車の数が違う。タイも97年の経済危機以降、渋滞が無くなっていたが、最近景気がよく名物復活だ。

2.ホテル(P26-34)

予定の40分をはるかにオーバーして2時間弱でチャイナプリンセスホテルへ。ここはチャイナタウンの真ん中である。空港のおばさんの話はやはりまやかしで、1,800バーツで難なくチェックイン(危うく600バーツも抜かれるところだった)。21階の素晴らしいビューの小奇麗な部屋であった。沢木氏が最初に100バーツで泊まったゴールデンプラザは何処にあるのだろうか?(手掛かりが無く探すことは不可能)

沢木氏が移った2つ目のホテルは『シープヤ通り』にあると書いてあったが、ホテルのフロントに確認すると皆一斉に首を振る。その内1人が『スリパヤ通り』の間違いだろうと言う。本を読み返すとどうもこの通りのようである。

このスリパヤ通りは地味な通りで、これといったものは無い。バンコックの住宅街といった感じ。少し横道に入ると30年前からある麺屋は確かにあった。勿論西洋人は奥に居なかったが。タイ人が泊まるような木賃宿は残念ながら見つからない。この道の良い所は立地であろうか?

3.バンコック駅(P69-73)

バンコックが性に合わないと感じた沢木氏はシンガポールへ向かうため、バンコック中央駅へ行く。現在バンコック中央駅という表現は使っていないようで、呼び名はファランポーン駅である。かなりごちゃごちゃした駅前を想像していった私は、あまりにも整然としている駅を通り過ぎてしまった。歴史的な建造物の1つといった感じで、駅は佇んでいる。中も非常に綺麗で申し分の無いバンコックの顔である。東京駅よりよほど綺麗である。

ツーリストインフォメーションも各所にあり、日本語すら通じそうだ。中央に大量の椅子があり、多くの人が座れる待合場所もある。日本人の若者(バックパッカーにしてはきれいな身なりが多い)が沢山座っている。今も深夜特急の旅をしているのだろうか?

改札口から覗くと、列車も小奇麗なようだ。30年前とは全く異なる風景であろう。外へ出ても駅前のマーケットなど無く、ましてや崩れかかったバラックで店を出しているなどありようも無い。深夜特急ではしばしば子供が登場し情感をそそるが、ここの場面に登場する屋台の6-7歳の男の子の毅然とした態度には胸を打たれるものがある。我々は良く『騙されてはいけない』と思う。実際に今日も空港のおばさんに騙されそうになった。しかし善良な人は居る。子供の場合、自分のしていることが分かっていないケースもあり、対応に苦慮することもある。『人間を信じるべきか?』これは生涯のテーマとなっている。また『人に媚びない人生』は重要であろう。彼はそれを知っている。2巻の名場面だが、今は何処に。

そんなことを考えて駅前を歩くと、『何処に行きますか?』と可愛らしい女性が日本語で話しかけてくる。また騙そうとする人が来たのか?現実は甘くない。

4.チュラロンコーン大学の雨(P36-38)

スリパヤ通りを東に抜けると、ラマ4世通りとぶつかる。その北側にはタイの名門チュラロンコーン大学がある。沢木氏はここの学食で良く食事をしたと書いていたので、行ってみた。

校門を入ると右手ではサッカーに興じている学生がいる。周りの学生を見回しても制服を着ている人はいないので、廃止されたのだろう。校舎は4階建てぐらいで、敷地はかなり大きい。食堂が何処にあるのか分からず歩き回ると、雨が降ってきた。屋外の食堂(?)が目に入る。夕方と雨のせいか、テーブルの上はきれいに片付いており、沢木氏が指摘した金持ち学生の飽食の様子は見られない。

雨宿りの為、校舎に入ると数人の学生が出てきた。男子学生が小走りに飛び出すとホンダの新車を運転して戻り、女子学生が乗り込む。隣では彼氏でも呼んでいるのか、やはり女子学生が携帯電話を使う。(携帯は写真付が流行だそうだ。)
オープンスペースのテーブルでは、ノート型PCを打つ者などもいて、全く日本の学生と同じ状況だ。30年前も名門、お金持ち大学であった同校は現在もタイの繁栄を独り占めしている印象がある。

ところで降り出した雨が小雨となり校外に出たが、また強くなりバス停で雨を避けた。しかしあまりの勢いに庇も傘も何の役にも立たない。自然のパワーを味わった30分であった。どんなに繁栄しても自然には勝てないことを教えようとしているかのスコールであった。

5.ムエタイ

夜タイ式キックボクシング(ムエタイ)を見に行った。ルンピニスタジアムでは週に2日以上行われているようで、土曜日である本日は2回の入れ替え制である。窓口へ行くと日本語で話しかける女性がいる。日本人に高い席を売る担当のようだ。1,500バーツと800バーツの2種類しかない。沢木氏が見た3階席(?)は本日は無いとのことで、800バーツの2階席とする。(1,500バーツは1,200バーツに値下げされたが、断った。)

入ると懐かしいスタジアムだ。昔日本のTVで真空飛び膝蹴りの沢村忠をよく見たのを思い出す。残念ながら試合はどれも判定であまり面白くない。(試合は1R3分、5R制。全部で十数試合あり、8時半から11時過ぎまで開催。)しかし30年経っても、ある一角だけは異常に盛り上がっている。やはり例の賭け屋は存在していた。まるで証券市場の場立ちか市場のセリのように、手を動かして賭けをあおっている。とうとう最後まで仕組みはわからなかったが、この熱気は面白い。私は以前もムエタイを見たことがあったが、このようなことが行われているなど全く知らなかった。沢木氏の観察力には鋭いものがある。(私がボーっとしているだけ?)

その異様な一角を除くと客は観光客ばかり。1階席には日本人が多く、館内ではタイ語、英語と並び、日本語での放送もある。この日本語がはっきり言って上手くないのだが、意味だけは良く分かるのに驚く。2階席は西洋人が多い。皆興味津々で見ている。ルールが分からない人も多いようだ。ノックアウトシーンが無い為か、1階、2階とも静かな観戦で、異様な一角が際立つことになる。3階席は存在しているが、誰もいない。がらんとしたその空間を見ているとムエタイの人気の程が分かり、リングで一生懸命やっている姿が妙に悲しい。

6.チャイナタウン

沢木氏はワットポーで知り合った中国系の男とチャイナタウンに来て、彼の家で飯をご馳走になる。その後も何回か訪れたようだが、香港ほどの熱気が無くあまり面白くは無かったようだ。

現在この町も小奇麗になっている。昼間大きな通りに面した麺屋に入り、日本のひもかわのような麺(河粉)を注文すると上に鴨肉、モツ、内臓が豪華にのった汁そばが登場。これが実に美味い。スープはとりで出汁を取っており、香菜、ネギ等で風味も抜群。これで幾ら取られるのかと心配したが、御代は30バーツ(90円)。

夜11時過ぎに歩いてみると、多くの屋台で賑わっていた。もう一度今度は屋台でうどんを細切れにしたような麺を頼む。これも美味しかったが、御代は40バーツという。怪訝な顔をするといきなり『大盛りは40バーツなんだよ。』とオヤジが北京語で捲くし立ててきた。こちらは大盛りなど頼んだ覚えも無く、反論したが聞く耳を持たない。最後に『大した金ではない』とオヤジが言ったので、無言で払って帰った。最初からオヤジは勝手に多く取るつもりでいたのだ。『俺はこんなに苦労しているのだから、同胞人として10バーツ多く出すのは当たり前だ。』といっているようだ。どこか沢木氏の会ったあの中国系の男に重なるものがあった。(私は同胞ではないのだが?)

7.ワット・ポー(P40-44)

ワット・ポー、正式名称はワット・プラ・チェトポン、別名は涅槃寺。ホテルで貰った地図にはワット・ポーの名前は無く、正式名称で表示されている。
18世紀の終わりのラマ1世の時代に、10年以上の歳月を掛けて建立されたこの寺は、バンコック最大の敷地を持つ。敷地内は幾つも四角く区切られており、日曜日の朝ということもあり、多くの子供がタイ踊り、楽器などの練習をしている。お寺は非常に身近な存在と思われ、おじいさんが孫の手を引いている姿も目立つ。

寺の後ろの方には、確かに幾つも堂があり、近くに大きな木がある場所もある。沢木氏もこのうちの一つで、法事を見学し、女子学生達と言葉を交わしたのだろう。今でも変わり行くバンコックにあって、30年前の面影を留めている場所といえる。

因みに日本人観光客は、入り口を入り直ぐにある涅槃物を見学してそのまま帰る。これではこの寺の良さは分からない。どうして日本人は名所に行き、名物を見ることしか頭に無いのだろうか?(私は涅槃物見学代150バーツを払わず、敷地内を無料で見学)そういえば、この寺はタイマッサージの総本山でもあるとか?時間があればトライすべきであった。

ワット・ポーよりチャオプラヤ河の岸沿いに行くと、対岸にワット・アルンが見える。朝日を浴びたワット・アルンは確かに荘厳な感じがした。アット・アルンといえば、三島由紀夫の小説『暁の寺』であろう。これは三島の最後の作品4部作の3番目で輪廻転生がテーマだ。そういえば、ミャンマーであったウラミン氏が、1970年に研修で東京市谷に滞在し、三島の自決を見て驚いたと話したのを思い出す。小学生の私もその時青山におり、程近くにいたことに驚いたばかりだった。

王宮付近も今日は日曜日ということもあり、観光客と参拝の人以外は閑散としており、露天市場も無い。タイ人のガイドから、『タイ人か?』と声を掛けられるほど顔が黒くなっているようだ。たった1泊だったが、今回のバンコックは今までと違うこの街を体験できた。これも深夜特急の旅ならではであろうか?
そろそろ香港に戻ろうか?

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