中国鉄道縦断の旅2015(13)通州から馬連道へ

1226日(土)
通州へ

 

翌朝は8時に出発した。10号線から1号線へ乗り継いで、四恵駅へやって来た。322のバスを探してバスターミナルへ向かう。指示された通りこのバスに乗ると、何とこれは快速バスで、一路通州を目指して高速道路を進んでいく。東関大橋というバス停で下車、30分で着いてしまった。4元。正直北京に5年も住んでいながら、通州まで足を延ばしたことはなかった。特に用事がなかったからだろう。昔は通州事件というのがあったようだし、最近も首都機能を移転する話があるようだ。

 

バスに乗っているとニュースが流れていたが、今日は大気汚染が深刻になり、黄色警報が発令されていた。確かに周囲が見えにくくなっており、これが恐ろしいPM2.5かと実感した。いつも冬場は煙っている感じの北京だったが、今は濃霧の中を走っている雰囲気となっている。身体に影響があるとのことだったが、こんな日が続けば心身とも病んでしまうかもしれない。

 

通州は意外なほど大きく、そして発展していた。日本で言えば東京都に対する千葉県か埼玉県の1つの街に相当しそうだ。このバスに乗れば一応通勤圏内にも入る。大きなショッピングモールもあり、生活にも支障はなさそうに見える。思いの他早く着いたので、ここで朝ご飯を食べた。雲吞、5元。

 

今回なぜ通州まで来たのか。それは呼和浩特で会えなかった鄧九剛先生と会うためだった。鄧先生は基本的に呼和浩特在住だが、現在は冬の間はここ通州で暮らしているという。寒さを凌ぐためだというが、私にとっては北京も十分に寒い。ただ先生のお嬢さん一家がここに住んでおり、孫の顔を見ながら過ごしているというのが正しいのかもしれない。

 

マントウ屋に入り、話をしようとしたが、ちょうど休憩時間のようで追い出されてしまった。仕方なく先生の家にお邪魔する。奥さんが迎えてくれた。岩茶を飲みながら主にS氏が質問し、私は簡単に通訳した。羊楼洞やせん茶の歴史について、また輸送部隊がモンゴル漢族混合隊だったことなど。回族も独自隊を有しており、実は西モンゴルも重要だと言われたが、今回の本線からは外れている。

 

これから行く二連には博物館があり、ウランバートルでは寺にその面影名が残るだけだと教えられた。キャフタには売買城は無くなっているが税関は残っており、博物館もある。 イルクーツクなどシベリアには殆ど万里茶路を思わせるものは残っていない。基本的に輸送隊もテント生活をしており、当時は街自体が小規模。モスクワに中国式建築の李鴻章の茶館がある程度だという。そんな話をしていると孫が帰って来た。今日は一家で何かするらしかったので、ここでお暇した。

 

久しぶりの馬連道

12:00に通州を出て、馬連道へ向かう。北京の東から西へ横断だ。さっきのバスで四恵まで戻り、1号線から9号線へ乗り継いで、六橋東に13:15に着いた。意外と速かった。腹が減ったので包子と紫米粥を食べる。相変わらず空はどんよりしており、冬の北京の印象、そのままだった。

 

古い茶城には人は殆どいなかった。ここでNさんが中国六大茶の茶葉の撮影をしたいという。私は15年ぐらい前に何度もここへ来ていたが、店はかなり変わっている。お茶を買わないで撮影させてくれるところはないかとキョロキョロしてみたが、適当な所が見付からない。すると龍井茶を売る店が目に入った。おばさんと顔が合った瞬間、あー、と思った。

 

そこは15年前何度か来ていた茶荘だった。向こうから『あんたのことはよく覚えているよ』と言って、何と当時の名刺を出してきたので驚いた。お茶の写真撮影を依頼すると、快諾してくれた。店にない物は他から借りてきてくれた。こういうご縁は何とも有り難く、また茶旅っぽい。ここの龍井茶も懐かしく、自分飲み用に少し購入した。

 

ただ黄茶だけは全く扱いがなく。ここでは撮影できなかった。任務達成のため2階に上がり、湖南の黄茶を発見した。写真を撮ってよいかと聞くと、いいよとのことだったので、撮影を始めたが、載せるお皿を同じしたいとさっきの店に借りに行ったところ、我々を客ではないと判断したようで不機嫌になってしまったが、何とか撮影を終了した。ここで今回の任務はすべて終了し、S氏とNさんとはお別れした。

 

2人と別れ、更に茶城を徘徊した。羊楼洞でみた米せん茶、あの時は欲しいと思わなかったが、出来れば持って帰りたくなりを探すがどうしても見付からない。一軒だけ湖南茶の店にあったが、それは半分以上欠けており、きれいなマークになっていないうえ、値段も非常に高く断念した。 

 

三元橋まで戻り、夜は昔一緒に働いた中国人と会う。馬連道から三元橋まで意外と時間が掛かり、遅刻する。彼によれば、北京の不動産価格は急上昇しており、彼が5万元/㎡で買おうとしてマンションに対して、友人は値上がり余地の大きい13万元の方を勧めているという。100㎡の家を買うと日本円で約5億円。そんな金を持つようになったのだろうか。15年前の彼の給料はせいぜい月10万円だったことを思うと隔世の感がある。

 

前回会った時は子供と奥さんを海外移住させることを真剣に検討していたが、今回その話は無くなっていた。国有企業幹部は会社にパスポート取り上げられ、海外旅行すら難しい状況となっていた。ただ大気汚染は今日も深刻だし、子供の教育はやはり海外がよいとは思っているようだ。富を得た代わりに失ったものも大きいのかもしれない。

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