《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》雲南・四川ー3泊4日列車の旅とこの世の楽園

〈6回目の旅-1987年1-2月雲南、四川〉
―3泊4日列車の旅とこの世の楽園

1. 留学生旅行
私は大学の授業には熱心ではなかったが、大学に所属はしていた。中国の大学は9月始まりの前後期2期制であり、中間には旧正月休みが約1ヶ月ある。1月中旬には旧正月休みに入った。

これまでの数回旅は全て自費。誠にセコイ話だが、1度ぐらい社費で研修旅行が出来ないものか人事部に相談したところ、大学主催の旅行であれば、費用を出してもよいとの返事があり、この旧正月に行われる留学生旅行に参加することになった。この旅行は留学生事務室の先生が同行し、留学生のみが参加できる。今年の目的地は雲南省。費用は計日本円約2万円、全工程12泊程度の旅である。参加者は日本人の他、西洋人、ロシア人、アジア人など様々であった。

2. 雲南へ
1月18日であったと思う。恐らく参加者30人以上が宿舎をバスで出発し、上海駅へ。上海駅は既に何度か利用しており、慣れたものになっていた。夕方出発。今回の車両は硬臥、但し留学生特別の綺麗な車両であった。硬臥は1部屋にベット上中下3段が2つ。6人部屋だ。我々日本人は大人数であり、同国人同士で部屋を占領した。今思えば各国の人間と交流すべきであるが、当時どうも日本的な村社会になっていたのは極めて残念。

直ぐに夜になり、食堂車へ。旧正月前で混雑しており、飯も相変わらず不味い。寝る前には企業派遣生同士で下らない話をして過ごししたが、他の学生は我々より若い本当の学生なので修学旅行気分で大騒ぎする。確か10時頃には消灯になったと思うが、夜中までうるさかった記憶がある。

1月19日、列車の旅2日目。朝から持参のビスケットをかじる。当時の旅行の必須アイテムは、トイレットペーパー1巻とビスケット・カップヌードル。何時何が食べられるか分からない中国の旅で食料は重要。因みにビスケットはマクビティ、ヌードルは日清。トイレットペーパーはトイレの必需品。例え紙があったとしても、新聞紙のような硬いものが多く、多用すると痔を患う危険があるため、柔らかい紙を上海で買い込み乗り込むのである。

ところで窓の外の眺めであるが、前回の江南の旅とは大違いで、何も生えていない荒涼とした台地が続いている。最初は中国らしいなどと尤もらしく眺めていたが、この風景が5時間経っても,10時間経っても変わらない。中国大陸の広さを実感する。と同時に、中学の社会科で勉強した『面積は日本の26倍、但し可耕地面積は僅か5倍』を思い出す。土地があれば良いというものではない。

その内皆やることが無くなり、トランプを始める。所謂『大富豪(大貧民?)』。結局1日中、熱中する。トランプは中国人も好きである。何処からともなく、中国人の学生が紛れ込み、ルールを覚えて輪に加わってしまった。彼も上海の大学生で帰省するところだった。上海でも多くの大学生が我々留学生に近づいてきたが、多くはタバコがほしいとか、人民元を両替したいとか、外国人を利用しようとするものであまりよい印象が無かったが、彼は一生懸命トランプをしており、好感が持てた。

夕飯もカップヌードルで済ませる。夜10時頃、真っ暗な中、大きな岩山が連なっている駅に停まる。桂林だった。いつかまた来ようと思った。この頃には皆列車に飽き飽きしており、争って列車を降り写真を撮った。既に乗車後30時間が経過していた。

1月20日、列車の旅3日目。もう起きあがる気力も無い。私のベットは一番上であったが、天井までが近くて圧迫感がかなりある。仕方なしに下に降りるが、皆虚ろな状態だ。運動もしていないので食欲も無い。日本ではこんなに長い列車の旅は考えられない。よい経験をした、と後では言えるが、この時はもう2度と乗りたくないと思ったものだ。

景色も相変わらず、荒涼とした大地。かなり塞ぎ込んでいた一人が行き成り立ち上がり食堂車へ。心配で付いて行くと、何とご飯を貰いその上からカップヌードルをかけて食べている。『旨い,旨い』冗談で言っているように聞こえず、ぞっとした。

3.昆明
1月21日、4日目。愈々雲南省の昆明に到着だ。予定より3時間遅れて(はっきり言って誤差の範囲内だが、この3時間は長かった)、合計66時間、朝8時であった。ある日の夕方上海を出て、ある日の朝昆明に着いた、という表現が正しい。兎に角全員伸びをした。列車から降りても上手く歩けない感じがした。

さて、ここで2つの班に分かれた。私は先にシーサンバンナを目指すB班となった。A班は何とこれから直ぐにバスで大理を目指す。一瞬気の毒に思ったが、大理には大理石の風呂があると聞いて、そちらに行きたくなった。3日も風呂に入らないのは耐え難いものがあった。後で分かったことには行かなくて本当によかったのだが。

大学の旅行であるから、宿舎もホテルではなく、昆明の大学の招待所であった。B班は即座に招待所に入った。シャワーを探したのは言うまでも無い。だが、『湯は5時』からしか出ないとの答えであった。とてもがっかりしたが、ここは中国、仕方が無い。

頭を切り替えて昆明の町に出る。昆明飯店か雲南飯店か忘れたが、そこの小売部(売店)で冷たいビールを買おうとした。1月とはいえ、昆明は南国で暖かかった。列車の疲れを冷たいビールで癒す、実に日本的な発想。『冷たい(冰的)ビール下さい。』と言ったところ、ここのビールは全てビンで、カンは無い、と言われる。冰は北京語でビンと発音する(その後駄洒落として使用)。結局生ぬるいビールを渡される。彼女にはビールを冷たくする発想は無かったのだ。当時中国で冷えたビールを飲むことは至難の技であった。因みに日本以外ではビールを冷やさないで飲む方が多いと聞いたのは後のことであった。

午後車をチャーターして、どこかの寺に行った。風呂に入るまでの時間潰しだ。山の上にあるその寺は観光地のようであった。運転手も観光客慣れしていて、油断のならない相手であった。隙あらば、金を掠め取ろうと狙っている。普通の地方都市とは少し違う印象を受けた。

早々に招待所に戻り5時を待つ。企業派遣生には暗黙の了解で年功序列がある。5時に年上の2人が先ずシャワー室に向かう。直後悲鳴。『熱い、熱い』。何とお湯は出るが水が出なかった。4日風呂に入っていないので、行き成り浴びようとしたらしい。直ぐに文句を言いに行く。ところがそこのおばさん曰く、『5時に湯が出るとは言ったが、水が出ると言った覚えは無い。』中国人のああ言えばこう言うが始まる。参った。私は最年少、最後に入ろうとしたら、何とお湯も出なくなった。文句を言うと『今日はお仕舞い。』流石に激怒した。責任者を探したところ、うちの先生と談笑中であった。あの時は既に理性を失っていた。行き成り相手の先生に掴みかかろうとした。うちの先生が驚いて止めに入った。この件があったので、その後私は先生の間で札付きとなった。

今日風呂に入れないことはどうにも我慢が出来なかった。今でも我儘ではあるが、当時は皆さんに色々と迷惑を掛けたことだろう。先生に怒鳴り込んだ一件を聞いて、日本人の女性が部屋の風呂に溜めていた湯を使わせてくれることになった。涙が出るほど嬉しかった。この時私は砂漠では暮らせないことを確信した。旅行団に誰がいたか忘れたが、他国人にとって風呂は大きな問題では無いのだろう。誰も文句を言っている人は居なかった。

4.石林
1月22日、旅の5日目。当初の予定では本日シーサンバンナに向け出発するはずであったが、飛行機が明日になり、石林に行くことになった(と思う)。バスで3時間ほど行くと、カルスト地形の景勝地、石林に着く。

可愛らしい赤い民族衣装を着た若いガイドさん(何族かは忘れた)が、案内役として石を説明して行く。若い女性がニコニコして話してくれること自体、上海の漢民族では考えられない時代であり、それだけで嬉しかった。留学生は皆北京語力を試すと称して、盛んに話し掛けていた。少数民族とは漢民族に圧迫されてきた民族なのである。彼女たちがにこやかなのも抑圧の歴史の結果生まれたものではないか?

話に夢中になっている間に、大きな石を上り始めた。気が付いてみると数十メートル上ってしまった。しまったと思い、戻ろうとしたが、後の祭り。後ろには数十人が上ってきており、降りることは不可能。前方はほんの30センチぐらい間が開いており、向こう側に飛び移る(跨ぐ)仕掛けとなっている。

私は極端な高所恐怖症である。30センチとはいえ、下が数十メートルでは足が竦む。後ろに人が待っている。絶体絶命。その時ガイドのお姐さんがやってきて、私を抱えて向こう側に跨がせてくれた。皆は『羨ましい、俺もしてもらいたい。』などと軽口をたたいていたが、私は顔面蒼白だったと思う。あんな怖い思いは2度としたくない。たとえどんなに可愛い女性に抱きかかえられようとも。

5.シーサンバンナ
1月23日、6日目。愈々シーサンバンナ行く。現在は空港があり直接行けるようだが、当時は思茅の飛行場で降り、バスでシーサンバンナの中心景洪へ行った。昆明の飛行場へ行くと小さなプロペラ機が待っていた。何だか遊園地の遊具のようで、皆に不安がよぎる。誰かが『これはソ連製のアントノフだ。』と言った。一斉にソ連人留学生に視線が注がれる。ソ連人の一人が恐る恐る言った。『俺も図鑑でしか見たことが無い。』皆の恐怖は頂点に達した。

この事態を収拾すべき立場にあった先生は敢然として『没問題。』と言い、ソ連人留学生を機内に押し込めた。我々ももうどうにでもなれていった感じで従う。機内は椅子が全て倒れており、自分で引き上げて座る。50人程度しか乗れない小型機だ。

飛行機が動き出す。まるで死刑執行を待つ囚人のようだ。誰も何も言わない。『ブウーウ、ブウーウ』凄い音を立てて、滑走路を行く。皆自分の足を踏ん張る。さあ、上がるぞ,と思った瞬間、機体に力が無くなり、スピードが弱まる。皆がフーウ、とため息をつく。そうだ、力不足で飛ばないのだ。もう止めてくれ、降ろしてくれ、きっと皆が心で叫んだことだろう。無常にも飛行機は引き返し、再度トライする。通算4-5回目で漸く機体が上がった。皆が歓声を上げる。まるで小学校で逆上がりが出来たときのようだ。

上空に上がって一息ついたものの、窓から下を見るとはっきりと見える。ごつごつした岩場とか、水が多そうな湖とか。もし落ちたら痛いだろうな、と考えてしまう。機内はまるで外の空気が入ってきそうなほど、所々揺れている。

スチワーデス(そんな人が居るのです、こんな飛行機にも。)が紙パックジュースを投げてよこす。話には聞いていたが、初めて見た。当時サービスという単語は北京語には無かったのではないか、と思うほどサービスの概念が無かった。

1時間後、思茅の上空に来た。相変わらず、下はよく見える。山々に囲まれた中、とても空港があるとは思えない場所にそれはあった。小さいアントノフはスルスルと降下し、無事着陸した。何故アントノフなのかよく分かった。これより大きな飛行機では降りられないのだ。

タラップを降りると、暖かい日差しがある。近所の人が飛行機を眺めている。実に長閑な光景だ。ああ、よいところ来た、という予感があった。空港近くの招待所で昼食を取る。しゃぶしゃぶのような鍋が出る。美味かった。豚肉だったろうか?野菜も美味かった。疲れが吹き飛んだ。食後出発までの間、庭の庇の下で、体を伸ばした。気持ちがよかった。上海の1月は東京並みで0度前後。ここは25度程度で日差しも柔らかい。極楽、極楽。

バスはトヨタのコースター。2台に分かれて景洪を目指した。4時間の間、山の中のジャングルのようなところを上ったり降りたり。ソ連人は運転手に頼んで持ってきたテープを掛けてご機嫌。何と歌はビートルズで、ソ連で流行っているそうだ。時代が違う?途中から皆寝てしまったが、日本人が一人、運転手の横に座っていた。後で聞くとおしっこを漏らしてしまったそうな。何しろ4時間の間、運転手は一度もエンジンブレーキを使わず、フットブレーキのみで運転していた。その怖さといったら無かったようだ。中国では当時エンジンブレーキの概念は無かった気がする。故障が多いわけだ。

夕方景洪の町に入る。バンナ賓館(?)が今日の宿。2人部屋で清潔ではあったが、窓ガラスが割れていた。寒くは無いので問題なかったが、虫は入ってきたかもしれない。夕食までの間に町を散策。小さな町で直ぐ歩けた。皆一度で気に入った。先ず町の時間がゆっくり流れていた。暖かかった。人々がにこやかに笑いかけてきた。そして何よりも若い女性が綺麗だった(タイ族)。やさしそうな笑顔であった。そう我々は合計5日掛けて、この世の楽園に到着したのだ。上海には2度と戻りたくない。

夕食後、泊まっている人々と地元の人が交流した。宿舎の外国人向け企画だったのだろうが、非常に素朴でよかった。踊りが出た。歌が出た。うちの先生も歌った。我々も国毎に芸を披露する羽目になった。アメリカ人は映画の主題歌を歌い、イギリス人は民族舞踊を踊った。困ったことに日本人は突然皆で日本らしい芸をする習慣が無い。また団結する国の歌を持たない。これは問題だ、と痛感。最後はS銀行のHさんの音頭で炭坑節を歌った。踊りは殆どご愛嬌。兎に角楽しかった。
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1月24日、7日目。今日は川下り。瀾滄江(らんそうこう)はラオスとミャンマーの国境に流れている川。そのまま流れていけば国境越えになるが、その当時密出国しようとした中国人が撃たれたらしいなどという物騒な話もあった。

比較的大きな船に乗り込む。川幅が1km近くあったのでは?途中川べりで洗濯しているおばあさんや遊んでいる子供の姿を見かけた。圧巻は若い女性が水浴びしていた風景だ。船に気づくと恥ずかしそうに逃げていってしまったが、その光景は印象派の水彩画のようで、全くいやらしさが無く、感動してしまった。昨日に続いて楽園を感じる。

2時間ほど下り、ガンランバというところで下船。昼食を取る。ここはもう木々が生い茂り、農家が点在するだけの気持ちのよい田舎。小屋で飯を食べているとテーブルの下に家畜の豚が鼻をくんくんさせてくるのはご愛嬌。昨日に続き気持ちのよい食事。

景洪に戻り、近くの仏塔を見学。このあたりはタイ族が多く、タイ国のチェンマイあたりと同種。仏教への信仰も厚く、仏塔、仏寺が点在。この時タイに行ってみたいと思った。そしてこの後シンガポールに出国する予定を考え、この感動をシンガポール駐在員のH氏に伝えたく、絵葉書を出す。

1月25日、8日目。悲しいことにこの地を去る日が来た。分かれ難い、思わず涙が出そうになる。もと来た道を4時間バスに乗り、思茅の飛行場へ。飛行場でアントノフを待つと、やがて山の陰からスーッと飛行機が降りてくる。機内からA班の面々が降りてくる。声を掛けたが、皆疲れており誰も話もしない。これはどうしたことか?訳が分からず乗り込む。2回目はかなり余裕で乗れる。力も入らない。A班は揺れたのだろうか?

後で聞いた話だが、A班は悲惨だった。昆明に到着後そのままバスに乗ったが、そのバスがユーゴスラビア製のオンボロで、大理に向かった後、5時間後に故障。運転手は直らないと見るとヒッチハイクで何と昆明に引き返し、修理工を連れて戻ったが、その間1晩バスの周りで焚き火をして過ごしたそうだ。結局昆明―大理間を24時間掛けた。66時間汽車に乗り、それから24時間。気が遠くなる。

6.大理
無事昆明着。何処に泊まったか、全く記憶が無い。但し何故か例の大学の招待所ではなく、ホテルであった。お湯も出た。

1月26日、9日目。今日はもう1つのイベント、大理行きだ。大理石の風呂、朝からそれしか考えていない。バスはやはりトヨタのコースター(ユーゴスラビア製でなくて良かった。)。10時間掛かるという。途中川沿いや山沿いでは、下に転落しているトラックが何台もあり怖かった。例のフットブレーキのせいでブレーキが焼き切れたのだろうか?

本当に10時間掛かって、大理に到着。大理は古城と下関の2つの町がある。我々は古城の大理賓館に泊まる。確かにロビーも大理石で出来ているようで、大理石の風呂への期待が高まる。ところがこのホテルはあまり清潔ではなく、設備も良くない。その上、今日はお湯が出ないという。がっかり。

夕方町を散策すると古城の真ん中あたりに、喫茶店があった。勿論日本のそれとは全く違うが、お茶を飲ませてくれる。ウエートレスは白族のお姐さん。民族衣装も鮮やかで、記念写真にも応じる。一部の人々は明日も行くぞと張り切る。

1月27日、10日目。私はAさんと2人、下関へ行ってみる。他の人々は昨日の茶屋へ行く。下関は大きく、青空市場が盛大に開かれていた。民族衣装を着込んだ人々が沢山行き来していた。正月前の市であったのかもしれない。何とその中に昨日のウエートレスも居た。皆は空振りした、と可笑しかった。市で何を売っていたのか記憶が無い。

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市を外れると土で作られた家々が並んでいた。子供や若い女性が着飾って歩いていた。その様子が実に家々とマッチしている。民族衣装とはそういうものだとつくづく思った。

1月28日、11日目。10時間掛けて昆明に戻る。市内のホテルに泊まる。翠湖賓館?

7.再び昆明
1月29日、12日目。ホテルのロビーで知人と会う。その人から大学の同級生の女性がここに泊まっていると聞かされ、連絡し、昼飯を食う。大学時代ろくに授業にも行かなかった私は彼女、Kさんと話したことは無かった。彼女は卒業後日本語を教える勉強をし、今は何とハルピンで日本語教師をしているという。途轍もない人がいると思った。私のように北京語から逃げて、結局上海にいる人間もいれば、彼女のように志願して中国と係わろうとしている人もいる。確かこの時、昆明名物として、鹿の肉と過橋麺を食べた。

午後Aさんと相談して、旅行団と離れることにした。またあの長旅をして上海に戻る気にはなれなかった。駅で明日の成都行きの軟臥を買う。

Cさんが体の不調を訴える。恐らく長旅の疲れと高地である昆明の影響のようだ。急な山を登ったりしないので気が付かないが、昆明は海抜1,800mの高地なのだ。ホテルで近くの病院を紹介してもらい、頼りない通訳として付き合う。病院は当時の中国としては、割と綺麗であった(当時は本当に汚いところが多かった)。規模も大きかった。旧正月前で心配したが、かなり年配の女性が見てくれた。簡単な問診だけだったと思う。驚いたことに先生の言っていることが全く分からない。Cさんは心配そうにこちらを見ている。困った。若い女性が入ってきて、我々に分かる北京語で通訳してくれた。といっても、彼女によれば、年寄り先生の言葉も立派な北京語であるが昆明訛りが強すぎるとの事。

先生が病名を告げ、若先生が通訳したが、分からない。この時実感したのが、病名のような専門用語は知らなければ分からないという事。通訳を本業にするにはその地に住んで様々な経験をする必要があり、訛り、方言も考えれば、中国の場合は広すぎて全てに完璧な通訳は難しい。結局老先生が紙に一言、『不整脈』と書いて、決着。中国では最後は筆談である。中国では30歳以上の5人に1人は不整脈だと言っていたが、本当だろうか?

夜町中に爆竹が鳴り響いた。上海など大都市では危険だと言う理由で禁止になっている爆竹が地方都市昆明では堂々と鳴っている。正月気分は十分に出た。しかし一晩中には参った。

8.成昆鉄道
1月30日、13日目。成都へ向けて出発。何しろ66時間の経験があるから、24時間の旅と聞いても『何だ一晩か。短いな。』などと思うようになっている。この旅では、自分が成長した気分だ。

成都-昆明間の鉄道は成昆鉄道と呼ばれ、鉄道マニアの間では、有名。24時間の間に千を越えるトンネルがある。私は大学2年の時、桜木町で開かれた中国鉄道展でバイトをしたことがあり、写真集を売ったことがある。その時、来日した汽車の運転手から成昆鉄道のトンネルの多さを聞き、売り文句に使ったものだ。お客の一人に、『お前は行った事があるのか?』と聞かれて、恥ずかしい思いをしたのが今回の乗車の直接の動機になった。

夜7時に出発した。軟臥にはもう一人、三菱系企業より派遣された留学生が乗って居た。日本人で同じ境遇ということで気を使わずに助かった。特に昨日良く寝ていないので。

良くバックパッカーの旅行記などを読むと、行く先々の乗り物で市民と交流したりしているが、中国でこれをやると好奇心が人一倍強いのか、質問攻めにあったり、食べ物を無理やり食べさせられたりと、大変なことになる。私のように旅は出来るだけ静かにしたい人間にとっては、時に最悪の結果となる。

直ぐに夕食となった。食堂車に行くと香港人の団体で溢れて居た。但し彼らは麺を二口、三口口に入れると部屋に戻っていき、我々だけになってしまった。そう、この列車は成都管轄(中国では長距離列車の場合始発と終点のどちらかの管轄となる)で、食事も四川風。本日は旧正月でメニューは何と麺のみ。香港人が辛いものが食べられないことをこの時知った。我々もあまり食べられないくらい辛かったが。

部屋に戻ると腹が減った。3人で色々と旅の話をした記憶がある。窓の外は真っ暗で、ここが断崖絶壁なのかどうか全く分からない。トンネルは確かに沢山通っているようだ。Aさんが『キュウリのキュウちゃん』という漬物を持っており、皆にご馳走してくれた。こんなに旨いものを食べたのは久しぶりだった。

1月31日、14日目。朝から沢山のトンネルを通過。確かに多くの山を切り開いてトンネルを作っただけあって、山を越えるとまた山、トンネルを潜るとまたトンネル。当然途中で飽きてしまったが。

この間のことは良く覚えていないが、宮脇俊三氏の『中国火車旅行』を読んだところ、何と氏は1987年4月にこの鉄道に乗っており、克明に記録されている。以下抜粋したい。

『成都―昆明間は1,100kmの山岳路線。標高2,300mの高みに上がったかと思うと980mまで下がり、又1,900mまで上がるというように起伏も激しい。427のトンネルと653の鉄橋があり、ループ線やS字カーブの連続する区間もある。1970年の開通だが、大変な難工事だったという。』これだけの事を覚えていないとは、耄碌したのだろうか?列車酔いした記憶も無い。

『成昆鉄道は鉄道ファン云々というような生易しい鉄道ではない。辺境警備の為の軍事路線としての役割が強いのだ。鉄道局ではなく、軍の管轄下に置かれている。写真撮影は厳禁、スパイ容疑で逮捕されるという。』私はこんなことは全く知らないで乗っていた。恐らく何枚かの写真は撮ったはずである。怖い、怖い。

9.成都
夕方24時間きっちりで成都に到着。確か終点の一つ前の駅(成都南駅)で降りて、バスに乗って市内に向かう。兎に角暗かった。もし方向が間違っていたらどうしようと思うほど暗かった。これまで大勢で旅行しており、大変でも自らアレンジすることも無く来た為、心細さを強く感じた。

この町には錦江飯店しか良いホテルはないと聞いていた。迷わずそこへ行き、簡単にチェックインできた。これにはホッとした。このホテルは立派なホテルであった。上海にはこんな立派なホテルがあったろうか?ロビーの壁は大理石である。ディスコなどもあり、若者の服装も都会的であった。夕食はコーヒーショップでパンを食べた。いくら四川に来たからといって、行き成り四川料理を食べる気にはなれない。

夜ホテル内を散策していると、大手商社の成都事務所の看板を目にした。日系企業も殆ど無い時代であったが、流石に商社はある。私は一時就職活動で商社を志望し、この会社も真剣に検討したが、最後に『君は30年の商社生活のうち、15年は中国だろうね。』と言われて退散した覚えがある。その時熱心に誘ってくれた大学の1年上の先輩が成都に転勤になったと風の噂で聞いたのを突然思い出す。彼は10歳まで台湾で育った人で北京語はペラペラ。中国語を専攻する必要は全く無いと思われるが、何故か在籍していた人で、商社に入っても当然その語学力を買われ、中国で活躍していた。

思い切って事務所のドアを叩いた。偶々中に駐在員が居た。彼のことを尋ねると重慶に転勤したという。何ということだろう。これで北京、成都、重慶と3箇所目。僅か入社3年目である。本当に商社に入らず良かったと思った。

2月1日、15日目。朝も洋食。食後、杜甫草堂、武侯祠を訪ねる。両方とも歴史上有名な人物(杜甫、諸葛孔明、劉備)縁の場所。歴史に興味のある私は期待していったが、特に何も無くガッカリ。今は違うと思うが、当時成都は大都市ではあったが、地味な所という印象。強いて言えば、杜甫草堂の竹林が見事であった。

昼は有名な陳麻婆豆腐店に行く。麻婆豆腐一筋100年と言われる超有名な店。入ると早速注文。真っ赤な麻婆豆腐が出て来る。兎に角辛そう。とてもご飯無しでは食べられないと、ご飯を頼むが、これが大変。飯盛り30年といった感じのおじさんが、『糧票』を要求するのだ。これは中国人が米を買う時使う米購入券のことであるが、外国人は所持していない。代わりに外貨兌換券を使うことになっている。但し田舎ではこれが理解されない。金があっても買えない典型的な例。飯が無いと豆腐が食えないのでこちらも必死。最後はマネージャーのおじさんに泣きつき、何とか飯をゲット。無事に豆腐を食う。辛かったあ、飯があっても。

飯の縁でマネージャーに頼み、厨房に入れてもらう。鍋の中の麻婆豆腐は真っ赤。麻とは麻痺という意味。意味が良く分かる。

午後青葉山へ行く。特に行くところも無くて行ったのだと思う。道教の寺であった。寺は小山の上。かなり急な坂道で日本で言う駕篭かきがいて客を乗せている。珍しい光景だった。頂上まで上り寺に入るとかなり疲れた。寺の脇に茶を飲むところがあり、頼むと茶杯に茶を入れてくれる。成都は冬でも比較的暖かいところで、この日も15度ぐらいあった記憶がある。日本なら冷たい飲み物だろうが、中国では冷たい飲み物などは望むべくも無い。熱いお茶が旨かった。お湯を足してもらおうと小坊主(?)を呼び止める。中国ではその頃、レストランでウエートレスを呼び止めても、無視されることが多く、何か物を頼むとなると先ずいやな顔をされるのが普通。ところがこの小坊主はきびきびと動き、直ぐに薬缶を持ってきて丁寧に注ぐ。私が『謝謝』と言うと『応該的』と答えた。これには感動した。『応該的』とは、当然のことです、と言う意味。中国国内でこの言葉を聞いたのは、留学中この1回きり。実は謝謝でさえも、滅多に聞くことは無かったこの時代に本当に感動した。人間は態度と言葉で、随分違って見えると思う。社会主義の当時、サービスと言う概念は無かった。物を売る側も買う側も公務員だったから、礼を言う必要も無い、そんな時代だったのだ。金で頭を下げる時代もどうかと思うが、やはり社会主義は人間の根幹を駄目にする制度であったかもしれない。

同じ寺でも何処の寺か忘れたが、坊さんの写真を撮ってエライ目にあったこともあった。出てきた坊さんの服装が少し変わっていたので、寺の門を撮りがてら坊さんを入れてフラッシュを焚いた。いきなり数人の付き人がやって来て何やら喚いている。どうやら写真を返せと言っているようだ。私もむきになって、フィルム代を払うならあげても良いなどと押し問答をし、ふと気付くと回りは100人以上の野次馬に取り囲まれてしまった。こうなると先方も引き下がらない。面子の問題だ。30分ぐらいやりやって、何とか逃れた。勿論フィルムは渡さなかった。但し後で現像してみても、そんなに恐ろしい思いをしてまで守るような代物ではなかった。

2月2日、16日目。
飛行機の切符が取れたので、上海に戻る。流石に16日居ないと上海でさえも懐かしい。成都から2時間。初め飛行機は怖いと思っていたが、今回アントノフと言うプロペラ機に乗り、自信が付いてしまった。何しろ、成都から上海まで汽車だと50時間掛かるのだ。もう汽車には乗れない。飛行機では、スチワーデスが紙パックジュースを投げており、中国人の乗客がファーストクラスのトイレを使おうとしているのを文字通り摘み出していたが、そんなことにも慣れてしまった。

兎に角今回の旅は私を大いに成長させた。自信を付けさせた。怖いものが無くなり、今後の多くの旅行を可能にさせた。また同時に中国の広さを思い知らされ、少数民族の存在も意識させられた。極めて有意義な旅だった。

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