中国地方西部茶旅2020(5)安芸太田の茶処

これから吉賀町に戻っても夕飯を食べるところがないという。Uさんが『海が見えるレストランで食事がしたい』というので、車は帰る道と反対に海に向かっていく。宇部市のあたりまで来てしまったが、ネット検索したその食堂は港の中にあり、しかも閉まっていた。仕方なく、街中のスシローで寿司を食べたが、私にとっては、初めてのスシローであり、デザートまで食べて十分満足できた。

7月22日(水)広島へ

いよいよ今回の旅も最終日を迎えた。今日はインドパキスタンが専門のM先生も加わり、4人で出掛けていく。大学の授業はオンラインとなり、ネットさえあればどこでも授業ができるというので、フィールドワークに来ておられるらしい。コロナ禍にも良い面もあるのかもしれない。私もM先生と話していて、パキスタンやバングラの茶事情について知ることができ、有意義だった。

この吉賀という場所は島根県にあるが、一山超えればすぐに山口県である。今日は広島へ行くというから遠いのかと思ったが、山道を1時間半で広島駅まで着くらしい。ちょっと行けば広島県にも繋がっているのが、この辺の面白いところ。でも車がないとどこへも行けない(広島駅から吉賀町まで直通バスが運行しているらしい)。今日はちょっと雨の予感もある。

午前11時頃には広島駅付近に着いてしまった。そして目指すは広島風お好み焼きだ。有名なお店に開店と同時に突入して味わう。ソースやマヨネーズのいい匂い。いや、こういうのが食べたかったんだよな、という味がする。店内にはお客がどんどん入ってきて、コロナどこ吹く風状態だった。満足、満腹で店を出た。

それから安芸太田という辺りに向かう。道の駅へ行くと美味しそうなソフトクリームがあったので思わず食べる。本当に道の駅にはいろんなものが売っている。そこで地域振興を担当する方と待ち合わせて、お茶関連の場所まで案内してもらうことになっていた。雨脚が強まる。付近には加計という地名が見られるが、あの有名になった加計学園と何か関係があるのだろうか。

案内された場所は、広々とした民家だった。中に入ると実にきれいで驚いた。何と空き家を改装して貸し出す事業を行っているという。いわゆる民泊だろうか。見晴らしの良い農村風景、思わず座り込んで見とれる。地元の古老がやってきて、この地の茶の歴史が書かれた町史などをもってきて見せてくれる。

この付近も江戸時代は芸州浅野家の領地で、茶業も奨励されていたという。やはり江戸時代、作物が取れない山間部で、政策的に茶は作られていたということか。更に明治初期、茶の輸出が始まると、茶工場が建ち、茶問屋が茶葉を捌いていたらしく、広島県の茶処と言われたという。

隣の納屋のようなところへ行くと、昔使われていた釜炒り用の鉄釜と炉が残されていた。小さいので自家用かと思われるが、昨日も見たように、中国地方山間部は伝統的に釜炒り茶だった様子が見て取れる。果たしてこの釜炒り製法はどこからどのように伝わったのだろうか。それを解くカギは残念ながら今回見つからなかった。

この近くにお茶の専門家がいるので、と言われ待っていると女性がやってきた。Kさんという日本茶インストラクターで、何と私のことを知っているという。元々は九州の方で共通の知り合いもいた。今はこの地に移り住み、地域振興活動などもしているようだ。それにしてもこの山奥で、自分のことを知っているという人が現れるとは驚き以外の何物でもない。

いつのまにか雨も上がったので、周囲にわずかに残る茶畑も見た。こちらもこれまで同様、既に産業としての生産は終了しているといってよい。これからは民泊などを見据えた風景の一環として、茶畑や茶の歴史が登場するのかもしれない。

名残惜しかったが、加計地区を離れた。そして車で広島駅まで送ってもらい、そこで皆さんと別れて新幹線に乗る。M先生から『駅弁はたこめしがうまいですよ』と教えられたので、それを探す。今は乗客が少ないせいか、時間的な問題か、駅弁はわずかしか残っていなかったが、その中にたこめしがあったので、買い込んで慌てて新幹線に飛び乗る。

さすがに新幹線は空いていたが、夏休みシーズンを迎え、全国的にはGoToトラベルの運用が始まり、旅行客が戻ってくることだろう。だが、東京は除外されてしまった。これはどう見ても、国民に対する不公平な措置と言わざるを得ない。科学的根拠も示されず、恣意的な政策決定?アメリカなら必ず訴訟になるだろう。そして私の国内旅はここでまた一時中断を余儀なくされてこととなってしまった。

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