杭州・安徽・北京茶旅2017(5)上等の祁門紅茶を試飲する

6月24日(土)
茶廠へ

翌朝は朝ご飯を食べるとすぐに祥源の茶工場へ向かった。祥源は浙江省の不動産開発会社であり、その潤沢な資金でこちらの茶工場を買収した。グループ全体の売り上げに占める茶業の割合は僅か1%だという。今も輸出が全体の70%、リプトンに中国茶葉も供給しているというが、その量も少ないのだろうか。

 

雨は降り続いており、工場の横を流れる川は増水し、このまま降り続ければ溢れるのではと思う程だった。6月はこんなに雨が降るのだろうか。工場は立派できれい。最近新設されたものだそうで、以前の国営時代の工場は別の場所にあったが、既に完全に取り壊されて跡形もないという。

 

建物の前には立派な像が建っていた。呉覚農、近代中国茶業を担った一人だが、彼は1932-34年の間、この地の茶業改良場の場長を務めていたという。研究、生産、販売を一体化するなど相当大胆な改革を断行し、この地の紅茶生産に貢献したとある。当時の外貨獲得の重要物資である茶はこのような人々により発展していった。

 

工場内を見学すると、先端の大型機械が導入され、自動化が進んでいた。これまで見てきたいくつもの紅茶工場の中でも最大規模ではないだろうか。一方博物館の方へ行くと、昔の器具が並んでおり、その生産の歴史が見られるようになっていた。実は今日は朝から一人の老人が我々に同行してくれていた。

 

閔宣文氏、85歳。1958年に祁門茶廠に入り、製茶技術を深め、60年に渡って紅茶を作ってきた人である。現在でも祥源の顧問として、技術指導に当たっている。非常に元気で、我々の質問にも的確に答えてくれた。2008年には非物質文化遺産として、祁門紅茶の伝統製造技術の代表的伝承人にも認定されている。

 

試飲室に移った。ここには相当の種類の祁門紅茶が置かれており、そのうち数種類が無造作に置かれていた。試飲が始まる。上級から3種類は手摘みで、後は機械摘みだという。その最上級の紅茶を飲んでみると、これは完全に異次元の香りと味がした。久しぶりに美味い紅茶を飲んだと思えた。

 

実は先日日本のある年配の方と話していると『30年前、祁門ではいい紅茶が作られており、我々はそれを飲むことができた。だが今やそんな上等な茶を見つけることは難しい。祁門も相当の変化があったようで、上等のお茶は作られなくなっているのだろう』と言われた。だが今飲んでいるお茶を見ると決して上等のお茶がないと思えず、関係者の人に聞いてみた。

 

『それはこちらの問題ではなく、日本の問題でしょう。30年前、日本の経済力は凄かった。当時の中国でいいお茶は日本にどんどん流れていた。だが今は日本人のそんな高級なお茶を買う余裕はないのでは』というのだ。確かにそうかもしれない。30年前の100元は彼らの一か月の給料だったが、日本人にとっては一回の飲み代に過ぎなかった。我々は物があれば何でも買えた。だが今や、高級茶は1斤(500g)、1万元(17万円)もするのだ。私には手が出ない。もし手にできる日本人がいても、その茶を10斤買う力はない。中国人はその単位で茶を買うのだから、勝負にならない。

 

昼ごはんを食べてから、ある茶荘に向かう。ここには元国営茶廠の廠長だった人がいた。彼は茶廠が売却されるとその職を辞し、今は自分で細々とお茶を作っていた。10年前の混乱でにも変化があり、もう大きな茶廠で茶を作る気はないという。その辺の多くは語らないが、色々と大変だったのだろうと推察された。

 

実は今日は山の中の茶畑を見学する予定になっていたが、ここ数日の雨で山道に土石流が発生。その様子が微信で配信されてきて、とても危険な状態だということで、残念ながら見学を諦めた。ちょうど雨が上がっていたので、代わりにこちらの茶荘の裏にある茶畑をちょっと見た。雨に濡れた茶樹は元気で、茶葉もすくすく伸びていた。

 

ホテルの裏に、茶山公園という名の場所があった。時間が余ったのでそこへも行ってみる。そこは小高い丘になっており、茶畑もあったが、既にすべて刈り取られていた。ここの麓には、元々茶業改良場があったという。確かに古い建物が残っていた。昔の従業員宿舎らしい。その前の建物は現在政府が使っており、改良場はもっと田舎に移されているらしい。

 

夜は茶業関係者が集まってきて、大宴会が催された。年配者も来て、酒を酌み交わし、楽しそうに昔話をしている。モンゴル族の女性が草原の歌を披露してさらに盛り上がる。私は酒を飲まなかったが、疲れが出たのか、途中で目が回るような感覚に襲われ、宿に帰って休息した。やはり旅が続いたこと、雨など季節的な要因があったのだろうかと思う。

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