マカオ歴史散歩2004(3)ザビエルと洋館1

【超番外編】2004年12月24-27日

ある日マカオを歩いているといきなりフランシスコザビエル通りに出くわした。そうだ、ザビエルもマカオ縁の人間だった。ザビエル教会もあった。そして先日ザビエルの骨を安置している聖ジョゼフ教会を訪れた。その骨を見ていると本物かどうかは別にして私は何故かザビエルの強い興味を抱いた。そしてクリスマス直前突然思い付いた、ザビエルの死んだ島へ行こうと。

1.マカオ 
(1) クリスマスイブのミサ

24日のイブの晩、仕事を終えると早々に会社を飛び出す。マカオフェリーは何故か空いていた。この旅がスムーズである予感がする。

マカオはイルミネーションがきれいであった。返還5周年が過ぎたばかりであり、また来年は12の建物を世界遺産に申請する予定であるマカオはクリスマスのライトアップに特に力を入れている感じである。セナド広場などは人で溢れかえっている。

夜10時、民政総署脇から教会街へ。聖オーガスティン教会は既に人が溢れ出しており、入り切れない人々は外でじっと立っている。そこに居ることがミサに参加していることなのであろう。よく見るとフィリピン人のアマさんらしい人が目立つ。男性も中国系でない人が多い。ここマカオでも香港同様に外国人労働者の地位が低いということか?教会の中にはマカオ人が居るのであろう?

そして更に歩いて聖ジョゼフ教会へ。ここにはフランシスコザビエルの右腕の骨が安置されている。クリスチャンでもないのにここのイブのミサに出てみたいという思いでやってきたのだ。ところが残念ならが時間が早すぎたのか門は固く閉ざされている。ザビエルに拒絶された気分である。

少し離れた場所に前回入ることが出来なかった聖ローレンス教会の裏門がある。見ると開いている。恐る恐る中へ。誰も居ない。教会の建物も見事に開け放たれているが人が居ない。独り占めである。非常に荘厳な感じのする教会である。

庭もよく整備されている。ライトアップされた建物も古いが実に趣がある。1803年に再建された石造りの建物である。正面から見ると左に時計、右に鐘があり輝いて見える。重みのある教会である。

その後ホテルに戻りテレビを付けると大堂(カテドラル)でのミサを生中継していた。ミサは夜12時からだった。広東語で行われているが、テレビではポルトガル語も流れている。マカオのイブに相応しい。

2.上川島 
(1)台山まで 

翌朝国境を越え珠海へ。バスに乗って行ったところ、バスは地下へ入る。数ヶ月前までは無かった地下バス停が出現した。入り口付近の混雑が緩和されている。マカオはいつも変わっている。

朝9時前の国境は空いており、直ぐに珠海側へ出る。ここからは未知の世界である。珠海は何度も来ているが、長距離バスのターミナルには行ったことが無い。そこは国境の直ぐ目の前にあった。

ターミナルには広東省全域、福建省、海南島など大陸各方面へのバスが出ていた。広州行きなどは1日90便もあるという。かなり大きなターミナルである。インフォメーションセンター??のおばさんに『上川島へはどうやって行くの?』と聞くと『台山で乗り換え』と一言。

台山行きは1日16便、10分後に出ると言う。何とタイミングの良い。しかし台山は何処にあるのだろうか?広東省の地図を見て確認。バスは結構豪華で座席が広い。50元。2時間で到着するという。

バスは10人ほどの客を乗せて珠海の道を走り出す。最初は通ったことのある珠海大橋を渡り、『御温泉』という不思議な名前の温泉地を過ぎる。この一帯は農業を主としているようであるが、観光農園を営んでいる所が多い。見ると『福建省のイチゴ』という看板が多く、中では観光客が子供を中心にイチゴを摘んではしゃいでいる。中国もこういう時代が来たのである。

この辺までは来たことがあるが、斗門あたりは初めてである。方向はあっている、と思うがどの様に行くのであろうか?皆目見当がつかない。するときれいな大きな橋が見える。かなり高い所に掛かっている。全長1,290mの崖門大橋である。渡ると猫山トンネルを潜り、いよいよ台山市へ。

台山市に入ると何となく田舎に来た気分になる。有料道路を降りて都ふ(角に斗)という鎮に入る。ここで数人が下車する。のんびりした雰囲気である。街の外れに出ると古い一角が見える。年代物の建物が見える。これは何であろうか?中国式の建物ではない。これが噂の洋館ではないか?直ぐにもバスから降りたい衝動に駆られる。それは見事な洋館である。刈り取りの終わった田んぼの中にある村の洋館。

バスはそのまま村を通り抜けてしまう。道は極端に悪くなる。揺れが続く。もしここで降りてしまえば、その後どうしてよいか分からない。

(2)台山から

予定通り2時間で台山に到着。郊外では自由に降りていた乗客が市内では下車できない決まりになっている。交通の妨げになるからであろうか?バスは真っ直ぐ北の外れ、バスターミナルへ向かう。

正直台山は田舎町の印象で、特に何かがあるようには思われない。しかしここから先、どうやって上川島に行くかも分からない為、取り敢えず様子を見ようとバスを降りる。すると丁度目の前に『上下川島行き』という表示が目に入る。これだ、とバスに近づくとおじさんが『直ぐ出るから乗れ』というので勢いで乗ってしまう。

15元払う。こちらのバスには車掌が乗っている。今来た道を引き返す。直ぐに郊外に出て一本道を南下。刈り取りが終わった田んぼの中を走る。途中何人もの客が乗ってきて満員になる。彼らの話している言葉を聞いていると、北の人間もいる。広東語を話す人間もいる。全く分からない方言を話す老人もいる。

時々洋館が見えたりする。まとまってはいないし、古いままの建物であるが、ちらっと見せられると良く見てみたくなる。洋館は開平郊外にあると聞いていたが、この辺りにもポツポツと見られるのは何故であろうか。

45分ぐらい乗っていると広海というところに出る。ここで人が結構降りる。地図で見るとここから先は海である。私はこの広海で船に乗れるものと考えていたが、間違いであった。更に15分ほど海岸近くを走り、漸くフェリーターミナル、山咀港に到着する。

(3)上川島へ 

時間は午後1時。腹が減る。フェリーは1時半、見ると港の2階にレストランがある。チャーハンと野菜炒めを食べる。25元、この辺りにしては恐らく観光客料金であろう。しかし腹が減ると食事は美味い。

このフェリーターミナルを寂しくさせているのは、売店に並ぶ浮き輪、海パン、サングラスであろうか?寂しい秋の海岸を思い出す。乗客も少ない。若い中国人カップルが2組、おじさんが数人。

1時半になると制服のお姐さんが先導して船に向かう。何だか時代遅れのバスガイドさんのよう。船は港に数珠繋ぎになっている。50人乗りの小さな船である。空は青く、海は濁っている。船に乗るのに皆前の船を横切って行く。不思議な乗船風景であるが、合理的ではある。1つの船が港に着いていれば後は横付けでよいのだから。

船室は狭いが前は1段高くなっており、特等席3席は全面が見える。その後ろにはビデオが備えられ、最新の香港ポップスを流している。船が動き始めるとお姐さんがバスガイド宜しくお話を始める。が、直ぐに終わる。外は一面の海、話すこともなし。 彼女はその後ずっと携帯電話で誰かと話をしていた。確かにつまらない仕事かもしれないが、困ったものだ。

(4)上川島に上陸 

30分で島が見える。どうやら上川島に到着したようだ。しかしかなりひっそりとした所である。港付近に多少建物はあるが、どう見ても観光地ではない。

上川島、ここは南シナ海にある上、下の川島が中心の川島群島に属する。ということで下川島もある。90年代、この2つの島を第2の海南島にしようと大規模なリゾート開発が行われたが、結果は見れば分かるとおり。勿論夏には近隣の中国人が海水浴に訪れるのでそれなりに賑わうようであるが、香港辺りから観光客を呼ぶことは出来なかったようだ。

フェリーを降りると皆さっさと迎えの車などに乗り込んでしまい取り残される。取り敢えずフェリーの時間を確認して、出てくるとおばさんが一人客引きをしている。ガイドをするという。車もあるという。私は地図も持っていないのだから、このおばさんの話に乗ることも出来るが、こういう旅は私の旅ではない。

おばさんを振り切るが他に客も居ないので、おばさんもしつこい。とうとう道路まで出てしまうと、そこに丁度ミニバスが通りかかり、それに乗ってしまう。何処に行くのか、幾らなのか、全く不明。

バスは近くの市場で客を拾う為停車。その間に車掌のおばさんが『何処に行くの?』と聞いてくる。咄嗟に窓に張っているビーチという単語を見て『ビーチ』と言うと、ちょっと怪訝そうな顔をしたが、『5元』と言って金を受け取る。

5元もするのだから遠いのだろうと思っていると1つ山を越して直ぐに着いてしまった。降りたのは私だけ。しかもビーチといってもそこはどっかの建物の前。入り口を入ろうとすると『チケットを買って』とお姐さんに言われる。

聞くとここはビーチの入り口で入場料25元を取る所。止むを得ず、支払って中へ。一番近いホテルで地図でも買おうとしたが、ロビーに電気は無く、人気も無い。次の建物もその次も同じ。まるでゴーストタウンに紛れ込んだよう。

ようやくビーチの所に出るとお母さんと幼児が遊んでいて初めて人と会う。ビーチはかなり広かった。砂も白かったが、それだけに人が居ない寂しさが出ていた。おばあさんが一人、歩いてきてジュースでも買ってくれという。もうこうなると早く逃げ出したい気分に襲われる。こんな寂しい所はやだア。

(5)ザビエル記念園 

そこへ何故かバイクに乗ったにーちゃんが人の良さそうな顔で登場。『何処に行くんだ?』と聞く。普段はこういう乗り物が嫌いな私は間違いなく避けて通るはずであるが、その時の状況はまさに『藁にも縋る』思い。しかし肝心のザビエルという中国語を知らないと言うことに気付き愕然。中国語の困る所は外来語。どんな漢字を当てているか知らなければ通じないのである。

ザビエルに似た発音をしてみたが通じない。今後は『教会、キリスト教』など連想ゲームのように関連する言葉を並べるとあっさり、『ここから10分で行ける』という。本当に通じたかは疑問だが、もう仕方が無い。10元だそうだ。

バイクタクシーに乗るのは生まれて初めて。大学生の時に友達のバイクの後ろに乗って怖い思いをして以来、一度も乗っていない。因みに私は運転免許書を持っているが、車の運転をしたことも無い。最初ゆっくり走ってくれたが、バランスが悪い。そうれはそうだ。重いリュックを担いでいるのだから。にーちゃんが『リュックを前にしろ』というのでそうすると大分楽になったが、今度はスピードを出す。おまけに山越え。ヘルメットなんて無い。

特に下りは怖い。何とか下るとさっきの市場に出る。そして港と違う北の方に向かう。そこからほぼ平坦な道を5分、にーちゃんが『あれだよ』と言う方を見ると確かに教会らしい建物がある。

助かった、と思ったがそう甘くは無い。その岬の外れのような場所に着くと何と門に鍵が掛かって閉まっている。ここまでの苦労はなんだったんだ?思わず『閉まっている』と口にするとにーちゃんが『大丈夫、上に管理人が居るから』と大声で人を呼ぶ。するとおばさんが降りてくるではないか?

おばさんが門を開けてくれたので、にーちゃんにお別れする。流石に帰りも乗る気になれない。にーちゃんは残念そうであったが、10元貰って引き下がる。きっと10元でもぼっていたのだろう。でもこちらとしてはここまで連れて来て貰い、門を開けてもらったのだから、儲けものである。

おばさんは驚いていた。『どうやって帰るの?一人出来たの?』と聞きながら10元の入場料を取る。私が香港から来た日本人というと『海外から来た人は30元』と言い直す。言わなければ良かったとお互い笑う。嫌な印象は無い。

階段を上がると教会が見える。しかしここにも鍵が掛かっている。おばさんは先に更に上に行けと言う。横に庭があり、管理人室が見える。ここがおばさんの家らしい。子供が遊んでいる。更に上に行けと言う。見ると急な階段があり、上にザビエルの像がある。

階段には第1処という石碑があり、14まである。かなりバテル。すると上から歓声がする。見ると10人以上の子供が居る。何故だろう?小学生ぐらいであるが、気楽に見知らぬ私に声を掛けてくる。『どっから来たの?何処行くの?写真撮るの?撮って?』

この像は1987年に建てられたもの。1639年の文字も見える。ザビエルの記念か?ザビエルが亡くなったのは1552年12月3日である。熱病であったと言う。司馬遼太郎の街道を行くシリーズに『南蛮の道』というのがある。その中でザビエルはバスク人の代表のように扱われているが、その遺体の記述は以下の通りである。

遺骸をポルトガル人は管内に石灰を詰めて納棺し、それを海岸に埋めた。2ヵ月半後掘り返され(生けるが如くであったと言う)、マラッカの聖堂に運ばれ2度目の埋葬。その後遺骸はインドのゴアに運ばれ、奇跡の遺体として1554年3月16-18日に展示された。(貴婦人が右足の第4指と第5指を噛み切って逃げた)1614年にはローマに右腕が送られた。

聖人の骨と言うのは実に数奇な運命を辿るものである。私が聖ジョセフ教会で見た骨は右肩というが、ゴアから運ばれたのだろうか?尚ザビエルの姓はパリ大学入学時に名乗った母方のものである。

ザビエル像はそう大きくは無いが、天に向いて立っている。1987年海外の華僑の寄付で建てられたとある。しかし分からないのは、ザビエルの死亡年を中国語では嘉靖31年と正しく書かれているがポルトガル語では1639年となっていること。

子供達は相変わらず話しかけている。それも全く標準の北京語で。ここに来る人の多くは中国国内のキリスト教徒などであるらしい。華僑も来る。子供達はそんなお客と話すのを楽しみにしている。デジカメを向けると嬉しそうに応じる。何と純朴な。近くの村から来るという。こんな交流が実に楽しい。

下に降りると管理人のおばさんが子供と遊んでいた。自分の子供であろう。教会内に案内してくれると言う。何しろ鍵が掛かっているのである。中に入るとこじんまりしている。壁にはザビエルの旅が書かれた絵が10以上掛かっている。中央奥にザビエル像が置かれ、その前に何と棺桶が置かれている。

棺桶の蓋には1506-1552年(ザビエルの生まれた年と亡くなった年)と書かれている。かなり古いものと見えるが、果たして本物なのか?1周すると側面に康煕38年の文字。康煕38年は1699年、この年は何故書かれているのか?

この教会は普段は使われていないが、先月も日本から人が来てミサを行っていったという。やはり関係者にとっては聖地であろう。横の庭にはモニュメントが建っている。見ると1999年12月3日に山口ザビエル教会がここを訪れ、建てていったもの。その年はザビエルが日本に上陸して450周年、言ってみれば日本キリスト教史の記念日である。

帰りに門を潜ると2人の少年が追いかけてきて手を振る。目が輝いている。

(6)港まで 

バイクタクシーで来た道をとぼとぼ歩いて戻る。リュックを背負っているが、あまり重く感じない。それ程長閑な風景である。小さな漁村がある。小船が日の光に輝いている。大きな木の根元には人が休んでいる。おばあさんとおじいさんが牛を一頭ずつ引いて通る。

小さな畑が点在する。皆昔ながらの手作業である。肥を播く女性がいる。自分達が食べる僅かな野菜を作っている。原点に立ち返る、大切なことである。

村がある。古い家が並ぶ。老人が日向ぼっこしたり、飯を食べている。村の入り口には老婆が数人車座でおしゃべりしている。とても入れる雰囲気ではない。実はこの島にも日本軍が侵攻した事があるらしい。老婆の目は厳しかった。

村外れに小学校がある。さっきの子供達の学校であろうか?入ると古い校舎が目に飛び込む。既に使われていない。中はめちゃくちゃ。しかし歴史を感じさせる。この校舎は何を見てきたのか?

道を歩く。ザビエルもこの道を歩いたのだろう。彼はこの島から中国本土に布教活動に入る許可を貰う途中、亡くなっている。遠藤周作の『王の挽歌』という本に九州の守護大名、大友宗麟の城下にザビエルがやって来る姿が描かれている。

ザビエル神父と3人の日本人信者は大理石の聖像や祭具を入れた布を背負い、45歳の神父は山越えに憔悴し、足を引きずるように府内に向かって歩いた。日本人はみすぼらしい、汗まみれの師を南蛮人の物乞いのように見た。見物人からは嘲笑が起こり、小石を投げる子供もいた。

宗麟の狙いが南蛮貿易にあることも、日本人が外見で人を判断する人種であることも全て承知の上でそれでも布教活動に出向く、ザビエルの姿には素直に感動を覚える。かの大友宗麟が最終的に帰依したのも、このザビエルとのたった1-2度の会見が理由であると言うのだから、本当に凄い。

ザビエルはこの上川島の海べりも同じようにとぼとぼと物乞いのように歩いたのだろうか?現在この島にはキリスト教徒が多く住んでいるようには見られない。歴史に見放された島、それが上川島であるかもしれない。

因みにこの島は辺境にある為、歩いている途中に人民解放軍の施設があり、かなり多くの軍人が駐留しているようだ。島は一面軍で持っているのかもしれない。観光資源としてのビーチを生かし、第2の海南島を目指したリゾート開発も失敗した今、この島の将来は・・・?

港近くに市場がある。覗いてみると何とウサギや鳥と並んで猫の肉を売っている。どうやらこの辺では犬、猫は食用のようである。

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