ダラダラ佐賀まで茶旅2015(10)初めての小倉で焼うどん

9月14日(月)

小倉へ

今朝もまた6時には起き、急いでホテルをチェックアウトして、7時過ぎの山陽本線に乗る。電車には通学の学生、通勤のサラリーマンが大勢乗っており、朝のラッシュ状態。荷物を持ち込み、何とか席を確保する。昨日行った宮島口まではすでにお馴染みとなっており、寝こける。それから30分ぐらいして、岩国で一度下りる。そして下関行きの電車に乗り換える。

 

それから延々、ローカル戦の旅が始まった。光、徳山、防府といった、名前だけは知っている駅が過ぎて行く。降りてみたかったが、今日は小倉で約束が。駅名の中には全く読めない物がいくつかあった。藤生(ふじゅう)、厚東(ことう)、厚狭(あさ)、これらは一体どこからこの読み方になったのだろうか?きっと意味があるに違いないが、今は知る由もない。

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徳山や小野田、宇部などは工業都市として知られており、その付近には工場もいくつか見られた。それ以外は、海が見えたり、田畑が続いたり、山があったりと、山陽の道を楽しんだ。そして乗ること3時間、ついに下関に着いた。今年の大河ドラマ『花燃ゆ』の舞台である山口、来たことがなかったので、もっとゆっくり回りたいという希望があったが、それは次回のお愉しみとなる。

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そして初めて関門海峡を潜り、門司まで進んだ。トンネルを潜るとあっという間に九州に上陸していた。これまで3時間乗り続けていたが、ここの区間は数分で門司、数分で小倉まで到着した。この辺の地理感覚は全く持っていなかったので、あまりにも呆気ない到着となった。

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4.小倉

小倉の老舗茶屋

初めて小倉へやってきた。今日もまたお茶のご縁に引き寄せられた。実は4年前、台北で行きつけのお茶屋さんでお茶を飲んでいると、横で日本人男性が一人、お茶を飲んでいた。『観光ですか?』と聞くと『出張です』との答えで驚いた。平日の午後からゆったりお茶を飲んでいる出張とは?それがT社長との出会いだった。彼の会社はその時、台北に店舗を出店しており、取引関係のある、このお茶屋さんに出向いていたのである。お茶を飲むのがお仕事、いいなと思ったのを覚えている。

 

このお店は有名なお茶屋さんであり、万永元年、幕末の京都で創業。玉露製法を考案した祖先は非常に有名である。大正時代に茶処の九州で一番繁栄していた小倉の街に支社を作り、商売を広げた、というのが小倉店舗の始まりのようだ。今は京都とは全く別経営だとか。

 

駅前から少し行くと京町銀天街があり、その商店街の中に店舗があった。如何にも老舗という店名の看板、しかしその下で売られていたのは、抹茶アイスだった。そしてそれを嬉しそうに買い、皆で記念写真を撮る台湾人の若い女性たちがいた。T社長に経営について話を聞く。現在の日本の茶業にとって、とても刺激的、画期的な内容だったが、その話は別の機会に書くので譲る。T社長は地域の活性化にも力を入れているようで、とても忙しそうだった。

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焼うどん

ランチはどうしようかと思ったが、昨晩の例に倣い、T社長に小倉のB級グルメを尋ねると『それは焼うどんだろう』ということで、お勧めの店を紹介してもらった。因みにお店の周囲だけで、うどん屋さんが数十軒あるという、北九州はうどん好きの街だとか。確かに駅から歩いて来る間にも数軒のうどん屋を見たような気がする。ラーメン屋も多い。何故麺好き?

 

小倉発祥焼うどん、とは、初めて聞いたが、何故だろうか。『終戦直後、鳥町食道街の「だるま堂」店主が、焼そば用のそば玉がなかったため、干しうどんをゆがき、焼いて出したところ大好評だったのが始まり』との説明があった。検索すると北区だけで30店舗以上の焼うどん屋が出てきた。

 

さて、訪ねた店は午後1時だというのに、大繁盛で、定員もてんてこ舞い、席にもなかなかつけなかった。ようやく座って注文したが、それでも随分と時間が掛かって出てきた。上に温たまごが乗っている。ランチはご飯、みそ汁、サラダのうち2つを選べるとのこと。うどんにご飯かと思い、選ばなかったが、地元の人は焼うどんをおかずにご飯を食べている人が多い。焼うどんそのものは、特にほかで食べる物と変わらないようにも思えたが、豚バラや若松キャベツを使う、ソースが特製など色々とこだわりはあるようで、美味しく頂いた。

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小倉散策

これから博多へ行かなければならない。時間は限られていたが、初めての小倉を全く見ないのもどうかと思い、食後の散策を試みた。方向もよく分からなかったが、取り敢えず小倉城を目指した。すぐにビルの間からお城が見えたので、迷うことはなかったが、それなりに距離はあった。

 

この城、かなり広いようで、中に入るのは断念した。だがよく見ると、城内に松本清張記念館があるではないか。学生の頃、清張の推理小説を全て読んだ私である。是非行ってみたかったが、時間が切れていた。仕方なく城の周りだけを回り、駅へ向かった。残念。小倉城といえば細川忠興が今の大きさで築城し、幕末の長州征伐で高杉晋作が攻めて焼け落ちた城。

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駅のすぐ近くに昭和の匂いが残る一角があった。うらぶれた飲み屋が残っていた。今は北九州市の一つの区にすぎないが、元は官営八幡製鉄所や炭坑があり、人の出入りが多い、気性の荒い土地柄とも言われていた。長崎に落ちされた原爆も当初の標的は造兵廠のあった小倉だったと言われている。小倉は交通の要所でもあり、本州と九州を繋ぐ玄関口としての機能もあった。

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