《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》東北三省、山東—長い長い一人旅の果てに

〈11回目の旅−1987年5月東北3省、山東省〉
—長い一人旅

1.ハルピン
留学終了まで3ヶ月を切ってきた。前回のチベット、三峡下りですっかり自信をつけた私は遂に長期一人旅を決意した。これまでは何やかんや言っても誰かと一緒である。しかし本当の旅は一人旅。場所は東北を選んだ。5月初めであるからそう寒くないだろうという理由である。(私は旧正月後の後期授業を語学班から文学班に変更した。文学班は授業より論文重視であったので、時間的な余裕が出来今回の旅行も実現した。尚恐らく銀行派遣生で文学班に入ったのは、後にも先にも私だけではないだろうか?とても貴重な経験であった。)

取り敢えず何処へ行こうかと地図を眺めるとソ連の国境が目に入る。ここだ、と思い突然ハルピン行きの飛行機を予約する。チケットを得てから、先日昆明で再開した大学の同級生のKさんを思い出し、連絡を取る。また瀋陽に留学中の同級生KMさんにも手紙を出す。やはり一人旅は不安なものである。

第1日目。ハルピンまでは飛行機で4時間近く掛かる。当時上海—成田で3時間であるから、もっと遠い。結構長く感じられたのは、旅への不安であろうか?このまま着かないで欲しい、と思うのも、当時の中国の旅の特徴である。

ハルピン空港に降りると暑い。5月初めなのに何と24度もある。目一杯着込んでいた私はロビーで殆ど脱いでしまった程。空港からバスでハルピン駅に直行した。先ずはソ連国境、満州里までの汽車の切符を買わなければならない。これは一苦労だろうと覚悟して行くと、案に相違して、軟臥は簡単に買えた。しかも今夜の列車をである。ハルピンは帰りに見れば良いと思い、夜9時発の列車に乗ることにした。

2-3時間駅近くで時間を潰し、かなり早いが駅に行くと、何と軟臥の客のためにVIPルームがある。人民の雑踏と完全に切り離された静かな空間が駅の一角にあった。その部屋が又実にレトロであり、高い天井に大型扇風機がゆっくり回っている。恐らく戦前日本の満鉄が作ったものをそのまま利用しているのだろう。歴史が感じられるが、日本人としてどうして良いか少し戸惑う。

8時半頃駅員が列車へ案内する。駅構内はかなり暗く、一人で歩くとかなり恐ろしい。数年後ラストエンペラーという映画を見たが、その冒頭のシーンで溥儀が瀋陽駅で連行されていく場面があったと思うが、その時の映像とそっくりの情景が目の前にある。正に戦後40年、変わっていないのである。

2.ハイラルへ
列車に乗り込むと中国人が2人乗ってきて相部屋になる。当時は荷物を取られることも無かったが、一人旅だと何となく心配になる。動き出して1時間ほどで消灯になり、直ぐに寝込む。寝たときは結構暑かったので、Tシャツ1枚。

2日目。朝起きてビックリ。途轍もなく寒いのである。外を見ると川が凍っている。冬景色なのである。車掌が入ってきたので、聞くとマイナス10度だと言う。信じられない。昨日のハルピンの昼間が24度で、今が氷点下10度。中国は本当に恐ろしい国である。ベットを見ると毛布が2枚もある。車掌が夜中に私の為に掛けてくれたそうだ。感謝、感謝。

車掌が朝ご飯は何が良いかと聞く。こんなことは初めてである。部屋まで運んでくると言う。何でこんなに親切なの?暖かいおかゆを頂く。昨日乗り込んできた中国人も朝には居なくなり、4人部屋は私一人の利用となっていた。それで車掌が気を使ってくれている模様。食後も車掌が話し相手になる為、部屋に来る。不思議な気分だ。普段中国人に親切にされることが少ない私は、当初何か裏があるのではなどと考えてしまっていたが、その内本当の親切だと分かると心から感動した。

車掌曰く、この近くに大興安嶺という山脈があり、1ヶ月も前から大規模な山火事だと。1ヶ月消えない山火事。そのスケールの大きさに悪事であるにも拘らず、感心する。しかしここは寒くて仕方が無いのに一方では暑くて仕方が無い。何か不思議だ。昼も一人で部屋で食べる。しかし列車の食事にしては、結構いける。その頃から腰が痛くなる。何しろ既に乗車してから10数時間経過している。満州里までは未だ10時間近く掛かる。車掌がノートを前に差し出す。乗車した外国人にはサインを貰っているという。ノートを広げると多くの日本人の名前がある。よくよく見ると老人と思われる名前が多い。戦前の満州開拓団の人々が慰霊に訪れるという。

日本に居る時は満州開拓団など全く理解していなかったが、丁度留学中に残留孤児問題で孤児の多くが開拓団の子供であることを知ったばかり。後で知ったことは、その頃日本に戻った親が必死に子供を捜しており、その人々もこの列車に乗っていたことである。車掌は多くの日本人はハイラルで降りるという。お尻も痛いことだし、私も突然ハイラルで降りた。切符は3日間有効で明日満州里に行けば問題ない。ここまで20時間掛かった。

(3)ハイラル
ハイラルの駅前で地図を買おうとしたが、ここにはそんなものは無いと言われる。突然降りてしまったので、どうして良いか分からない。駅でホテルを聞くと国際旅行社へ行けという。国際旅行社の場所はバスで賓館前だという。何だか変である。ホテル前というバス停があればホテルもあるのである。兎に角バスに乗ると直ぐに到着した。やはりホテルの1階にあった。取り敢えずホテルの部屋を確保。何と外国人であるというとスイートルームに通される。しかしこのスイートルーム、窓ガラスは割れているは、お湯は出そうに無いはで散々である。既に夕日が西に傾いており、1泊は我慢することにした。15元。

国際旅行社に行くと、流暢な日本語を話す人が出てきた。聞けば吉林大学で日本語を専攻したという。吉林大学日本語学科といえば、中国一レベルの高い日本語学科である。しかしその頃は『分配』の時代。彼は卒業後故郷に戻らざるを得ず、その日本語力で開拓団の人々のガイドなどをして過ごしていると言う。実に勿体無い気がした。彼ほどの日本語力があれば活躍の場は幾らでもあるのに。分かったことはハイラルには特に見るべきところはないということ。夜はかなり冷えており、割れた窓ガラスが恨めしい。風邪を引かないように苦労して寝た。

3日目。昨日降りた時間に駅に行き、満州里行きに乗りなおす。駅で待っている時、中国人ではない人を見かける。先方も私を見ている。きっと華僑だろうと思い、思い切って中国語で声を掛ける。すると相手は『日本人ですよ。』という。驚いた。こんなところで同年代の日本人に会うとは。しかも彼もこれから満州里へ行くという。結局2人で行くことにする。

(4)満州里
4時間で満州里に到着。夜8時であるが5月で未だ外は明るい。同行の日本人Kさんの情報で近くのホテルに宿泊。2人で1部屋。夕食は食堂で。中国人は食券を買っていたが、我々は行き成り食事が提供される。これが美味いので勢い込んで食べる。2人で6元。その後も何が出ても同一料金であった。

4日目。愈々国境に行こうと思い、Kさんと一緒に国際旅行社に出向く。実はKさんは政府関連の機関から派遣された留学生であることが分かり、無用のトラブルを避ける為にもし聞かれた場合は私の同僚とすることにした。今でもそうだが、他国ではこちらが予期せぬ疑いを掛けられるもの。単なる旅行でも注意が必要である。旅行社では明日ジープを出してくれるという。確か200元はしたのでは?この辺りでは相当に高額であるが、ここまで来て国境を見ないわけには行かない。

満州里は国境であり、かなりの緊張感があるものと思っていたが、実際着てみると普通の街とあまり変わらない。特にロシア系の人々が目立つわけでもない。ホテルに商人風の男が多く出入りしていることぐらいか?国境貿易に従事しているのだろうか?

駅に行く。ここからソ連側は所謂シベリア鉄道である。モスクワまでは7日間掛かるという。この駅で面白い光景がある。何と中国とソ連では線路の幅が異なる為、この駅で列車の車輪を取り替えるのだ。2時間ほど見ていたが、遂に車両交換の場面を見ることは出来ず、どの様にして交換するのかは分からなかったが、確かに立橋の上から見ると駅の先で線路の幅が異なることは良く見えた。しかしどうして幅が違うのだろう?戦前の日ソ関係の影響であろうか?

5日目。とうとう国境へ。ジープは大草原、というよりも本当に何も無い原野を走り続ける。どうやってこの方向が正しいと分かるのだろうか?道も無いのである。このまま何処にも着かなかったら?かなりの恐怖を感じる。私はこれまでの人生でこんなところを走ったことが無い。

1時間ぐらい経っただろうか?ここが国境だと言われる。しかし何も無い。私が漠然と抱いていた国境とは柵があったり、兵が居たり、はっきりとした何かがある場所、境であるはずであった。ところが現実には向こうに微かに何かが見えるだけである。運転手は『あれがソ連の村だ』という。双眼鏡を貸してくれる。覗くと確かに家があり、煙が棚引いている。人の動く気配もある。よくよく見るとどう見ても中国人にしか見えない。運転手は『当たり前だ。ここは殆ど中国なのだから。』とことも無げに言う。その通りだ。私たちは見世物を見ているわけではない。中国領とソ連領の境である。中国系の人が多くてもなんら不思議は無い。突然オリンピックの体操選手でネリー・キムという美人選手がいたのを思い出す。あのころは何故韓国人がソ連選手をやっているのかと思ったものだが、皆地続きである。

ジープの停車した場所からもう少し先に行こうとした。突然運転手がそれ以上動いてはいけないという。教えられた国境線(微かな黒い線)までも未だ相当距離がある。何故と思ったが、素直に従った。周りに木も無く、隠れるところはまるでないのだが、もし中国の規則に違反した場合、最悪撃たれる可能性も考えなければならない。あの頃は妙な緊張感、危機感はあったのである。結局20-30分で引き返す。国境の感慨は何も無いが、何故か強く印象には残った。

昼ご飯を食べる為、草原の中の湖の湖畔に行く。正に一軒家である。そのレストラン以外に見渡す限り建物は無い。どんな料理を食べたかは、全く記憶がないが、強烈な記憶がトイレである。ウエートレスにトイレの場所を聞くと外だという。ところが外には何も無い。建物はこのレストラン1つだけである。もう一度尋ねると入り口を出て彼女は外を指す。指された辺りに行ってビックリ。そこには穴が2つあった。中国のトイレは扉が無いとか、何とか文句を言っていたが、究極のトイレが目の前にあった。

用を足せば丸見えである。更に使用後は穴に土を掛け、隣に新たな穴を掘るのだという。私は『小』だったので、大地に向かって思いっきり、気持ちよく放尿したが、これが『大』だった場合、果たしてことを成すことが出来たであろうか?当日は雲1つ無い快晴であったが、雨の日はどうするのだろうか?疑問は幾らでも出てきたが、とても聞ける雰囲気ではなかった。今もあのレストランはあるのだろうか?

6日目。国境の街、満州里を離れる。又24時間を汽車で戻るのである。今度は2人旅であったので、時間は直ぐに過ぎたような気がする。

(5)ハルピン
7日目。昼頃ハルピンに戻る。ハルピンに最初に着いた日がかなり遠い過去のような気がする。やはり列車で1日の旅を往復するとかなり疲れる。
ハルピン駅と言えば、伊藤博文だろう。1908年この駅で暗殺された。安重根は戦後韓国の英雄となっている。伊藤はどの様な思いで、異国の地で命を落としたのだろうか?
ハルピンは日清戦争後に東清鉄道が起工された時、本当に何も無い漁村だったと言う。その後鉄道開通と共に、東のパリ・モスクワと言われるほどの繁栄を極めた。鉄道の威力は恐ろしいものである。

Kさんと一緒にホテルを探す。確か駅からそう遠くない、華僑飯店に部屋を取ったと思う。2人で1部屋であり、まあまあ清潔でかなり安かった。

駅では明後日の長春行きの軟座が取れた。ハルピンでの行動は2日と決まる。
早々ハルピンで日本語教師をしているK女史に電話する。彼女とはこの前昆明で思いがけず再会し、その際東北旅行の際に寄る事を伝えておいた。明日の夜会うことにする。

初めてハルピンの街を歩く。他の中国の都市とは明らかに違う。道が何となく綺麗である。ロシア正教(?)のモスクが見える。坂道が洒落て感じられる。5月の東北は気持ちが良い。松花江は大河である。向こう岸が辛うじて見える。中州のようなところがあり、近くは感じるが川幅はかなりある。冬はこの大河が凍り、スケートが出来るという。中国とは本当に広いところである。

8日目。K女史と会うため、彼女の勤務先のハルピン師範(?)を訪ねる。建物は結構古かったが、上海の我が大学よりは歴史があり、洒落ているように感じる。ロシア建築なのか?彼女はここで一人で日本語を教えているのだという。私にはとても出来ない。冬はどうして過ごすのだろうか?

彼女がレストランに案内してくれる。ロシア料理屋だという。ビーフストロガノフやピロシキを食べた。何よりも驚いたのは、筋子であろう。どんぶりに山盛りの筋子が2つ運ばれてきた。1つ5元だという。そのまま食べられるというので、思い切って口に入れる。美味い、イクラのプチプチした感じがとても良い。食べている間に涙が出そうになる。私は決してイクラが好きだと思ったことは無いが、この北の果てで口に出来ることは感動物である。

夜街を歩くと、ロシア系の白人や中央アジア系の彫りの深い顔立ちの人が歩いていることに気付く。国境ではお目に掛かれなかった人々は実はここに居たのだ。出入りの厳しかったこの時代でも、北の外れでは国境貿易が盛んに行われ、人の往来はあったのである。K女史には『頑張って』と一言言って分かれた。しかしあれから一度も会っていない。

2.長春
9日目。佳木斯・牡丹江方面に行くというKさんと別れ、昼前の列車で長春へ。Kさんとはその後全くコンタクトを取っていなかったが、人生とは面白いもの。12年後に北京に赴任した際、長男同士が日本人学校の同級生となり、奇跡的に再開を果たすことになる。尚Kさんは私と最初に会った場所を満州里だと思っていたが、私は自分の記憶が正しいと今でも信じている。

軟座で快適に過ごす。ハルピンを出て少しすると、もう一面北の大地である。所謂地平線が見える。山も無い、建物も無い。その風景は延延と続く。戦前一旗揚げようと内地から来た青年の気分である。

午後長春着。ここが旧満州帝国の首都であった新京である。駅前から人民大街が真っ直ぐに伸びている。風が強い。かなり強い。砂が舞う。黄砂である。砂が目に入って痛い。見ると自転車に乗る女性がスカーフを顔に掛けている。驚くのはおじさんが何と、パンストを被って顔を覆っている。駅で瀋陽行きの切符を買おうとするが、何といっても無いという。途中駅から軟座を買うことは不可能だそうだ。硬座も難しい。初めて『無座』という切符を買う。自由席とでも言おうか?

ホテルは確か長春飯店ではなかったか?受付に行くと『1元だ。会社の紹介書を出せ。』とぶっきらぼうに言われる。紹介書などは無いと言うと『お前は華僑か?なら25元だ。』という。同じ部屋が何故そう違うのか?更に華僑でないというと『外国人は50元。』だと。驚く。そんなに違うのか?最後に学生証を出すと『じゃあ、華僑料金だ。』と25元を取られる。

街を歩いて行くと直ぐに新民大街に行き着く。ここら辺りは東京駅のような建物があり、旧満州国時代の建物だと分かる。今でもこのような建物が残っていること自体が意外な感じがする。しかもその建物を病院や役所として現在も使用している。中で働いている人々はどんな気持ちなのだろうか?既に戦後40年、特に感慨も無いのだろうか?

よく見てみると一人の老人が感慨深げに佇んでいる。この風の中で立ち止まっている人は珍しい。近づくと今にも涙を流しそうな顔をして、遥か遠くを見つめている。服装から日本人と判断される。きっと若かった時代に何らかの関わりがあったのだろう。このような老人は上海のバンドでも見かけた。一度などは本当に泣いていたので、物取りにでもあったかと思い、声を掛けると『50年前とちっとも変わっちゃいない。』とポツリと呟き、又一人の世界に埋没していった。

1987年の丁度この頃、上海ではスピルバーグが『太陽の帝国』という映画を撮っていた。バンドの裏道では看板の字を書き換えれば、そのまま撮影出来たそうである。そう言えばエキストラとして留学生が多数出演した。但し日本人は必要ないということで、専ら西洋人とインド人、アフリカ人が採用された。

ラストエンペラー、この映画は大分後に見た。長春に行った頃はあまり知識が無かったと思う。溥儀の人生は本当に時代の波に翻弄されたと言えるが、同時に旧満州に集まった幾多の日本人も時代の波に翻弄されたと言えるのではないか?最近はそう思うようになった。大杉栄を殺害したとされる甘粕大尉を坂本龍一が好演していたが、満州の映画水準は高かったようだ。李香蘭などを輩出した背景はもう少し勉強してみたい(日経新聞に本人が私の履歴書を掲載。非常に参考になる)。又満鉄も興味のある対象であろう。確かに日本は悪いことをした。しかしその時代に行われたことは今に繋がっているのではないだろうか?建物だけが残っている長春でそう思う。

余談だが、満州で活躍した民間人に小沢開作という歯医者がいた。その息子は陸軍大将板垣征四郎と関東軍参謀石原莞爾の一字ずつを取り、征爾という名前がつけられた。世界的な指揮者、小沢征爾である。戦争犯罪人(?)の名前を付けた指揮者を中国は受け入れるのだろうか?不思議な気分である。

夜今日が自分の誕生日であることに気付く。25歳になる。どうも毎年誕生日は寂しく過ごしていた気がするが、特にこの日は寂しかった。ホテルのレストランで夕食を取っていると日本人の女性が一人で食事をしており、向こうから声を掛けてきた。何時もであれば存分に話したであろうが、この日だけは何故か全く話す気になれず、直ぐ失礼してしまった。やはり新京の夜だったからであろうが?

10日目。午前中に長春を出発。無座の切符は本当に席が無かった。少し行けば席が空くだろうと思っていたが、案に相違して人は増えてくる。仕方なく、車両の連結部分で荷物の上に座る。ところが途中で掃除のおばさんが来る。おばさんは容赦なく、モップを使う。荷物があろうが人がいようがお構いが無い。おまけにバケツの水を思いっきりつけるので、床は水浸しで、座ることも出来なくなる。長春—瀋陽間の4時間は本当に長く感じられた。

3.瀋陽
瀋陽到着。旧満州の奉天である。駅前の遼寧賓館に向かう。旧大和ホテル。1927年創建と言われる。先日武漢で旧大和ホテルに宿泊し、その歴史的な建物に感動した。ハルピン、長春では既に無くなっていたのか見つからなかったが、ここ瀋陽では健在であった。簡単に泊まれないと覚悟していったが、意外や直ぐにシングルの部屋が出てきた。こじんまりしたその部屋はかなりレトロな雰囲気で気に入った。ロビーは昼間にも係わらず薄暗かったが、天井も高く非常に雰囲気が出ていた。

午後瀋陽故宮を訪ねる。清朝の前身、ヌルハチ、ホンタイジにより建立された宮殿である。その後北京に遷都されたため、かなりこじんまりしている。歴史好きの私はあの強大な清朝を築いた満州族のことを考えた。少数民族が中国を支配する、これは想像を絶する苦労があったはずであるが、我々はそのようなことを学んだ記憶が無い。

関東軍によって張作霖が爆殺されたのも、1931年に柳条湖で満州事変が勃発したのも、この瀋陽近郊である。本当に歴史がある街である。現在では9・18事変陳列館や張学良旧居陳列館などが整備されており、歴史を見ることが出来るが、当時は博物館があった程度か?あまり記憶が無い。

夜Kさんに教えられた朝鮮族の開いている焼肉屋に行く。ある道に所狭しと屋台がある。場所柄か朝鮮族はかなりいるようだ。キムチを食べると美味い。久しく味わうことが無かった味だ。焼肉も久しぶり。美味い。

11日目。遼寧大学を訪ねる。満州里で会ったKさんは未だ帰っていなかったが、大学の後輩Oさんが面倒を見てくれる。彼女は以前上海の我が大学に来て、1年後輩のKS君の部屋にもう1人の女性と泊まっていったことがあり、面識がある。当時上海では宿を確保することが難しく、市の中心から1時間も掛かる我が大学に宿を求めてやってくる人が結構いた。彼女は更に節約する為、KSくんの部屋に寝ることにしたようだ。確か余った布団を運んだ記憶がある。実はここには私の大学の同級生KMさんが留学しているが、今回は他に旅行に行っていて会えなかった。私は日本で大学に殆ど行かなかったが、同窓生たちは皆中国で活躍しており頼ることになる。不思議である。

※後輩OさんによるとKSくんの部屋に泊まった事情は違っていたようだ。以下説明。

『どうでもいいことですが、復大のKS先輩の部屋に泊まらせてもらったのは「更に節約する為」ではなく、前日はちゃんと宿泊料を払って復大に泊まりましたが、その日は便利な音楽学院に宿を移そうと復大をチェックアウトしてしまったところ、音楽学院へ向かう途中で連れの同学がバスから転落して腰を痛めて動けなくなった上、やっとたどり着いた音楽学院は満室で断られ、途方にくれてKS先輩に迎えに来てもらい復大に舞い戻ったものの、急だったので专家楼の高級部屋しか空いていなかったためです』

遼寧大学は北陵公園の近くにある。北陵はホンタイジの墓陵である。かなり広い敷地であるが、風が強く早々に引き上げる。留学生宿舎に行くと大騒ぎである。何と各国の留学生が散らし寿司を作っている。皆楽しそうである。我が復旦大学とは雰囲気が大分違う。やはり規模が小さいこの大学では各人の距離が近いようである。

Oさんの勧めもあり、夕飯をご馳走になる。散らし寿司と巻き寿司である。しかし当時の留学生としては凄いご馳走である。ワイワイ食べるのも良い。驚いたことにその輪の中に、ドイツ人の留学生が2人いた。何処かで見たことがあると思ったら、何と雲南省のシーサンバンナで夜一緒に歌って踊った人達であった(彼女らはドイツ民謡を歌い、我々は炭坑節を披露。)。日本人留学生の中には可愛らしい彼女らと文通しようと試みた人もいたので、思い出した。

留学生の話では、この宿舎は真冬で氷点下20度になっても、夜10時にスチームが切れる。その寒さと言ったらない。またシャワーの湯も一日3-4時間しか出ない。我が復旦大学はスチームもシャワーも何時でも使える。文句ばかり言っているが、如何に恵まれているかが分かる。

4.大連
12日目。大連へ。遼寧大学の日本人留学生も1人一緒に行くというので、2人旅となる。また驚いたことに例のドイツ人留学生も別途大連に行くというので、後日の合流を約す。前回の無座に懲り、今回は何とか軟座を抑える。軟座は6人掛けと4人掛けが左右にある。今回は6人掛けの真ん中に座る。風景を見、本を読んで過ごそうと思ったが、他の乗客が色々と質問してくる。この辺りの人々の日本に対する関心の高さが伺われる。6時間の旅があっと言う間に過ぎる。大連駅着。この駅は大きく感じられる。立派な作りである。遠めに見ると駅が高台にあるように見える。2階が出発、1階が到着だった気がする。空港みたいだ。

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大連には大学時代の知り合いの方がいた。実は昨年12月にその方を訪ねるべく、上海から飛行機に乗ろうとしたことがある。ところがどうしたことか、1日目は飛ばなかった。仕方なく、華東師範の宿舎に泊めて貰った。ここには同じ会社から派遣された留学生が居たのだ。何しろ復旦大学に戻るには時間が掛かるし、何よりも翌日又来ることは不可能に近い。一般の中国人は民航がアレンジする宿に泊まるらしいが、外国人が泊まるのは結構厳しい環境のようだ。

翌日も朝7時に集合したのに何のアナウンスも無く、飛ばない。昼に飛ぶのではと言う話があり、1時まで待ったが飛ばない。昼飯を食っていない。見ると日本人の出張者らしい人が揉めている。流石に1日以上待たされて何の情報も無いことに耐えられなかったらしい。私ももし仕事であったら到底耐えられないだろう。結局その騒動に巻き込まれる。通訳をしてくれと言う。しかしその罵るような日本語を訳すのは難しい、と言うより訳しても意味が無い。状況は民航側も良く分かっており、皆が関わらないように努力している。

最後は昼の時間が終わってしまった国内線の食堂ではなく、国際線のロビーに入れてもらい昼食を取った。中国で仕事するのは大変である。その後大連ではなく、ハルピンに行く飛行機が手配され、その出張者は去っていった。私も乗ることが出来たが、ハルピンー大連間は汽車で十数時間掛かる。ましてや12月、ハルピンは零下20度以下である。結局諦めてチケットを払い戻す。飛行機の飛ばなかった理由は大連の天候が悪いと言うことであったが、大連に電話すると快晴だと言う。後日我々の乗ろうとしていた飛行機が上海に着く前に墜落していたことが分かる。これにはかなりビビる。

それは兎も角、大連では知り合いのIさんにホテルの手配をして頂いた。場所は南山賓館、Iさんは南山賓館別館の戸建に住んでいた。ここは戦前日本人が住んでいた場所である。部屋は古いが清潔であった。

大連に着いて直ぐ、中山広場の近くに新しいホテルが出来ているのを発見した。例のドイツ人留学生も合流したので、洋食でも食べようということになり、その中のレストランに入ったが、そこは留学生には場違いなほど立派な洋食で貧乏留学生の我々はパンとスープとサラダを食べて早々に退散した。

その頃は確か港への道はスターリン街といっていたと思う。その道を行くと突き当たりに立派な港が見えた。大連港である。荷物を持ち上げるクレーンなども見え、規模はかなり大きかった。この港から40年前命からがら逃げたようとした日本人が居たかもしれないことなど全く感じられない。大連の街並みは極めて日本的である。低い日本家屋が彼方此方に残り、アカシアの木がいたるところにある。

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特に宿泊先の南山賓館付近はその面影を色濃く残しており、ここは日本かと思ってしまうほど。5月は季節的にも最高で爽やかな風が心地よい。最も相応しい時に来たものだ。昨日までは何で黄砂のシーズンに東北旅行に来たのかと思っていただけに喜びもひとしおである。

夜はIさん宅で夕食をご馳走になる。もう何ヶ月も味わったことの無い、日本の家庭の雰囲気である。奥さんが丁寧にお皿をテーブルに置くだけで感激してしまう。日本食である。これが私の求めていた日本の家庭料理である。この時私には分かった。我々は日本飯が食べたい、食べたいと何度も言っていたが、それはてんぷらや寿司ではない。テーブルに載っている醤油をちょっとかけたお浸しであり、サラダにかけるマヨネーズが日本飯なのであると。

大連の駐在は退屈だというIさんは毎晩テレビゲームで野球をやっている。物凄く上手い。その晩他の駐在員もやって来て試合をしていたが、一体どれだけ練習したのかと言うほど熟達している。私などは全く出来ないので観戦していた。しかし駐在員と留学生では待遇がこうも違うのかと思うほどIさん夫妻の生活は恵まれているように見えた。

13日目。街をうろついたが、よく覚えていない。昼に『清水』という日本飯屋に行く。昨日は日本飯の本来の姿を見つけた気がしたが、さりとて刺身が食える店があると聞いては行かざるを得ない。その店は純日本風であった。12時に行くと客は誰も居ない。メニューを見ると刺身定食が20元もする。当時の20元は上海でも相当使い出がある。かなり高い店だと思いながら、やはり刺身定食を注文。その定食が来てビックリ。何と刺身の船盛といった様相で、刺身が物凄い量載っている。これはとても食べきれないと思いながら、一口食べるとこれがこの世の物とも思われないほど美味い。この感激は今でも思い出すことがある。結局一人で全部平らげた。

午後ぶらついてホテルに戻るとIさんから電話で、『明日は海が荒れるので船が出ない可能性がある。今晩の船で行け。』と言われる。このあと私は山東半島に渡るつもりにしており、その切符をIさんにお願いしていたのだ。少し心残りであったが、今晩離れることにする。

実は私は大連でどうしようか迷っていることがあった。それは旅順に行くことだった。当時軍港である旅順は外国人未開放地区。しかしあの日露戦争の203高地・旅順監獄などは是非見たいと思っていた。Iさんには『中国人に成りすましてツアーに入ればお前なら大丈夫』と太鼓判を押されていた。ただ問題は昼飯の時に『糧票』という米配給券を持っていないと怪しまれる可能性があるとのことで、結局断念して船に乗ることにした。あの時旅順に行っていたらどうなっていただろうか?何かを見ることが出来たのだろうか?数年前に外国人に解放された後も結局未だに旅順に行っていない私なのである。

南山賓館をチェックアウトしようとすると問題が起こった。国際電話代を払えと言う。私は昨夜確かに日本に電話を試みた。しかし繋がったと思うと切れてしまい、話が出来ないで終わっていた。ところがホテルの記録では通話したことになっている。フロントに何度説明しても払え、の一点張り。支配人を呼んでもらい更に説明したところ、何と『支払わないなら、公安に連絡する。全国のホテルにもお前のような人間を泊めない様触れ歩く。』と脅しを掛けてきた。

日本人が良く利用するホテルでこのような扱いを受けるとは心外だ。しかし船の時間が迫っていた。Iさんに迷惑を掛けるわけにも行かず、しぶしぶ支払う。これまで最高の印象であった大連に汚点が残った。

5.煙台
煙台行きの船は夜8時に出航した。Iさんのお陰で1等船室に乗る。1等は2人部屋である。相方は山東地方の幹部のようだ。彼は最初二言三言話しかけてきたが、私にはそれがとても標準語には聞こえなかった。分からないで居ると先方も諦めて早々に寝入ってしまった。私は夜景などを眺めようとするが漆黒の闇である。何も見えず仕方なく、まどろむ。

どのくらい時間が経ったのか?船が停止する気配である。時計は午前3時。そういえば何時に到着するか聞いていなかったが、こんなに早いとは。船を下りると乗客は迎えのものや宿屋の者に伴われて何処かへ行ってしまう。下手に宿屋に着いて行くと危険だと考えた私は気が付くと完全に取り残されてしまった。全くの夜中である。全く知らない街である。これには途方に暮れた。しかも一人である。初めて一人旅の孤独をもろに味わった。

とうとう港の明かりも消えて、少しでも明かりのあるほうに歩き出す。しかし中国の田舎町の夜中は暗い。それでも不思議なのはたまに人が自転車に乗っていたりする。それが救いであった。それと外国人は絶対に襲われない、という観念である。これが無かったらとても歩くことは出来ない。フラフラ歩いていると明かりが見えてきた。今地図で見ると1kmもない所に煙台駅がある。そこに辿り着くのに物凄い時間が掛かったように思われたのは孤独のせいか?兎に角駅で腰を降ろす。6時に切符の売出しがあると言うので、2時間待つ。それ程寒くなかったのも救いである。

6時に青島行きの軟座を取る。本日12時発である。それまで煙台の観光をしようと思ったが、疲れで眠たい。小山の上の公園のベンチで寝ることにした。ところが太極拳が始まり、直ぐに起こされてしまう。他に寝る所も見つからない。仕方なく、郊外行きのバスに乗り、その中で寝ようとした。しかし中国のバスである。物凄い揺れである。道もでこぼこである。何回もしこたま頭を窓ガラスに打ち付けて寝られない。観念して駅で寝て待つことに。しかし不幸は続くもの。12時発の青島行きは何時になっても列車が来ない。相当遅れるようだ。食べ物も無い、寝ていない、極限状態に陥る。あの大連の幸せな生活は何だったのか?奈落の底に突き落とされるとはこのことだ。

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結局列車は夕方6時に煙台を離れた。私は既にグッタリしていた。隣の中国人が心配してくれた。ありがたいものだ。青島の泊まりはどうする、そうだこれが喫緊の課題。何と青島着は夜中の12時である。昨夜の二の舞だけは避けないと。中国人が言う。『駅前に華僑飯店がある。あそこなら外国人も泊まれるし、何しろ便利だ。』

6.青島
列車は12時に青島に到着した。今回は余裕があった。何しろ駅前のホテルに行けばふかふかの布団に寝られるのだから。しかし中国はそんなに甘くは無かった。一瞬でも甘い夢を見たものは地獄に落ちることがある。あの時の私が正にそうだった。駅前は暗かった。そしてきょろきょろしたが、ホテルらしい建物は無かった。ガイドブックで見ると確かに駅前にあるはずだ。その場所を探り当てると何だか工事現場のように見える。通り掛った若いカップルを捕まえて『華僑飯店はどこ?』と聞いて驚いた。なんとここだと言う。と言うことはつまり、・・・建て替え工事中だったのだ。目の前が真っ暗になり倒れそうになった。

それを見ていたカップルは心配そうに『ホテルを探しているのなら、一緒に探そう。』と言ってくれた。地獄に仏である。当時中国でこのような親切な言葉を聞くことは極めて稀であったから、涙が出るほど嬉しかった。しかし駅付近に明かりは乏しかった。彼らも当てがあるわけではなさそうで、つい言ってしまって後悔していたかもしれない。

3人で5分ぐらい歩くと明かりのある建物があり、3人の人が丁度中に入ろうとしていた。カップルの男性がそこに行き、そこの人と何やら話している。きっと説明してくれているのだろう。5分ぐらい問答があって、彼が戻ってきてOKを出した。泣きたいぐらい嬉しかった。お礼もそこそこに中に入った。中に居た男は無表情であった。確かにこんな夜中に突然客が来ては迷惑なのだろうと解釈した。登記は?と聞くと要らないという。宿賃は?と聞くと1元と答える。何だか妙だが、兎に角眠たい。部屋に案内されると既に数人が寝ていた。ベットが1つ空いており、そこを指されたので、直ぐに寝入った。本当に倒れ込むように。

翌朝朝日が目に入った。既に同室の何人かが起き出していた。6時である。未だ早いと寝ていると7時前に一斉に何かの音がした。目を開けて驚いた。同室の5人が皆同じ服を着て、ベッドの布団を片付けて居たのだ。それでも未だ夢現で、やけに礼儀正しい中国人だな、と思った程度であった。しかしベッドの中で何か引っかかるものがあり、再度目をあけてよく見ると恐るべき事態が認識できてしまった。彼らの服は紛れも無い人民解放軍の制服なのである。それが全員同じ服ということは・・・??

慌ててジャージのまま外へ飛び出す。建物の入り口の看板はやはり見ていけないものであった。『山東人民解放軍宿舎』それは今でも同じだと思うが、どう見ても外国人が立ち入れる場所ではなかった。昨夜のおじさんを探したが、居ない。と言うことはここで誰かに身元を尋ねられた場合、最悪のケースで逮捕連行されることもあり得る。咄嗟にそう判断し、急いで着替えて一目散に外へ飛び出した。

当時は今と異なり、中国人女性と街を歩いているだけでも公安の尾行がつくと言われた時代。知らなかったと言えば済むのかどうか?まあ冷静に考えれば、説明すれば何とかなったではないかと思うが、その時の異常な恐怖は今も鮮明に思い出せる。それが中国の怖いところなのである。まあその後日本人で人民解放軍宿舎に泊まったことのある人にお目に掛かった事はない。かなり異例、特異な体験であった事は間違いない。

何とか駅に向かった。先ずはこの地を離れなければ。駅で並んでいる間も誰かが追いかけてこないか心配であった。私の順番になったが、上海行きは3日先だという。一番早い列車は西安行きの硬座が今日あると言う。一瞬考えたが、その体力は無さそうなので、バスに乗り、中国民航のオフィスに直行した。

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オフィスに着くと人を掻き分けて係りの人に『今日の上海行き』と怒鳴る。当然の如く『没有(ない)』との答え。必死の私は『今日乗せないで俺が死んだら全てお前のせいだ。』と怒鳴る。先方もその剣幕に尋常でないものを感じたのか奥に引っ込んで5分ほど出てこなかった。逃げを打たれたかと思っていると、何故か『有(ある)』と言って切符をくれた。それは午後の上海行きだった。

何だかホッとしてしまい、力が抜ける。と腹が減る。よく見ると海岸が見える。そうここは風光明媚な青島である。昨夜の駅前は悪夢である。そう言っている様だ。王朝大飯店と言う立派なホテルがある。そこで飯を食う。美味い。景色も良い。このホテルには日系企業の事務所もあるようである。何だ、このホテルまで来れば何の問題も無かったのだ。しかし昨日の状態ではここまでとても来られなかった。兎に角早く脱出しよう。

青島の海は有名なようで中国銀行だの、何とか企業だのの保養施設が目に付く。中国では一生海を見ないで死ぬ人も多いと聞く。海辺では一生に一度海に入る人のために??海パンをレンタルしている。しかし人の履いた海パンを履く気分はどんなものであろうか?

昼民航バスで空港へ。道が悪く1時間半ほど掛かる。しかしこの頃にはかなり安堵しており、逃げ果せたという感じで夜上海で何を食うかなどと考え始める。ところがチェックインが始まり切符を渡すと横で待てと言う。どういうことかと食い下がると、係員は親切に『お前の切符はダブルブックだ。ほれ、ここに井桁のマークがあるだろう。これが証拠だ。もし満員でなければ乗れる。』と言われる。

また奈落の底である。どう見ても乗客は沢山いる。私が乗れない確率は高い。オフィスの人間は私の剣幕に恐れ、取り敢えず切符を渡したのである。しかしここはどうしても乗らなければならない。また青島の街に戻ることなど考えられない。係りを捕まえて『外国人は料金を3倍払っている。当然優先されるべきである。』と必死で訴える。とうとう係りは根負けして切符を出す。私はタラップに向かって走る。ドアが閉まる。漸く長い戦いが終わる。2時間後上海上空に来た時、あんなに嫌っていた上海が妙にいとおしく感じられた。

今回の旅は前半が快適、後半は中国の恐ろしさを嫌というほど味わった、特に青島では。1987年の中国とはこのような所なのである。今にして思えば、困っていた私を親切にも泊めてくれた解放軍のおじさんがいた、無理やり切符を出してくれた中国民航の人がいた、とも思えるのだが、その当時はやはりかなり社会が緊張していたのだ。杓子定規な社会主義国家であったのだ。自分も常にその緊張の中にいたということだ。

その後中国ビジネスに携わった時も今回の教訓は大いに参考となった。また余談を言えばその2ヵ月後会社の仕事で通訳をする機会があったが、相手は山東人。訛りが酷く言っている事は殆ど分からなかったが、この山東旅行のお陰で最低限の会話を成立させる事が出来、何とか面目を保った。

百聞は一見に如かず、とはやはり中国の諺である。

 

 

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