佐倉茶旅2021

《佐倉茶旅2021》  2021年10月12日

7月に宮崎から戻った後、コロナも収まらず、私の肩痛も良くならず、オリンピック、パラリンピックをテレビ観戦するばかりで、ほぼ外へも出なかった。9月になり、少し状況が好転したので、外を散歩するようにはなったのだが、どうも体を動かしていないと具合が悪い。まず単発の旅(日帰り)で様子を見ることにした。以前から気になっていた千葉県佐倉へ出向く。佐倉といえば長嶋茂雄を思い出すが、果たして何があるだろう。

10月12日(火)佐倉へ

何となく天候は思わしくなかったが、行こうと思ったときに行かないとどんどん腰が重くなる。今日は千葉県佐倉というところへ初めていく。本八幡まで都営地下鉄で行き、そこから京成線で京成佐倉駅まで、2時間弱で到着する。まずは駅前の観光案内所で地図をもらい、大体の場所を確認する。そうか、佐倉には国立博物館もあるのか。ただそれとは反対の方角へ向かう。

既に昼が近づいていた。朝飯もちゃんと食べていなかったので腹が減り、食堂へ向かう。先日Facebookで見た佐倉の美味しそうな定食が頭に浮かんでいた。だが11時半にその店に着くと、狭くはない店内は、コロナ対応で席数が減らされていたこともあり、既に満員だった。10分以上待つ間、皆が何を食べているのかじっと観察する。

ようやく席に着き、日替わり定食を注文する。刺身がメインで、そこにメンチカツとコロッケ、そして美味しい汁、更には漬物と杏仁豆腐が付いてくる豪華版。持ってくるお盆がデカい。1210円は決して高くはない。テイクアウトの人も多い。なぜここが人気なのか、分かるような気がした。

そこから本日の目的地、佐倉順天堂に向かう。あの順天堂病院はここ佐倉が発祥。佐倉順天堂医院は今もここにある。その横に佐倉順天堂記念館が建っている。渋い木製の門を潜ると1858年に建てられたという建物がきちんと残っていた、庭には創始者佐藤泰全の像がある。

順天堂は江戸末期の1843年に長崎留学を終えた佐藤泰全が江戸で蘭医学塾を開き、その後佐倉に移り住んで開いたオランダ医術の塾だった。ここでは外科手術を中心とした最高の医術が教えられたらしい。ただ泰然がなぜ佐倉に移り住んだか、その理由ははっきりしない。藩主は幕末老中として活躍する堀田正睦であり、蘭学を奨励していた彼の招へいだとする説が語られているが、どうだろうか。

入り口で、今回の主目的である『佐藤百太郎について調べに来た』と告げると、受付の女性が『ああ、百太郎の資料は殆どないと思いますよ』と済まなそうに言う。それはある意味想定内であり、取り敢えず中の見学を始めた。佐藤百太郎は一応家系図には出てくるが、佐倉順天堂としては、あまり取り上げられない人物。順天堂は能力主義だったといわれ、実子でも相当に実力がなければ後継ぎにはなれない。泰然の養子で後継者の尚中を父に持つ百太郎は残念ながら、その道を閉ざされた人だった。

受付の女性がやってきて、『それでも何かあるかもしれない』と言いながら、色々と探してくれたのは何とも有難い。こういう対応は実にうれしい。その結果百太郎のものではないが、明治初期の佐倉の士族授産事業などについては、資料を見ることができた。そして『佐倉茶の歴史だったら、小川園さんが調べていた』と教えてくれた。

佐藤百太郎は順天堂の後継者から外れ、祖父泰然が横浜へ伴って英語を学び、幕末にアメリカに渡った。明治になってニューヨークで事業を起こし、日米貿易を開始した男だ。その貿易品の中に佐倉茶が含まれていたというのが今回の旅の発端だった。有名な狭山茶と並びもし佐倉茶も輸出されていたのであれば、今ではピンと来なくなってしまった千葉茶業の歴史も見直すべきではないだろうか。

尚ウキペディアによれば『対等な日米貿易については、百太郎の親類(義兄)である大野秀頴(8代目・大野伝兵衛)による東金町(現在の千葉県東金市)東金茶の輸出が走りである。 茶園の名を東嘉園と言い、有栖川宮熾仁親王が命名した。 1874年頃まで東嘉園(東金茶園)の営業成績は良好な状態をつづけていた。横浜貿易における茶の輸出状況が良好であったからである。 秀頴は商売についてはかなり進取的なところがあり、アメリカとの直接取引を企図したのである』として、狭山茶より佐倉茶の方が直輸出は早く始められたというが、この辺もぜひ調べてみたいところだ。

因みに狭山、入間の近く、日高に高林謙三という医者がいた。彼は途中から医学ではなく、茶業製茶機械の発明に努め、大いに貢献した人物で、茶業史の名を留めている。彼もまた若い頃順天堂で学んでおり、繋がりがあると思われるが、高林の製茶機械はこの地で使われただろうか。

記念館の裏に回ると、そこには2つの石碑が建っている。1つは1890年に3代目瞬海によって建てられたという佐藤泰全の碑。もう一つは1902年にその瞬海の60歳を祝って弟子たちが建てた碑だった。石碑はいずれも古びており、文字は擦れて良く読めない。

記念館の前の道、名前は蘭学の道らしい、を戻り、途中で曲がり、旧堀田邸に向かった。ところが道を間違えてしまい、周囲を大きく一周する羽目になった。こういう時、Googleは役に立たない。入口がうまく表示されないと、こういうことが起こる。またここはある施設の中にあり、それを知らなければ入口を見つけられないとの問題点もあった。

堀田邸は明治に堀田家が東京から移り住んだ場所で、静かなところだった。家屋内に展示があり、明治のころの様子がわかる。農事試験場にもなっていたようだから、茶業とも無縁ではあるまい。庭もまたなかなか趣があり、茶室もあるようだ。

そこから町中に戻る。趣のある建物がいくつも見られる。そんな中に小川園があった。先ほど聞いていたので、思い切って中に入る。するといきなり目に飛び込んできたのが、佐倉同協社と書かれた看板と全景の絵だった。思わず『これは・・』と店員さんに話し掛けると、丁寧に対応してくれた。いくつか質問しているうちに『社長に聞いてもらった方がいいかも』と言って、電話を掛けてくれると、なんと社長が駆けつけてくれた。

社長は佐倉茶の歴史を調べると同時に茶園の復活、観光協会の活動を通して佐倉の町の振興にも力を入れているという方だった。アメリカに最初に直輸出された日本茶は狭山茶と佐倉茶だったという歴史についてお話を伺う。そしてそこに順天堂佐藤家出身の佐藤百太郎が絡んでいる。実に面白い話であり、更に突っ込んで色々と質問した。明治初期には佐倉の人が掛川に茶の指導に行った、などの話は、実に興味深い。幕末から明治も初めの方は、千葉、埼玉、茨城の茶業はかなり発展しており、横浜からかなりの茶が輸出されたことだろう。

その間、こちらで販売している白折茶を淹れてもらったが、すっきりして非常に飲みやすい、美味しいお茶だった。小川園は市内外に何店舗も有する大きなお茶屋さん。今日訪ねたお店は2階に喫茶スペースまであったが、コロナ禍で休止中だった。それを知らずにやってきた若夫婦がいたが、社長は休止を詫びながら、サラッと小袋のお茶を渡していた。こういう気づかいは心に残り、彼らはきっとリピートするだろう。

それから何と社長が車で茶園まで連れて行ってくれた。そこは駅を挟んで反対側の高台にあり、『佐倉茶発祥の地』という看板が立っていた。開墾には苦労があっただろうな。佐倉の士族授産事業の歴史、もう少し調べてみたくなる。幕末茨城付近のさしま茶をリードした中山元成などとの関連もあるようで、今後調べてみたいテーマである。

今日と取り敢えず桜を散歩してみるだけのつもりだったが、思いがけず佐倉茶の歴史に触れることができ、感激した。突然お訪ねした方々にはご迷惑だったとは思うのだが、これこそ、茶旅だった。千葉、埼玉の茶、更に狭山茶の茶貿易の歴史を調べて、まとめてみたいテーマだったが、果たしてその資料はあるのだろうか。

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