福建茶旅2019(4)坦洋工夫茶の村へ

4月9日(火)
坦洋工夫茶の村へ

今朝も鄭さんが来てくれた。そして福安の紅茶、坦洋工夫茶を復活させた立役者、福安市の有力者ですでに引退している陳成基氏が態々ホテルに来てくれ、昨晩同様、農墾茶の店でその歴史の話を聞く。1851年に福安郊外の社口で作られ始めた坦洋工夫茶は非常に海外で好評だったらしい。同時にこの福安が茶業にとって往時、いかに重要な場所であるかは、社口に行けば分かるという。更にその茶の輸出が無くなり、知名度が下がる中、如何にして復活させたかは興味深い所だ。

 

次に福安市茶業協会を訪問した。この付近は福安でも最も古い建物が残っている地域で、何ともレトロな雰囲気が漂う。そして協会のビルには畬族に関する展示があると書かれていた。畬族は少数民族、瑶族の流れを汲み、福建省の少数民族で最も茶業に近い存在と言われていて、何とか調べたいと思っていた。だが協会の人々はみな漢族であり、茶業は漢族が行っているとして、余りその歴史に向き合う感じはない。もちろん皆良い人ばかりなので坦洋工夫茶の資料などを沢山くれたが、このような民族間の感情が歴史調査を妨げる可能性があることは否めない。

 

それから福安市内の茶葉卸市場に行った。市場というより、ある道に茶問屋が集まっており、そこで茶葉が売買されている場所と言った方がよいかもしれない。ここでは大きな袋に詰められた毛茶が運び込まれ、おじさんが茶葉を手でより分けていた。思ったより規模が大きく、閩東一の茶業と言われた福安の片鱗が垣間見えた。

 

ここで北京から来た茶業者も混ざってローカル昼ご飯を食べた。相変らず鶏が歯ごたえがあってうまい。食べ終わると、お茶屋に入り、お茶を飲む。そのお茶屋が何だかちんまりと焙煎などしていて、香りがよい。いいなあ、こういうの。それから車に乗り、30分ぐらい田舎道を行くと、社口坦洋村のあたりまで来た。

 

そこには大きな建物が見えた。福安市坦洋茶場と書かれた看板がある。元はここが国営工場だったのだろう。今は民営化されているという。工場では少量の製茶が行われていたが、活気はなかった。昼過ぎだったからだろうか。建物は50-60年代に建てられたのだろうが、その歴史を聞く術はない。とてものどかな雰囲気が漂う老工場。

 

我々の車は川沿いに進んでいる。川の両側に茶畑が見えてくる。牌楼が見え、ここから坦洋村だと分かる。横には坦洋工夫発祥地、との石碑がある。張天福氏が書いている。工夫紅茶、などの文字も見える。その先には200年以上前から架かる廊橋が古びた姿を見せている。この辺から辺鄙な村が現在改修中で、観光地を目指している様子が見て取れる。この川を通じて、茶葉が海辺の町に流れて行ったという。

 

村はそれほど大きくはない。その一角に切り込んでいくと、古い家並みの先に、横楼があった。ここは元々豊泰隆という茶行の建物だったらしい。かなりの規模であり、茶の加工も行われていたのだろう。ここには入れなかったが、横の邸宅は博物館のようにその歴史が展示されており、その展示物は意外なほどに精緻で、ひとしきり坦洋工夫茶の流れを学ぶことができた。1915年のパナマ運河万博では、この紅茶も受賞している。1990年頃、寧徳市の書記をしていた習近平も何度かここを訪れているようだ。

 

そして帰り道、福建省茶葉研究所に立ち寄った。ここは1935年、張天福氏が設立した福建省初の茶葉研究所であり、昨晩訪れた福安農学校と同時に作り、その生徒はここで研究の手伝いをしながら、育種、製茶などを学んだという歴史的な場所だった。当然敷地内はきれいになっているが、唯一張天福が当時住んでいたという宿舎が残されていた。

 

何故ここに研究所を作ったのか、それはとても面白い問い掛けだ。数年で主要業務は武夷山に移されたらしいが、今でもここに研究所があるのだから。室内には数十年前の茶葉が保存されており、素晴らしい田舎の農村風景の中、十分に歴史は感じられた。夕飯は近くの、地元の人で賑わう食堂で頂く。そして真っ暗な中、福安の街に戻った。何と鄭さんは北京の茶業者を送って、これから白茶で有名な福鼎の街まで出掛けていくという。私も是非行きたかったが、明日は福州へ行くと言ってしまったので、次回に回した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です