雲南茶葉古道をかじる茶旅2025(7)チベット族の馬幇

パンを晩御飯代わりにしようかと考えたが、フードコートのようなところに行き着き、土鍋米線を注文してみた。10分近く煮込んだそれは思いの外美味しかった。25元だった。ここには顔は華人だが、中国語が話せない若者たちが来ており、スマホの翻訳や片言の中国語を駆使して注文している姿が面白かった。米線は特にスープがかなり沁みた。

気温は随分低くなり、12度程度になっていたが、部屋には床暖房があり、寒さは全く感じられない。何とか早く寝たいとベッドに入るもやはり眠りには落ちない。外で花火のような音がする。恐らく中秋節のイベントだろう。そうだ、この高度から見る月はどうなのだろう、と思ったが、残念ながら立ち上がる気力はなかった。

10月7日(火)香格里拉で

あまりよく眠れず、しかも朝も暗いうちから起きてしまった。取り敢えずお茶でも飲みながら、静かにしている。高山病の症状はないのだが、何だか疲れてしまっていた。8時過ぎに下におり、朝ご飯を食べた。取り敢えずお粥とちょっとしたおかずで済ませる。特に苦しいなどはないが、食べると息が上がり、心臓が少しバクバクする。

天気は悪くなかったので、まずは馬幇博物館に行ってみることにした。宿を出てから昨日歩いた道を辿り、その先はかなりの上り坂でまた息が上がる。ただ観光客、特に若者たちは楽しそうに歩いて写真を撮っている。もう私の出る幕は終わっているのかもしれない。更にくねくねした道をアプリを頼りに歩く。ちょっとした観光街ではあるが、雰囲気のある街並みもあり、悪くない。

辿り着いた場所はホテルだった。入口には「抗日戦争、反ファシスト」の横幕があり、ちょっと気になるが、そのまま突き進む。その奥には胸像が置かれており、「愛国華僑 馬鋳材」と書かれている。更に行くとかなり詳細な、そして膨大な馬氏に関する展示物があり、興味津々で眺めた。

馬氏は貧しい家庭に生まれ、6歳で馬幇に参加して、チベット、雲南、四川だけでなく、インドにも足を延ばして財を成した。彼は1920年頃から40年ほど根拠地をインドのカリンポンに置いて、「鋳記」という商号を使っていたという。戦後は愛国華僑として活動し、インド側から警戒されて逮捕され、中国側に戻り、1963年昆明で亡くなったとある。

このような人物が馬幇を担っていたこと、茶馬古道の終点はラサではなく、更に先にあることも分かり、何とも興味深い。また戦時中の茶馬古道は中国への支援物資を運ぶ唯一のルートにもなり、この支援にも馬氏などが絡んでいたという。尚子孫はこの街に住み、このホテルを経営しているらしいが、歴史についてはこの展示以上の情報はないという。

そこからまたのろのろと街歩きをした。軽いアップダウンを楽しむように道がくねっている。月光広場に出た。ここに博物館があったので、入ってみた。やはりここにも茶馬古道に関する展示があり、その重要性が分かる。先ほどの馬氏もその代表として語られている。広場には馬幇の像が置かれており、「茶馬古道重鎮」なる石碑もしっかり建っている。

この広場がこの地の集散地だったのだろう。だが実際の茶馬古道の重要拠点はここから5時間車で走った徳欽にあるらしい。今回は体力の関係もあり、そこまでは行かない。尚この広場の周囲にはその昔各地の同郷商館があったとも書かれていたが、その跡地を見付けるには至らなかった。

フラフラしながら宿へ帰った。気温は15度だが風はなく、体感温度はもっと高い。宿で車を呼び、先ほど予約した別の宿に移動した。昨晩泊まったところはスタッフも親切で特に問題はなかったが、何故か今日の料金が2倍していたので諦め、もうちょっと安くて良さそうな宿を探した。車はすぐに来て、10分ほどで次の宿に着いた。ここは少し繁華街からは離れている。

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