台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(1)懐かしい台北を歩く

【台湾茶の歴史を訪ねる旅】

1月に4年半ぶりに台北に行った。これまで何度も訪ねた台湾だが、やはり心地が良い。理由をつけてまた行きたい。そこで今回は『台湾茶の歴史を訪ねる旅』とのテーマで台湾を歩いてみることにした。元々台湾茶は20年前からのお気に入り、そして茶旅のキーワードとしてもうってつけと一人合点して早々旅支度をする。

4月19日(火)
1. ゲストハウス

台北松山空港は一度使ったら止められない。桃園空港とは圧倒的に便利さが違う。空港では震災後の原発による放射線チェックがあったが、難なく越えた。タクシーに乗れば、瞬く間に台北駅前の本日の宿に到着。

今回は故あってゲストハウスに宿泊。正直ゲストハウスに泊まるのは数十年ぶり。何故泊まるのか。それは・・。会社を辞めて、先週からお世話になり始めたオフィス、そこはガイドブック制作会社。台北側でそれを製作しているKenzoさんが最近ゲストハウスを始めたという。よく聞けばそのKenzoさん、5年ほど前に台北で会っている。ご縁があればそこへ行くのが私の旅。

「EZ Stay」(http://www.ezstaytaiwan.com/jpn.htm)と言う名のゲストハウスは台北駅の真ん前、新光三越の隣のビルにあった。15階のベランダからは台北市内が良く見える。リビング部分は共有スペースでPCも置かれており、自由にネットが出来る。無線で拾える。個室(2人部屋)が2つ、そして女子の4人部屋がある。同じフロアーの別の場所にはドミトリーもある。

ご配慮で個室を与えられたが、早々に共有スペースに出て、PCをセットしてメールチェック。その間に宿泊者、ガイドブック制作者、以前ここに宿泊していた者など、色々と出入りがあり、各人が自然に挨拶して、自然に自分のことを始めていた。ゲストハウスは若者のためにあると思っていたが、おじさんにも楽しいかもしれない。また私が台湾茶の歴史を知りたいというと、早速いくつかの情報が寄せられた。これもホテルの部屋でPCに向かっていても出てこないこと。

その日の夜、11時半頃戻ると、明日オーストラリアに向けて出発する若者の送別会が開かれていた。クラスメートと言うグアテマラ人も駆けつけており、英語・日本語・中国語が飛び交う不思議な空間と化していた。自然に交流し、情報交換できる空間、これはオジサン旅行にもいけるかもしれない。結局寝入ったのは午前2時頃。久々の夜更かしとなった。

2. 廣方圓 (http://www.kfytea.com/jp/about.php

ゲストハウスを出て、大学の後輩と食事をした。長春路にある広東料理屋だったが、味が懐かい。伝統的な広東料理がそこにあった。料理と言うものは進化・改良が加えられていくもの。ところが香港から数十年前に台湾に持ち込まれた広東料理は進化の波から外れてしまい、結果として伝統の味を守ることがある。鹹魚炒飯などは香港でよく食べた定番。

夜10時近く、後輩と別れてゲストハウスに戻ろうと思ったが、ちょうど近くに廣方圓」があるのを思い出す。明日の活動に備えて、情報を仕入れに行く。すでに閉店の可能性もあったが、数人が茶を飲んでいた。ラッキー。

ここのオーナー湯さんは、台湾にプーアール茶を広めた女性として有名。5年ほど前にお店に行き、数回親しく話をしたが、その後全く連絡をしていなかった。今年の1月台北再訪の際、既に引っ越していた店を探し当て再会。今回も夜分の突然の訪問となってしまったが、快く話を聞いてくれた。

実は台湾茶の歴史を訪ねる、と言っても特に手掛かりがあるわけではない。事前に台湾茶に詳しく著書もあるHさんに相談すると「台北茶業公會に行くとよい。私の名前を出せば対応してくれるはず。」とのアドバイスを受けていた。明日突撃取材する予定だが、何と公会の所在地すら確認していなかったのだ。

公会の会員である湯さんは、即座に公会の常務理事に電話を入れて、私の突然の要請に応えてくれた。そして結論として、公会にいくよりも、「まずは黄さんを訪ねるべし」という結論に達したのである。果たして黄さんとはどんな人物なのか?普通の日本人なら根掘り葉掘り聞くのだろうが、私の場合、取り敢えず明日の朝黄さんの店を直接訪ねるという無謀なプランを立て、その日を終えた。

4月20日(水)
3. 老街を行く

翌朝早めに起きて、裏の食堂街へ。この付近は台北駅の近くとはいえ、どちらかと言えば学生街の雰囲気を残す。補習班と呼ばれる予備校(塾)が多くあり、食べる物も安い。一軒の食堂に入る。店頭でサンドイッチを作って販売している。卵とソーセージ、この焼ける匂いが好ましい。ミルクティが付いて、40元。僅か100円で楽しい朝ごはんとなった。この手軽さ、台湾の良い所である。

そして黄さんの店に向かう。寧夏路という台北の老街にある。この一帯は昔ながらの街で、台湾茶の歴史を語る上では重要な場所。清末から日本統治時代にかけて、に生産された茶葉をここに集め、加工し、輸出した一大拠点であった。大稲埕と呼ばれている。現在台北の中心は東側に移っており、往時の活気はないが、警察局などが古き良き建物をそのまま使用しているなど、老台北の香りをかげる場所であろう。

歩くこと30分、黄さんのお店、恵美寿(http://www.taipeinavi.com/shop/282/)に到着。店のおばさんに尋ねると、何と黄さんは出張中で、今日戻る予定だが、時間は分からないという。色々と質問を試みるが、要領を得ず、名刺を残して退散した。

仕方なくまた手掛かりを求めて、林森北路にある15年ほど通っているお店に顔を出す(http://www.taipeinavi.com/shop/306/)。ここの杜おばさんは世情に明るく、昨今の台湾の状況を聞くのに適した人物。今回は台湾茶の歴史について、聞いてみたかったが、いざ聞く段になると、台湾人と日本人の夫婦がやってきた。台湾人に嫁いだ日本人女性の話はなかなか面白ろく、話がそちらに向かってしまった。台湾の家庭では5分前まで、誰も夕飯の支度を考えず、思い付きで突然外食となる。化粧もせずに皆サンダルで出ていく姿を唖然として見つめる日本人女性、目に浮かぶようだ。

更に何とか質問にこぎ着けた時、田舎から知り合いが出て来た、と言って注意が完全にそちらに向かう。私はなすすべもなく、退散。今回はなかなか上手くいかないようだ。

お昼は吉林路へ。台湾を書かせれば第一人者の日本人Kさん夫妻と取る。執筆で忙しいKさんを無理やり誘い出した形だ。何しろ台湾茶の歴史の手掛かりを得なければならない。Kさんが連れて行ってくれたレストランは地元の人しか行かないだろうというディープなお店。メニューもなく、注文はKさんがあっという間に伝える。さすが台湾在住10数年。

台湾茶の歴史について、Kさんは徐に語りだす。「ようは台湾茶が何処から来たのか分からないんです」。なるほど、台湾茶は元々この島にあったのか、それとも福建省から持ち込まれたのか、はたまた・・。なかなか興味深い出だしである。日本統治時代、米と砂糖は日本への重要輸出商品であったが、お茶は日本に緑茶があり、重視されなかった。それもあり、その時代の研究も進んでいないようだ。

そして彼が今回用意してくれた秘密兵器について、語り出す。Uさん、日本人で台湾茶作りの修行をしている人。しかも学生時代は台湾茶業史を研究していたというまさにうってつけの人材を紹介してくれていた。その人はこれから初めて行く南投県鹿谷で私を待っていてくれる。これは楽しみだ。

喫茶店に場所を移す。Kさんはまたメニューにない飲み物を頼んでくれた。擂茶ラテ。擂茶とは生茶、生米と生姜を主要材料として擂り潰してから飲むもの。主に福建省、広東省、湖南省や台湾の客家で伝えられ、今も客家の間で飲まれている。この擂茶ミルクを混ぜたものが、擂茶ラテ。数年前は一時流行したらしいが、この店でもメニューから消えているように、定着はしなかったようだ。だからこそ珍しい。

 

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