京都、滋賀、兵庫茶旅2021(4)但馬 朝来へ

というわけで、朝の8時に近江八幡を出て京都から園部、福知山を経て、普通電車で4時間弱かけて和田山駅に着いた。今日はその昔名古屋で知り合ったNさんと待ち合わせ。車で和田山の街中へ。そこに古風な雰囲気のカフェがあった。『町家cafe伍右衛門』という名前で古民家を改装している。

店主は私と同年代で昨年外資系企業を早期退職したM氏。こだわりの強い方で、コーヒーは勿論、文化面にも明るい。突然訪ねたのに、話が色々と方面で盛り上がり、様々な情報を教えてくれた。この近くにある竹田城を含め、山城の熱烈なファンというのも面白い。こんなカフェが近所にあれば毎週でも通うだろう。その間にNさんはもう一度駅へ行き、名古屋から到着するKさんをピックアップしに行く。

Kさん、Nさん共に会うのは数年ぶりで、最近はご無沙汰ばかりであったが、これもお茶のご縁。まずは朝来茶の産地、さのう高原に行き、茶畑を見学する。ここには八代茶園の記念碑が建っており、1970年代緑茶生産のために入植したことが書かれている。朝来みどりというブランドで知られている。思ったより茶畑が広く、標高も350m程度で環境もよさそうだった。

そこから車で45分ほど行くと、生野銀山がある。実は今回ここに来た理由は、半年ほど前、大分へ行った際、明治初期の紅茶伝習所の一つである木浦に行った。そこは鉱山で有名であり、山茶もかなりあったらしい。この木浦の近くに竹田という街があり、ここに老舗和菓子屋但馬屋がある。これをFBで見たNさんが『但馬屋ならうちの付近の出身のはず』と言い、調べると正に但馬から移ってきたということが分かった。更には朝来には竹田城という城まである(大分竹田の城は岡城といい、あの滝廉太郎の歌で有名)。

そんなこんなで、『鉱山と茶』には何か関連があるのではないか、という話になり、せっかくなので訪ねたのである。だから生野銀山は今回のメインなのである。ここは戦国の世には織田信長の所領で、堺の豪商にして茶人の今井宗久が管理を任されていたことは、その昔の大河ドラマ『黄金の日々』に出てきたが、どうだろうか。また秀吉がここの水で茶を点てたなどとも伝わっている。

既に夕方になっていたが、何とか中へ入り、まずは展示を見ながら生野銀山の歴史を知る。江戸時代は佐渡金山と並び幕府の天領となり、その財政を支えた。明治になると「お雇い外国人第1号」のフランス人技師が来て、近代化を図ったとある。その後三菱に払い下げられ、1973年に閉山するまで長い歴史を有している。施設内にはお雇いフランス人、ジャン・フランソワ・コアニエの像などもあり、彼の功績は大きかったようだ。

坑内に入ると、ほぼ平坦だが長い坑道があった。途中に太閤水と書かれた場所があり、秀吉がここの水のうまさを激賞し、茶を点てたと書かれている。更に奥まで歩いていくが、どこまで行っても行き止まりがない。これは相当に深い。結局往復で小1時間を要してしまい、外へ出るどんどん暗くなっていた。

最後に生野紅茶の生産者さんの家を訪ねて、ヒアリングしたが、残念ながら暗くて写真も撮ることができなかった。生野付近では明治時代に紅茶が作られていたと記録にはあるが、と質問するも、そういう話はあるかもしれないが、今や知る人はいない様子。現在の紅茶生産は20年ほど前、緑茶生産をどうするか検討する中で、紅茶製造法を教えてくれる人がいたので、やってみたとのこと。

完全に暗くなってしまった。車はどこを走っているのかわからない。突然止まると、そこが宿だった。黒川温泉のやまびこ山荘という名前。コロナ禍で完全予約制とのこと、本日のお客は我々三人だけだった。まずは1階のお部屋でお茶とお菓子を頂く。それから2階の部屋に荷物を置き、夕飯前にひとっ風呂浴びることに。何とも風情のある浴室で、いいお湯に浸かる。なんだかとても久しぶりという感覚に浸る。

1階のお部屋には、夕飯の用意が出来ている。ここはぼたん鍋が有名だといい、早々に鍋が作られる。それにしてもいい色した肉だなと思ってみていると、奥さんが『実は主人が間違えて特上の肉を用意してしまったので食べて』というではないか。解説は難しいが、これは正直信じられないほど美味しかった。他に付近で取れた山菜などなども出てきて大満足。本当に久しぶりに温泉宿に泊まった気分を味わえた。アレンジしてくれたNさんには感謝しかない。いつも一人で食べているご飯を3人で食べるとさらにおいしい。もう一泊したいと思う宿。

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