静岡、三重、奈良茶旅2021(3)松阪と蒲生氏郷

観光案内所なら何とかしてくれるかも、との淡い期待。すると『今日は月曜日だから、どこもみんな閉まっているんです』とのつれない答え。これは困ったと周囲を見渡し、パンフレットなどからヒントを探る。今回の目的は蒲生氏郷だからそれを伝えてみると、『郷土史に詳しい人は今出掛けている』というので、取り敢えずお城見学に出掛けることにした。

駅からまっすぐ行くと、日野町と書かれた交差点がある。この付近に滋賀の日野、蒲生氏郷の生まれ故郷が見えてくる。氏郷が日野からここに来た時、大勢の日野商人、職人を呼び寄せたらしい。そこを曲がっていくと、松坂牛の幟がある。松阪牛、美味しそうだが、その店も今日はお休み。路上には江戸時代の国学者、本居宣長の像がなぜかボックスに入れられてある。そうか本居宣長もここの出身だったのか。お城脇に旧宅も残されていたが、月曜日はやはり入れなかった。

老舗のお菓子屋もあり、創業天正3年とあるから、まだ信長の時代である。信長が好む菓子を作らせたとの話もあった。やはり茶道関連である。そして三井家御用達ともある。そうか、ここ松阪は三井家発祥の地でもあったのだ。三井と茶の歴史、三井家は勿論、鈍翁や日東紅茶など、とても興味がある。三越のシンボルであるライオン像もあった。三井家のお屋敷は今もこの地にあったが、門は固く閉ざされていた。この付近には松阪商人の商家がいくつも残されていた。

松阪城跡に辿り着いた。『蒲生氏郷と松阪城』という打って付けの展示が、歴史民俗資料館で行われていたが、ここも月曜日で休みだった。ここは建物自体が歴史的でよい。本丸も天守閣も何も残っていない城跡を上っていき、ただただ眺めた。氏郷がこの城をどうように作ったのか、を知ることはもうできない。それから古い街を歩き回って駅に戻った。

さっき訪ねた観光案内所に行くと、観光ガイドの方が戻っており、氏郷関連の歴史について、色々と話を聞いた。だがやはりこの街に残されているものは多くはないという。話の流れで、会津で氏郷の墓を見たと告げると『実は松阪にも墓がある』というではないか。そしてなんとその寺まで案内してくれた。

龍泉寺というそこは駅からそれほど遠くはなかった。立派な門を潜るが、氏郷の墓がどこにあるかは容易には分からない。やはり一緒にきてもらって正解だった。墓は大きくはなく、その前に写真が掲示されていなければ、全くわからないだろう。その写真は昭和10年に展墓祭というのが開かれた時のものだという。氏郷の本墓は京都大徳寺にあるというので、ここにある墓は亡くなった元城主を慰霊するものらしい。氏郷は後世でも松阪の日人に愛されていたのだろうか。今回松阪に来て一番の発見だったかもしれない。

津新町から歩く

急いで駅まで戻り、津に戻る電車に乗った。この駅でも当然ながらJRと近鉄が走っており、どちらに乗るかを考えなければならなかったが、面倒なのでSuicaを使い、近鉄にした。そして津駅より1つ前の津新町駅で降りて歩く。1㎞ぐらい歩くと、松菱百貨店がある。ある人が昨年、三重で商売するなら松菱の包装紙に包まれた土産を持参しなければ始まらない、と力説していたのを思い出し、どんなところかと訪ねてみたのだ。まあいかにも老舗ローカルデパートという感じ。お客が少ないのはコロナのせいだろうか。

そこからちょっと歩くと、津城跡があった。ここは公園になっており、藤堂高虎の像が建っていた。おじさんが『ここは何にもないね』と話しかけてきた。最近は城ブームで全国の城を回っている人も多いらしい。若い女性が一人で何枚も写真を撮っていたが、彼女も歴女なのだろうか。

津駅に近づくと、四天王寺というかなり立派な寺があった。四天王寺と言えば、聖徳太子の時代に大阪に建てられた寺だと記憶しているが、ここも太子ゆかりの寺だと書かれている。更にここには織田信長の母、土田御前や藤堂高虎の妻の墓があり、確かにこの辺りでは名刹なのであろう。一応お墓を探してお参りした。

結構な距離を歩いて宿まで戻ったが、腹が減ってしまい、すぐに外へ出た。駅の近くにはあまりよさそうな食堂がなかったので、ちょっと検索してまた1㎞以上歩いていく。自分でいうのもなんだが、とても元気だ。これはコロナ禍の引き籠り生活の反動だろうか。

夕方5時になるともう暗くなってきた。その食堂には海老天とカツを煮込んだ、天かつ丼というメニューがあり、注文した。これは甘めで非常に好みの味であり、値段も700円と満足できるものだった。因みに泊っている宿には夜9時半になると夜泣きラーメンがあるので、日の最後はそれを〆に食べてから寝るので、夕飯は早めが良い。

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